「安藤信正」井伊直弼暗殺後、幕政を主導した老中。公武合体運動の中心人物として、尊攘派の浪士に襲われる

 江戸時代、黒船来航によって日本は幕末を迎えます。当時の江戸幕府にあって、混迷する政治に公武合体という大きな道筋をつけた政治家がいました。老中首座の安藤信正(あんどう のぶまさ)です。

 信正は磐城平(いわきたいら)藩の藩主の子として誕生。藩主就任後は奏者番などの要職を歴任し、幕政に関わる立場となります。やがて井伊直弼のもとで老中となりますが、桜田門外の変で井伊が暗殺されたことで政権を握ると、揺れる幕府を立て直すために公武合体政策を推進。朝廷と幕府、諸藩の関係を強化する道を選択します。

 和宮降嫁を成し遂げて政治体制は盤石に見えましたが、尊王攘夷派に睨まれて坂下門外の変で襲撃。老中職を罷免されてしまいます。混迷する時代の中で、信正は何と戦い、どう生きたのでしょうか。安藤信正の生涯を見ていきましょう。

磐城平藩の藩主へ

磐城平藩の藩主の子として誕生

 文政2年(1819)、安藤信正は江戸の蛎殻町で磐城平藩第四代藩主・安藤信由の長男として生を受けました。生母は正室である老中・松平信明の娘です。幼名は鉄之進と名乗りました。

 磐城平藩の安藤家は、徳川将軍家の譜代の家柄です。代々徳川幕府において要職を歴任。三河安藤氏の傍流でありながら、三万石を領していました。信正は嫡男として、生まれた時から華々しい将来が約束された存在だったことになります。

 天保6年(1835)には将軍・徳川家斉に拝謁。同年には従五位下・伊勢守に任官しています。当時の信正は、学問に熱心な少年でした。儒学者・神林複所に師事し、納得がいくまで何度も質問を繰り返していたといいます。

 信正の聡明さは、少年時代に打ち込んだ学問が由来のようです。

磐城平藩主に就任

 しかし恵まれた信正にも、辛い別れ、そして人生最初の大きな転機が訪れます。弘化4年(1847)8月に父・信由が病没。信正は家督を相続して第5代藩主に就任。29歳のときでした。

 父の急死がきっかけで大名となった信正ですが、政治面で天才的なセンスを持っていたようです。家督相続の翌年(1848)には江戸幕府の役職である奏者番を拝命して将軍家への拝謁を取り仕切る立場として活躍、嘉永4年(1851)には三奉行の一つである「寺社奉行」に抜擢され、幕府政治の深い部分にまで関わるようになりました。

 平時であれば、信正は優秀な政治家として生涯を全うできたはずですが、嘉永6年(1853)のペリー来航(黒船来航)により、時勢は俄かに騒然としはじめるのです。

黒船来航(出典:wikipedia)
黒船来航(出典:wikipedia)

幕政の主導者に

 開国を迫られた幕府は、諸外国と和親条約や修好通商条約を締結。これに水戸藩などの尊王攘夷派が反発して幕閣を糾弾しますが、この政治上の混乱を収拾するため、幕府は新たな人事に乗り出します。

 安政5年(1858)、彦根藩主の井伊直弼が大老に就任し、反対派に対する大規模な政治的弾圧(安政の大獄)を開始。また、この年には信正も直弼のもとで若年寄に就任しており、安政7年(1860)1月には老中ならびに外国御用を拝命、ついに大老に次ぐ政治的要職を任されるほどに至ります。

 この頃は、攘夷派とみられる人々により、外国人や外国の施設に対する襲撃事件が頻発しました。さらには同年3月には、井伊直弼が桜田門外の変で暗殺されるという大事件が発生し、幕府の権威は大きく失われてしまいます。

桜田門外の変を描いた絵(出典:wikipedia)。井伊直弼は反対勢力を粛清(安政の大獄)した反動を受けて暗殺された。
桜田門外の変を描いた絵(出典:wikipedia)。井伊直弼は反対勢力を粛清(安政の大獄)した反動を受けて暗殺された。

 そして大老が空席となったことで、事実上の最高権力者となったのが老中の信正でした。この未曾有の国難において、以後の国政の舵取りは信正をはじめとした老中たちが担うことになるのです。

公武合体運動を推進

 信正は政治的混乱を収めるため、現実的な路線を選択します。以降の幕府政治は、再任を果たした久世広周(老中首座)と信正の2人が主導する形で進んでいきました。政治的権力を分掌することで、自分に対する非難を軽減する意図もあったと考えられます。

 さらに信正は、井伊直弼の公武合体路線を継承しつつ、より穏健な政策にシフトします。信正は朝廷と幕府の結びつきを強めるため、公武合体政策を推進していました。

 具体的な施策が、将軍・家茂への和宮(孝明天皇の妹)降嫁策です。天皇と将軍が義兄弟の関係となれば、幕府の正当性は担保できます。当然、尊王攘夷派からの批判もかわせると考えられていました。

1861年、孝明天皇の妹・和宮と、14代将軍徳川家茂の結婚が決まり、和宮一行は江戸に下向
1861年、孝明天皇の妹・和宮と、14代将軍徳川家茂の結婚が決まり、和宮一行は江戸に下向

 加えて井伊直弼との違いを打ち出すために冷徹とも言えるほどの手段をとっています。文久2年(1862)、井伊直弼の彦根藩に10万石減封を命令。現藩主の井伊直憲に、直弼の失政の責任を取らせる形でした。

 信正は一方では諸藩との連携も模索しています。その一つが、長州藩の執政・長井雅楽とも提携関係でした。信正は長井の「航海遠略策」を支持し、開国路線を推し進めていきます。

