「井伊直弼」絶対的権力者は政治的弱者出身!?安政の大獄を主導した幕府大老

幕末は日本の夜明けと称されます。開国によって世界との交流が始まり、日本は新たな局面を迎えました。政治において開国を主導したのが、後に大老となる井伊直弼です。

直弼は隠居した藩主の十四男であり、本来は家督を継げる立場ではなく、一生日陰の身で終わるはずでした。しかし彼は研鑽を積み、自身を磨き続けます。やがて藩主となった直弼は、政治の表舞台に立ち大名たちをまとめ上げる立場となりました。

大老となった直弼は、政敵たちを次々と粛清。周囲に恐れられながらも、政治の安定のために身を捧げていきます。直弼は何を目指して戦い、どう生きたのでしょうか。井伊直弼の生涯を見ていきましょう。

家督相続までの修行時代

不遇の幼少期

文化12年(1815)、井伊直弼は彦根藩第十三代主・井伊直中の十四男として彦根城二の丸にある槻御殿で生を受けました。生母は側室・お富の方(君田富)です。幼名は鉄之介、後に鉄三郎と名乗りました。

幼少時の直弼は、決して恵まれた環境にいたわけではありません。直弼の出生時、父・直中は隠居の身でした。家督は兄の直亮が継いで藩主となっていました。

文政2年(1819)には母・お富の方が、天保2年(1831)には父の直中が亡くなってしまいます。直弼は十七歳にして庇護者を失ってしまったのです。

このとき、直弼は三の丸尾末町の屋敷に移ります。藩主の一族ではありますが、直弼は知行が300俵の部屋住みという身分です。

部屋住みとは、家督相続できずに分家や独立も行わず生家に止まっている状態でした。いわば直弼は彦根藩で飼い殺しに近い状態で存在していたのです。このとき自分自身を花の咲かぬ木に例え、屋敷の名前を「埋木舎(うもれぎのや)」と名付けていました。

学問と武芸の研鑽を積む

若年の直弼は、無為な日々を過ごしたわけではありません。早くから学問に精を出していきます。後に腹心となる長野義言(主膳)に国学を学び、師弟関係を結びました。また石州流の茶道を学び、茶人としても名を成します。他に和歌や鼓を修行し、居合道や兵学を学んでいます。

弘化3年(1846)、部屋住みだった三十二歳の直弼に転機が訪れます。藩主である兄・直亮の養嗣子である直元(直中の十一男)が病没したのです。これによって直弼は直亮の養嗣子となり、江戸に召し出されます。

世継ぎとなった直弼は、次代藩主として行動を始めます。直亮の帰国時には、代理で江戸城溜間(たまりのま)に出仕。堀田正睦など他の大名たちと交流を持っています。

溜間詰の大名は、将軍や老中の諮問に応えなるなど、幕府政治において発言力を有する身分でした。溜間詰は世襲制であり、直弼の家格や血筋を重視する考えはここで培われたようです。

嘉永3年(1850)、直亮が死去します。直弼は家督を相続し、彦根藩第15代藩主となりました。

藩の内外で政治を主導する立場となる

藩内の政治改革を行う

藩主となった直弼は、政治改革に乗り出します。国許の側役や筆頭家老を相次いで罷免。後任に長野義言の門人などを配置しています。

同年には、家中に8箇条の書付を発表。藩内一和を説いて人材の育成と登用を推進する旨を述べ、人材育成機関である藩校や家族の役割を重視していました。

後年のイメージとは違い、直弼は大胆な財政出動も実行します。

藩金十五万両を藩士や領民に分配。これを先代直亮の遺命だと称して実行しました。この政策により、直弼の治世の始まりを宣言する意図があったようです。

嘉永4年(1851)、直弼は藩主として始めて彦根に帰国を果たしました。ここで愛知郡や神崎郡の村々を巡見。以降、領内巡見は恒例となり、安政4年(1857)までに領内のほぼ全域を回っています。

嘉永5年(1852)、丹羽亀山藩主・松平信豪(のぶひで)の娘・昌子を正室に迎えました。同年には長野義言を彦根藩士として側近に登用しています。以降、藩の重役の多くは長野門下で占められていきます。

こうして直弼は自らの身辺を固め、盤石な体制を築き上げていました。

開国論で溜間詰の大名をまとめ上げる

嘉永6年(1853)、ペリー率いる黒船艦隊が浦賀沖に来航。直弼も江戸に出府して対応に追われます。

老中首座・阿部正弘は溜詰の大名に対して対策を諮問します。ここで直弼は鎖国の継続を上申します。しかし程なく、開国と通商路線に転換。海軍力の増強の後に鎖国体制に戻すことを主張しています。

このとき、阿部正弘は譜代大名が主導する幕府政治に限界を感じていました。そこで雄藩も加えようと画策を始めます。ほどなくして、水戸徳川家の徳川斉昭が海防参与に就任。斉昭は攘夷論を強硬に主張し、直弼ら溜詰の諸大名と対立していきます。

この対立は、後に将軍継嗣問題においても関わっていきました。

安政4年(1857)、アメリカ総領事であるタウンゼント・ハリスが江戸城で将軍家定に謁見。大統領の親書を提出した上で通常条約交渉を求めました。ここで直弼は溜間詰の松平容保(会津藩主)ら9人の大名をまとめ上げます。通商交渉を受け入れる旨の意見書を連名で提出するに至りました。

