「久世広周」安政の大獄で井伊直弼と対立!?老中首座として安藤信正とともに公武合体運動を推進

 尊王攘夷運動が勢いを得ていた幕末。その中で開国政策と公武合体運動を展開し、命懸けで幕府政治に携わった男がいました。関宿藩主で時の老中であった久世広周(くぜ ひろちか)です。

 広周は旗本の次男から関宿藩主となり、同藩の藩政改革を断行。老中になると開国政策に踏み切り、日本の近代化に貢献します。安政の大獄では井伊直弼を敢然と批判。一時は政治生命の危機に瀕しますが、再び老中に返り咲きました。

 しかし坂下門外の変が起きると事態は一変。盟友の安藤信正とともに幕府から罷免されてしまいます。その後、広周と関宿藩にはどのような結末が待っていたのでしょうか。本記事では久世広周の生涯を見ていきます。

関宿藩主としての実績

旗本の次男から関宿藩主へ

 文政2年(1819)、久世広周は旗本・大草高好の次男として生を受けました。幼名は謙吉です。父の大草高好は3500石の旗本で、勘定奉行や江戸北町奉行を歴任したこともある人物です。天保10年(1839)に起きた言論弾圧事件「蛮社の獄」では渡辺崋山らの吟味も行なっています。

 文政13年(1830)8月には関宿藩主・久世広運が病没。当時は長子相続が原則であり、広周は次男であったため、他家に養子入りしなければ家督は継げないのですが、広運に実子がいなかったことで、広周に白羽の矢が立ちました。そして同年の10月、広周は広運の末期養子となって久世家の家督を相続、わずか12歳で突如として同藩5万8千石の藩主となるのです。

 久世氏は村上源氏の久我流(総本家)の流れを汲む家柄です。三河国額田郡在住の小野高長が母方の姓である久世氏を称して家祖となりました。その孫である久世広宣が徳川家康の直参となり、下総や上総に2500石を領する旗本に取り立てられます。そして寛文9年(1669)には広宣の子・広之が大名に就任。関宿藩の藩祖となっています。

※参考: 関宿藩(1590~1871年)の歴代藩主
※ 譜代、2万→4万
  • 初代:康元(やすもと)
  • 2代:忠良(ただよし)
※ 譜代、2万6千石
  • 初代:重勝(しげかつ)
※ 譜代、2万2千7百石
  • 初代:政信(まさのぶ)
  • 初代:貞信(さだのぶ)
※ 譜代、2万石
  • 初代:氏重(うじしげ)
※ 譜代、1万7千石→2万7千石
  • 初代:信成(のぶしげ)
  • 初代:親成(ちかしげ)
※ 譜代、5万→4万5千石
  • 初代:重宗(しげむね)
  • 2代:重郷(しげさと)
  • 3代:重常(しげつね)
※ 譜代、5万石
  • 初代:広之(ひろゆき)
  • 2代:重之(しげゆき)
※ 譜代、5万3千→7万3千石
  • 初代:成貞(なりさだ)
  • 2代:成春(なりはる)
※ 譜代、5万→6万→5万8千→6万8千→5万8千→4万8千→4万3千石
  • 初代:重之(しげゆき)
  • 2代:暉之(てるゆき)
  • 3代:広明(ひろあきら)
  • 4代:広誉(ひろやす)
  • 5代:広運(ひろたか)
  • 6代:広周(ひろちか)
  • 7代:広文(ひろふみ)
  • 8代:広業(ひろなり)

出世の登竜門

 関宿藩(せきやどはん)は関東平野の中央に位置します。藩庁は下総国葛飾郡(現在の千葉県野田市)の関宿城にありました。関宿は利根川・渡良瀬川・常陸川の三大水系が交わる地点にあり、水運の要衝地として知られていました。

 戦国時代には、戦国大名が関宿を巡って何度も衝突。北条氏康をして「関宿を手に入れることは、一国を取ることにも変えられない」と述べたほどでした。そのため江戸開府後は、信任の厚い譜代大名が関宿藩主に任じられています。

 関宿藩主のうち22名が老中に、3名が京都所司代に就任。いわば同藩主の座は、幕府政治における出世の登竜門としての意味もありました。

 天保3年(1832)10月、時の11代将軍・徳川家斉に拝謁し、翌年の12月には従五位下隠岐守に叙任されています。以降も広周は順調に官歴を重ねていくことになります。

 天保9年(1838)には奏者番を拝命。城中における武家の礼式を管理する立場となりました。

 奏者番とは、将軍と大名・旗本の取次を行う役職です。将軍の御前で元服を行う大名や、その世子に礼法を享受する任務も負っていました。譜代大名にとって多くの場合は初任の役職です。しかしその重要な役目柄、大目付と並ぶほどの重職と認識されていました。

関宿落としの開削を実現させる

 関宿藩にとって喫緊の課題は、治水対策でした。三大水系をはじめとする水利に恵まれている分、関宿藩領は洪水による被害を度々受けています。藩では水利施設を数カ所設けて水流調整を行っていましたが、効果は十分ではありませんでした。

 広周は嘉永元年(1848)に西丸老中(将軍家世子に仕える老中)に就任し、国政に携わりながらも、国許の治水政策に力を入れました。藩士・船橋髄庵(ふなばし ずいあん)を登用して「関宿落とし」と呼ばれる用排水路を開削させており、翌年に完成させて、領内の水害被害を軽減することに成功しています。