 外交問題においても、信正は持ち前のバランス感覚を活かしました。アメリカ総領事ハリスの通訳・ヒュースケン暗殺事件では、幕府はヒュースケンの母に1万ドルの弔慰金を支払うことで問題解決をしています。これはアメリカが南北戦争で日本に介入できない隙を狙ったものでした。

 さらに信正は、各国との修好通商条約締結によって起きた諸問題にも対処しています。金貨流出問題や物価高騰に対しては防止策を講じるなど、老中として国益を守りました。

坂下門外の変で失脚

 やがて信正の運命を変える事件が勃発します。文久2年(1862)1月15日、信正は江戸城に登るべく坂下門外を行列で通過。その瞬間、水戸浪士をはじめとする刺客六名が襲撃に及びます。

 桜田門外の変と同じく、襲撃者は尊王攘夷思想に感化された水戸浪士たちでした。和宮降嫁の推進により、信正は尊王攘夷派の恨みを買っていたようです。しかし信正は襲撃を予感し、行列の護衛を厚めに配置していました。結果、護衛の一団は辛くも信正を守り抜きます。

 信正は背中に負傷しますが、命に別状はなく、襲撃直後にはイギリス公使・オールコックと会談。対外的関係を重んじる姿はオールコックから賞賛されていますが、国内では全く味方が違っていました。信正が「背中に傷を受けた」ことが幕閣から問題視されたのです。

 武士の社会においては、背中の傷は卑怯傷や逃げ傷とされています。一介の武士であれば、主君から切腹を申し渡されても不思議ではありません。さらに信正には女性問題や、アメリカ総領事・ハリスからの収賄問題なども浮上。4月にはつい老中を罷免されてしまいました。

 溜間詰格(老中経験者などの待合室。幕政に政治的関与が可能)にはとどまりますが、政治的足場は失いつつありました。ともに公武合体政策を推進した同志たちも、政治の表舞台から姿を消していきます。同年には久世広周も罷免され、長州の長井雅楽も失脚しています。

 幕府は信正に隠居の上、謹慎を命令。さらに磐城平藩の所領の二万石が減封されるという厳しい処分が下りました。信正は家督を長男・信民に譲るものの、藩政の実権は握り続けていました。翌文久3年(1863)に信民が死去すると、甥の信勇(のぶたけ。内藤理三郎)に家督を譲っています。

戊辰戦争で佐幕派陣営に加わる

 時代の変遷は、磐城平藩の地にも及ぶことになりました。

 慶応3年(1867)10月、将軍・慶喜は大政奉還を断行。翌慶応4年(1868)1月には、旧幕府と明治新政府の間で鳥羽伏見の戦いが勃発します。国を二つに分けた戊辰戦争は、やがて全国へと波及して行きました。

 2月、藩主である養子・信勇は上京して新政府に恭順の意思を表明。対して信正は、佐幕派としての道を選びます。信正は隠居の地である江戸を出て磐城平藩に帰還。旧幕府軍の一員として戦うことを決意しました。

 当時の奥羽(東北地方)では、仙台藩や庄内藩が中心となって奥羽越列藩同盟を結成しています。信正も磐城平藩の事実上の指導者として、列藩同盟に参加しています。

 5月には、列藩の盟主・輪王寺宮(北白川宮能久親王)が磐城平藩に下向。信正は拝謁して金銭や刀剣を献上しています。

謹慎生活と所領安堵

再びの謹慎生活

 当然、明治新政府軍は磐城平藩を看過していません。6月から7月にかけ、新政府軍は三度にわたって磐城平藩に攻撃を仕掛けています。

 二度目の攻撃のとき、信正は自ら櫓に登り、多数の旗指物を立てて大軍が城に篭っているかのように見せかけたといいます。幕末には既に新式の銃や大砲も登場しています。まるで戦国時代のようなこの逸話が本当だとすれば、信正は決して戦争を得意とする人間ではなかったということでしょう。

 現に7月13日、磐城平城は新政府軍の攻撃によって落城。信正は家臣の忠告によって城を退去し、命拾いしたと伝わります。観念した信正は、新政府の総督府に降伏状を提出。磐城平藩としての抵抗をやめる道を選びます。信正は自ら謹慎生活に入りました。まもなく新政府からは永蟄居(終身の謹慎処置)の処置が下ります。

所領安堵を勝ち取り、磐城平藩の最後を見届ける

 佐幕派として官軍に抗戦したため、いずれ重い罰が降るかと予想されそうなものですが、磐城平藩は新政府に7万両を献納。減封処分を受けることなく、所領安堵を勝ち取っています。

 翌明治2年(1869)には信正の永蟄居の処分が解除され、晴れて自由の身となりました。しかし以降は政治の表舞台からは距離を取っています。そして明治4年(1871)8月、廃藩置県が断行。全国の藩は廃止され、磐城平藩も県に編入されて消滅します。

 信正は磐城平藩の消滅を見届けた後、同年10月に病を得て世を去りました。享年53。法名は謙徳院殿秀譽松巌鶴翁大居士。墓所はいわきの川嶋やま楢騎士院良善寺にあります。

 磐城平藩の藩主だけでなく、徳川幕府や日本国を守った優れた政治家としての一生でした。


【主な参考文献】
  • 山本博文監修『江戸時代人物控1000』(小学館、2007年)
  • 福島県いわき市HP 安藤信正生誕200年
  • 福島県教育委員会HP うつくしま電子事典 安藤信正

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  この記事を書いた人
コロコロさん さん
歴史ライター。大学・大学院で歴史学を学ぶ。学芸員として実地調査の経験もある。 日本刀と城郭、世界の歴史ついて著書や商業誌で執筆経験あり。

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