「徳川家茂」江戸幕府第14代将軍・動乱の時代に朝廷と幕府の融和を追い求めた男!

勝海舟が「徳川家、今日滅ぶ」、とその死去を嘆いたほどの人物がいます。江戸幕府第14代将軍・徳川家茂(とくがわ いえもち)です。


彼は幼少の身で将軍に就任し、混乱する政局に当たっていきます。自らに厳しく、周囲に温かく接する人柄を持っていました。正室和宮をはじめ、多くの人間が惹かれていきます。


家茂は公武合体運動を推進し、朝廷との融和を実現させます。その先には新しい時代を見据えていました。彼は何を目指し、何と戦っていったのでしょうか。徳川家茂の生涯を見て行きましょう。


紀州藩主から征夷大将軍へ駆け上がる

紀州藩主の次男として誕生


弘化3(1846)年、徳川家茂は紀州藩主・徳川斉順(なりゆき)の次男として江戸の紀州藩邸で生を受けました。生母は側室・みさ(実成院)です。幼名は菊千代と名乗りました。



家茂が出生する前に、既に父の斉順は死去しています。そのため、叔父である徳川斉彊(なりかつ)が紀州藩主に就任していました。しかし、嘉永2(1849)年に斉彊が病没。家茂はその養子として家督を継承して藩主となりました。わずか四歳のときです。


嘉永4(1851)年、家茂は元服して12代将軍・家慶より偏諱を賜っています。さらに従三位に叙せられ、常陸介に任じられました。


紀州藩は徳川御三家(徳川将軍家に次ぐ地位を持っていた尾張徳川家、紀州徳川家、水戸徳川家の三家のこと。)の一つです。将軍を輩出したこともある家柄であり、藩主の責任は重大なものでした。


幼少の家茂は風流を好み池の魚や籠の鳥を愛でる少年だったと伝わります。しかし元服後は、自らのささやか楽しみさえ捨てて文武両道を修めるようになったとされます。その藩主としての意識の高さは、家臣たちから敬服されていたと伝わります。


征夷大将軍となる

しかし幼少の家茂が藩の実権を握っていたわけではありません。
幼少であったため、元藩主・徳川治宝が藩政を後見。その後、付家老・水野忠央が補佐しています。
この間、家茂は江戸に滞在したまま藩主の座にありました。


安政5(1858)年、13代将軍・家定の後継者の座を巡って政争が展開されていきます。


この将軍継嗣問題の対立構図は以下のとおりです。



◆ 南紀派(徳川慶福を支持)

  • 井伊直弼(大老)
  • 平岡道弘(御側御用取次)
  • 薬師寺元真(御側御用取次)
  • 松平容保(会津藩主)
  • 松平頼胤(高松藩主)
  • 水野忠央(紀伊新宮藩主)

など…


VS


◆ 一橋派(一橋慶喜を支持)

  • 徳川斉昭(前水戸藩主)
  • 徳川慶勝(尾張藩主)
  • 松平慶永(越前藩主)
  • 島津斉彬(薩摩藩主)
  • 伊達宗城(宇和島藩主)
  • 堀田正睦(老中、佐倉藩主)

など…



大老の井伊直弼ら南紀派は家茂を推薦。元水戸藩主の徳川斉昭(なりあき)らは、一橋派を形成して徳川慶喜を擁立します。ここで井伊らが斉昭らを不時登城の罪で糾弾。家定も一橋派の処分を行なったために、後継者争いは南紀派の勝利に終わります。


同年に家定が死去すると、家茂が江戸幕府14代将軍となりました。家茂がわずか十三歳でのことです。


家茂の人柄

気配りの将軍

しかし実際の将軍権力は、以前より抑制された状態にありました。
文久2(1862)年まで慶喜が将軍後見職の地位にあったためです。


さらに将軍宣下の際にも、その傾向は見られています。
以前の将軍宣下であれば、将軍は上座の位置で朝廷からの勅使を出迎えました。
しかしこの頃には、尊王攘夷の運動によって朝廷の権威が増大。勅使が上座に座り、将軍である家茂が下座に座っています。


しかし家茂には、屈折も驕った様子もありませんでした。幕臣・戸川安清との逸話が家茂の人となりを伝えます。


戸川は七十歳を過ぎた老齢ながら、書の達人として知られていました。そのため家茂の手習の指導を任されます。
ある日、戸川が書道の指導を行っていたときのこと。突然家茂が墨を摺る水を手に取りました。そのまま戸川の頭の上から水をかけ、家茂は手を打って笑います。「あとは明日に」との言葉を残し、家茂は出ていきました。
あまりの事態に、同席していた側近たちはこれを嘆きます。戸川もその場で泣き崩れてしまいます。
しかし戸川に尋ねると、意外な答えが返ってきました。
戸川は指導の最中に失禁していたといいます。


慣例からすれば、戸川には厳罰が下される可能性がありました。家茂はそれを避けるため、あえて水をかけて隠して戸川を守ったのです。


和宮降嫁と公武合体

将軍となった家茂は、幕府政治の安定に力を注ぎます。その一環として選択したのが、朝廷と幕府を結ぶ公武合体運動でした。

文久2(1862)年、家茂は和宮親子内親王(孝明天皇の妹)を正室に迎えます。形の上では、家茂は孝明天皇の義理の弟となりました。


家茂と和宮は、良好な夫婦関係を築いています。家茂は側室を置かず、仲睦まじく過ごしたと伝わっています。家茂は気配りを欠かさず、和宮に金魚やかんざしを送った話が残っています。


文久3(1863)年、家茂は上洛。老中・板倉勝静ら三千人が付き従っていました。将軍の上洛は、およそ230年ぶりのことです。つまりそれほどに、幕府の権威が低下していたということでもあります。