安政の大獄で政敵を弾圧する

幕府大老に就任する

行動力と家柄を持つ直弼は、将軍・家定からも期待をかけられていました。安政5年(1858)、直弼は大老職を拝命。日米修好通商条約(ハリス)の調印と将軍継嗣問題に最前線で指揮を執る立場となります。

当時の将軍・家定には継嗣が不在でした。このとき徳川斉昭は自身の七男・徳川慶喜(一橋家当主)を将軍に推しますが、直弼は将軍家定と血筋が近い紀州藩主・徳川慶福(家茂)を推薦します。

一橋派と南紀派の対立は、幕府政治においても影響を及ぼしていました。

条約調印問題では、直弼は勅許を得てからの条約調印を主張します。しかしハリスの元に派遣された下田奉行の井上清直と目付・岩瀬忠震は、勅許なしで日米修好通商条約に調印してしまいました。これには直弼の黙認があったとされます。

ハリス条約調印のイラスト
ハリス条約調印は、井上清直と岩瀬忠震の2人が神奈川沖のポーハタン号に赴いて艦上で実施。アメリカ側の全権はハリス。

これに反発した徳川斉昭や松平慶永らが江戸城に不時登城の上、直弼を糾弾します。しかしその翌日、徳川慶福が将軍継嗣に決定。将軍継嗣問題は直弼ら南紀派の勝利に終わったのです。

同年には将軍の家定が死去。慶福は”家茂”と改名して将軍宣下を受けています。

安政の大獄

直弼は、一橋派と開国に反発する尊王攘夷派への弾圧を強めていきました。世にいう「安政の大獄」の始まりです。

同年、孝明天皇は水戸藩に戊午の密勅を下します。幕政への批判と改革を求めた内容でした。直弼は密勅降下の首謀者を儒学者・梅田雲浜と断じ、京都所司代に捕縛させます。さらに反幕府的動きを察知し、全国において志士たちの摘発を行いました。幕府は福井藩士の橋本左内や、長州の吉田松陰らを捕らえ、江戸に護送しています。

安政の大獄のイメージイラスト

安政6年(1859)には、幕府への密勅返納を命じた勅書が下ります。直弼は次に皇族や公卿らへの弾圧を強化。青蓮院宮尊融入道親王や二条斉敬らを隠居や謹慎に処していきます。

諸国の志士たちに対しては、より苛烈な処分を下します。本来ならば橋本左内などは流罪や永蟄居相当です。しかし直弼は評定所の意見を退け、死罪とするように働きかけています。

処罰は一橋派の幕臣も対象となりました。川路聖謨や永井尚志らは慶喜の擁立に関わったため、役職を免じられています。幕閣でも老中・久世広周や間部詮勝らが罷免されるなど、直弼の強権ぶりが注目されていきました。

桜田門外において水戸浪士に討たれる

水戸藩改易を打診する

直弼は尊王攘夷派から反感を買う中、水戸藩に密勅の返還を求めます。藩主・慶篤らは大評定を開いて返納を決定。しかし水戸藩の藩士や領民らが街道に駐屯して阻止しようとします。

開けて安政7年(1860)、直弼は登城した慶篤に密勅の返納を求めます。返納が遅延した場合、違勅の罪を斉昭に問うて水戸藩を改易すると述べました。

直弼のこの発言は、水戸藩士たちを激怒させました。脱藩した高橋多一郎らは、直弼を襲撃するべく計画を練っていきます。この不穏な動きに対して、吉井藩主・松平信和は直弼に忠告しています。大老辞職の上、彦根に戻るべきだというのです。しかし直弼は聞き入れませんでした。

桜田門外の変で散る

同年の雪が降る3月3日、直弼の駕籠は外桜田の彦根藩邸を出て江戸城に向かいます。供回りは60名ほどでした。

桜田門外の杵築藩邸を過ぎる時、直訴に及んだ者がいます。行列が止まった瞬間、一発の銃弾が駕籠を貫きました。
直弼は体を貫かれて出血。重傷を負って動けません。行列の周囲からは水戸浪士たちが抜刀して襲いかかってきました。

桜田門外の変における襲撃図(月岡芳年 画)
雪が降る日に起きた「桜田門外の変」での襲撃図(月岡芳年 画)

彦根藩士たちは懸命に直弼の駕籠を守ります。しかし雪除けの柄袋によって抜刀することが出来ずにいました。次々と彦根藩士たちが討たれていく中、直弼の駕籠は何度も水戸浪士の刀で突き刺されます。やがて瀕死の直弼が駕籠から引きずり出されました。そのまま首を刎ねられ、直弼は討たれてしまいました。

享年46。戒名は宗観院柳暁覚翁。墓所は菩提寺である豪徳寺にあります。

この桜田門外の変によって、幕府の権威は完全に失墜。日本の政治は混迷を深めていきます。その後の彦根藩は、直弼の次男・直憲が相続しています。ほどなく一橋が政権を握ったため、彦根藩は10万石の減封を言い渡されました。


【主な参考文献】

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  この記事を書いた人
コロコロさん さん
歴史ライター。大学・大学院で歴史学を学ぶ。学芸員として実地調査の経験もある。 日本刀と城郭、世界の歴史ついて著書や商業誌で執筆経験あり。

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