「比企尼」頼朝の20年におよぶ流人生活を支えた乳母

平治の乱で源義朝は平氏に敗れて殺され、その嫡男頼朝は命だけは助けられたものの、伊豆国に流されました。頼朝の流人生活は実に20年におよびます。その間に彼を支援したのが、頼朝の乳母である比企尼(ひきのあま)でした。

伊豆に配流された頼朝を支えた忠義の女性

比企尼の生没年や出身・実名は不明です。夫・比企掃部允(ひきかもんのじょう)の名から「比企尼」と呼ばれます。

平治元(1159)年の平治の乱で、頼朝の父・義朝は討たれました。すでに元服して平治の乱で初陣も果たしていた嫡男・頼朝も本来ならば斬首となるところですが、命は助けられました。平清盛の義母である池禅尼(いけのぜんに)が助命嘆願したためです。

永暦元(1160)年3月、頼朝は伊豆国に流されました。そこで最初は工藤祐継の監視を受け、彼が亡くなると伊東祐親が、そして最終的には北条時政が監視役を担いました。

頼朝の流刑地での暮らしは詳しくわかりませんが、伊豆に流されてから治承4(1180)年に以仁王の平氏打倒の挙兵に従うまでには20年の月日が流れています。

その長い間に頼朝を支えた恩人こそ比企尼でした。頼朝の乳母である比企尼は、頼朝が伊豆に流されると夫・比企掃部允とともに武蔵国比企郡を請所(荘園領主に年貢を納めることを条件に、守護・地頭・名主などが荘園管理を委任される精度)として関東に下向しました。

そして20年にわたって頼朝を援助したというのです。つまり、頼朝を支えるためにわざわざ関東までついていったというわけです。

この比企尼の逸話は、『吾妻鏡』寿永元(1182)年10月17日条に記載されています。

この日の記録は頼朝待望の嫡男・万寿(のちの頼家)が政子とともに帰ってきたという内容で、比企能員が万寿の乳母夫(めのとぶ/養育を任された後見人)となった理由に比企尼の存在があるとしています。

「能員姨母(号比企尼)。當初爲武衛乳母。而永暦元年御遠行于豆州之時。存忠節之餘。以武藏國比企郡爲請所。相具夫掃部允。々々々下向。至治承四年秋。廿年之間。奉訪御世途。今當于御繁榮之期。於事就被酬彼奉公。件尼以甥能員爲猶子。依擧申如此云々」

まず頼朝の乳母であった比企尼が忠義を尽くすために下向して頼朝を20年支えたことが説明され、頼朝がその恩に報いようと言うと、比企尼が甥の能員(のういん/比企尼の猶子)を推挙したため、能員が頼家の乳母夫に選ばれたのだ、と記されています。

事実比企氏は、比企尼の忠義のおかげでこの後頼家の後見人一族・外戚として力をもつことになります。

比企尼の子どもたち

比企尼には朝宗という男子がおり、当初は朝宗が比企氏の惣領であったと思われますが、のちに甥の能員を猶子とし、能員が惣領となっています。そのほか、比企尼の実子は娘が3人です。

比企朝宗は比企藤内と称し、頼朝挙兵後は源範頼(頼朝の異母弟)らに従って西海に下向、また奥州藤原氏の追討にも加わりました。朝宗の娘は、建久3(1192)年9月に北条義時に嫁いでいます。

この背景には、比企氏と北条氏を結び付けようという頼朝のねらいがあったものと思われます。朝宗の名は、建久5(1194)年を最後に『吾妻鏡』に見られなくなり、その後は不明です。比企尼が能員を猶子としたのは、朝宗が男子に恵まれなかったためかもしれません。

長女は二条天皇に仕えて丹後内侍(たんごのないし)と呼ばれた女性で、貴族で歌人の惟宗広言(これむねのひろこと)との間に島津忠久、若狭忠季をもうけたという説があります。その後に鎌倉幕府御家人の安達盛長と再婚しました。盛長との間には、頼朝の異母弟・源範頼の室がいます。

次女は桓武平氏の流れにある秩父氏の一族・河越重頼の室です。ふたりの間に生まれた娘は郷御前と呼ばれ、頼朝の命によって義経に嫁ぎ、義経と最期を共にしたといわれます。

三女は伊東祐清(すけきよ)の室です。祐清は頼朝の監視役であった伊東祐親の子です。頼朝が祐親の三女・八重姫との間に子をもうけて祐親の怒りを買い殺されそうになった時、頼朝を救って北条に逃がしたのが祐清だといわれています。

北条を頼るように言ったのは北条時政が祐清の烏帽子親であったことが関係していると思われますが、頼朝を救ったのは彼が頼朝の乳母・比企尼の娘婿であったことが関係していたのかもしれません。

比企尼は、娘婿らに対して頼朝を支援するよう命じていたようです。祐親に殺されそうになったところを助けられた出来事など、比企尼は仕送りをする以外にも娘婿を通じて目を光らせ、陰になり日向になり頼朝を支えていたことがうかがえます。

ちなみに、三女は祐清と別れたのちに平賀義信と再婚し、その間に頼朝の猶子となる平賀朝雅をもうけています。

第2代将軍・頼家の外戚となった比企氏

このように頼朝の大恩人といってもいい比企尼の一族は、猶子の能員が頼家の乳母夫に、また次女・三女が乳母となったことを皮切りに、頼家の後見人として力をつけていくことになります。そして能員の娘・若狭局が頼家の妻になり一幡、公暁を産むと、外戚として将軍家と強く結びつきました。

比企氏と将軍家は頼朝によって結び付けられたわけですが、頼朝の死後、頼朝室・政子の北条氏との間に対立を生むことになります。両者の対立は比企氏の乱に発展し、一族は北条時政に敗れて滅亡しました。

比企尼が頼朝に忠義を尽くしたことで得た権力は、長くは続かなかったのです。



【主な参考文献】
  • 『国史大辞典』(吉川弘文館)
  • 『世界大百科事典』(平凡社)
  • 『日本人名大辞典』(講談社)
  • 岡田清一『北条義時 これ運命の縮まるべき端か』(ミネルヴァ書房、2019年)
  • 永井晋『鎌倉幕府の転換点 『吾妻鏡』を読みなおす』(吉川弘文館、2019年)
  • 渡辺保『北条政子』(吉川弘文館、1961年 ※新装版1985年)
  • 『国史大系 吾妻鏡(新訂増補 普及版)』(吉川弘文館)※本文中の引用はこれに拠る。

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  この記事を書いた人
東滋実 さん
大学院で日本古典文学を専門に研究した経歴をもつ、中国地方出身のフリーライター。 卒業後は日本文化や歴史の専門知識を生かし、 当サイトでの寄稿記事のほか、歴史に関する書籍の執筆などにも携わっている。 当サイトでは出身地のアドバンテージを活かし、主に毛利元就など中国エリアで活躍していた戦国武将たちを ...

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