家茂は朝廷に参内の上、孝明天皇に謁見して攘夷の実行を約束。同時に幕府への大政委任への謝辞を述べ、その再確認をしています。


大政委任論は、江戸幕府が自らの正統性を主張した理論です。将軍が天皇から大政を委任されて日本国の統治を行なっている、というものでした。公武合体運動の目的の一つが達成された瞬間でもありました。


さらにこの後、実際に家茂は攘夷実行の約束を果たすべく行動に出ています。


軍艦・順動丸で海上から大坂を視察。軍艦奉行・勝海舟から軍艦の機能の説明を受けることができました。
勝はこのとき、海軍操練所の設置を家茂に直訴して受け入れられています。


順動丸を描いた錦絵『海上安全万代寿』(河鍋暁斎 画、早稲田大学図書館 蔵)
順動丸を描いた錦絵『海上安全万代寿』(河鍋暁斎 画、早稲田大学図書館 蔵)

攘夷運動とのせめぎ合い


攘夷と外国との関わり

しかし家茂にはまだ試練が続きます。

ほどなくして、家茂は孝明帝と石清水八幡宮へ参内することになります。しかし攘夷の命を下されるのを避けるために、直前に体調不良を理由に離脱。結果として尊王攘夷派から殺害予告の落首が掲げられるなどしています。


朝廷は家茂の江戸への帰還を許可しなかったため、老中・小笠原長行が軍勢を率いて海路から大坂に上陸。入京して武力制圧を図ろうとする一幕もありました。家茂はこれを押し留めて事なきを得ています。

家茂は身の安全を考慮し、大坂から海路で江戸に帰還することを決定。軍艦に乗船しています。


家茂は軍艦の旅で近代文明の発展に触れています。
陸路では22日かかった日程が、海路の軍艦ではわずか3日で済んだのです。
家茂は軍艦奉行の勝を深く信頼し、勝もそれに応えて生涯の忠誠を誓ったといいます。


家茂は国際関係にも強い関心を持っていました。
当時のフランスでは、蚕に伝染病が発生。同国の養蚕業は壊滅的な状況に瀕していました。


元治2(1865)年、家茂は日本の蚕卵を集めて、フランスのナポレオン3世に贈りました。結果として、この蚕を研究することで伝染病の原因が解明されています。

これより後の慶応3(1865)年には、ナポレオン3世は幕府への謝礼として、軍馬のアラビア馬を贈っています。これは軍馬の品種改良のためで、飼育の伝習も行われていました。


慶喜への不信感を露わにする

慶応元(1865)年、家茂は二度目の上洛を果たします。
この間、老中の阿部正外らは兵庫開港を決定。結果、朝廷から処罰されてしまいます。


幕府人事への介入は、家茂を激怒させました。これにより、一度は将軍職の辞職を申し出るに至ります。結果、孝明天皇はこれを慰留した上で人事への不干渉を約束しています。


家茂の不満は徳川慶喜にあったようです。
この時、慶喜は朝廷内部で禁裏御守衛総督兼任摂海防御指揮の役職を得て発言力を増大させていました。


家茂の辞職願いは、慶喜への不信感もあったようです。将軍継嗣問題は、このときまで後を引いていたことがわかります。


家茂、最後の戦い

長州征伐のため大阪城に赴く

家茂は朝敵となった長州藩の対処に追われます。

慶応2(1866)年、家茂は第二次長州征伐に際して大坂城に逗留。しかしここで病を得ます。
朝廷と江戸城から、多数の医師が派遣されますが、治療の甲斐なく家茂は世を去りました。享年二十一。遺体は汽船・長鯨丸によって江戸に運ばれました。


勝海舟は日記に記しています。家茂の死に際し「徳川家、今日滅ぶ」と。成長すれば英邁な君主なるという大きな期待があったようです。


家茂は死の直前、次期将軍たる徳川宗家の後継者を定めています。そこで指名されたのが、御三卿の田安亀之助でした。
しかしこれは叶うことはありませんでした。かつて争った徳川慶喜が将軍職に就くことになるのです。


家茂の死因

昭和になってから、徳川将軍家の墓地が改葬されることになりました。徳川家の人々の遺体の調査も行われ、家茂の身体の状況も解明されています。


家茂は残存歯の31本中30本が虫歯と、その度合いが酷かったといいます。


家茂は大の甘党で羊羹やカステラ、金平糖などのを好みました。虫歯が多くなったことは必然の結果だと言えます。
この虫歯が家茂の体力を奪い、脚気を患ったことで家茂の命を奪ったと考えられています。


さらには幕府奥医師たちの誤診も関わっているようです。高階経由ら漢方医は脚気と診断したものの、蘭方医の奥医師たちはリウマチだと主張していました。この誤診自体も家茂の命を奪うことになったと考えられています。



【主な参考文献】
  • 山口和夫『近世日本政治史と朝廷』 吉川弘文館 2017年
  • 徳川恒孝監修 『徳川家茂とその時代ー若き将軍の生涯ー』 江戸東京博物館 2007年
  • 篠田達明 『徳川将軍家十五代のカルテ』 新潮社 2005年
  • 鈴木尚 『骨は語る 徳川将軍・大名家の人びと』東京大学出版会 1985年
  • 和歌山市史編纂委員会『和歌山市史 第6巻(近世資料2)』和歌山市 1976年

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  この記事を書いた人
コロコロさん さん
歴史ライター。大学・大学院で歴史学を学ぶ。学芸員として実地調査の経験もある。 日本刀と城郭、世界の歴史ついて著書や商業誌で執筆経験あり。

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