井伊直弼への批判と航海遠略策

安政の大獄で井伊直弼を非難

 嘉永4年(1851)には、将軍家に仕える本丸老中を拝命し、より深く幕府政治に関わっていくこととなりました。

 広周は早い段階から開国派としての考えを抱いていました。当然、その思いは政治に反映されていきます。

 幕府は安政5年(1858)に日米修好通商条約を調印。尊王攘夷派の反発を招きますが、広周はこの調印に賛成していました。

 しかし同年に、広周は政治生命の危機に見舞われます。

 この当時、将軍継嗣問題が勃発していました。大老・井伊直弼の裁定もあり、次期将軍を紀州藩主・徳川慶福に決定。井伊の政敵である一橋派は政治的弾圧を受けていくことになります。一橋家当主・徳川慶喜と越前藩主・松平慶永は隠居謹慎。水戸藩の徳川斉昭は永蟄居という処分が下ったのです。

井伊直弼は、自身の政治に批判的であった者らを次々と処罰していった
井伊直弼は、自身の政治に批判的であった者らを次々と処罰していった

 こうした粛清劇の中で、広周は井伊直弼の下した処分に対し、強烈な批判を展開します。しかしその結果、井伊直弼の怒りを買って老中と外国御用取扱を罷免され、広周は国政の表舞台から追放されてしまうのです。

復権し、航海遠略策の後押しを行う

 しかし広周は政治への関心を失ってはいません。安政6年(1859)には、杉山対軒を関宿藩の家老に抜擢するなど、藩内統治には抜かりがなかったようです。

 そして安政7年(1860)の桜田門外の変で井伊直弼が水戸浪士に討たれたのをきっかけに、万延元年に改元された同年、広周は安藤信正と共に老中に就任、再び政治に関わることに…。このときに関宿藩は1万石を加増され、6万8千石となっています。

 いわば広周は幕府の最高権力者として、安藤と共に公武合体政策を推進、朝廷と幕府の融和を目指していくこととなるのです。

 公武合体運動は、当時の長州藩の首脳部も受諾。その代表が長州藩・直目付であった長井雅楽です。文久元年(1861)11月、広周と安藤信正は江戸で長井と会談。長井は広周らに「航海遠略策」を建白しています。

 航海遠略策は、開国によって富国強兵を目指すという思想です。長井は単純な外国人排斥である小攘夷と条約破棄の破約攘夷を批判。積極的航海によって開国と通商のために動き、国力を高めて諸外国と対峙するべき(大攘夷)だと主張しました。

 ここで広周は長井に公武の周旋活動を依頼。長州藩の藩論は公武合体論となっています。

公武合体を実現させる

和宮降嫁を実現させる

 広周らが公武合体において最重要と位置付けたのが和宮(孝明天皇の妹)降嫁でした。同年11月には、和宮内親王が江戸城内の清水徳川家屋敷に入ります。このとき、広周と安藤は朝廷の岩倉具視らと会見。岩倉はここで「幕府が和宮を人質にして、天皇に譲位を迫るつもり」という風聞を取り上げます。

 岩倉は「幕府に二心が無いことを示すため、将軍・家茂の誓紙を朝廷に献上すべき」と主張しました。同年12月、和宮内親王は江戸城本丸の大奥に入城。ここにおいて家茂は誓紙を書くことを決定。広周らも副書を書いて岩倉に預けています。

 この婚儀によって、孝明天皇と将軍・家茂は形式上は義兄弟となりました。しかし一連の広周らの行動は、尊王攘夷派の猛烈な反発と怒りを買うこととなります。

坂下門外の変で罷免される

 やがてそれは目に見える形となって現れました。文久2年(1862)1月、安藤信正は江戸城に登城するために磐城平藩の藩邸を出立。坂下門に差し掛かります。

 ここの場所で水戸浪士ら6名が安藤の駕籠を襲撃。刺客らはいずれも討ち取られましたが、安藤も背中を負傷しています。世にいう「坂下門外の変」です。

 同年の4月、これを受けて安藤は老中職を罷免されました。安藤の処分は、広周にも波及します。5月には勝手掛と外国御用取扱掛を解任。6月には連座する形で老中職の罷免を言い渡されています。

 処分においては、安政の大獄において井伊直弼の暴挙を止められなかったことと、公武合体政策の失敗などの責任を問われています。

不遇の晩年

 同年8月には、幕府から関宿藩主からの強制隠居を命じられました。これを受けて長男の広文が藩主に就任しています。しかし関宿藩の所領は6万8千石から1万石が減封。以前と同じく5万8千石を称することになります。

 11月、広周に永蟄居処分が下されました。永蟄居は閉門の上、自宅の一室に謹慎させる処分です。通常の蟄居とは違い、永蟄居には解除がありません。つまり広周は、国政や藩政にいてあらゆる政治生命が絶たれたことを意味していました。

 広周の永蟄居処分に伴い、関宿藩はさらに1万石を減封。4万8千石となってしまいました。

 元治元年(1864)、失意のうちに世を去りました。享年46。戒名は自護院殿候倹徳忠山日秀大居士。墓所は巣鴨の本妙寺にあります。

広周没後の関宿藩

 広周の死後、関宿藩では内部対立が深刻化。佐幕派と討幕派が政治的衝突を繰り広げていきます。

 慶応4年(1868)、戊辰戦争において広文は江戸城を守備。佐幕派としての立場を鮮明にしています。しかし討幕派は広文の身柄を奪おうと画策し、佐幕派と争うことになってしまいました。

 広文は佐幕派の立場でしたが、まだ年若であり藩内抗争を止めることが出来ません。むしろ藩内からは彰義隊に加わる者さえ出る有様でした。

 結局、広文らは新政府軍に敗北。5千石を削減された上、強制的に隠居となり、官位剥奪の処分を受けています。


【主な参考文献】

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  この記事を書いた人
コロコロさん さん
歴史ライター。大学・大学院で歴史学を学ぶ。学芸員として実地調査の経験もある。 日本刀と城郭、世界の歴史ついて著書や商業誌で執筆経験あり。

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