「老中」とは、どんな役職だった?首座・勝手掛・大老などもあわせて解説
- 2021/06/16
江戸時代を舞台にした小説やドラマなどで、幕府関係者が出てくると「老中」という言葉が頻出しないでしょうか。幕政に関わる偉い人、というイメージに間違いはないのですが、具体的にどういった権限を持った役職だったのかは少し曖昧ですよね。
一口に老中といっても、その中には臨時大権を持つものや、限定した範囲で強力な権限を発揮するものなど、いくつかのバリエーションがありました。今回は、そんな「老中」がどういった役職だったのかをみていくことにしましょう!
一口に老中といっても、その中には臨時大権を持つものや、限定した範囲で強力な権限を発揮するものなど、いくつかのバリエーションがありました。今回は、そんな「老中」がどういった役職だったのかをみていくことにしましょう!
※老中の職制は時代とともに変化しており、本コラムは概論、または主に幕末段階での状況を想定しています。
老中とは
老中とは江戸幕府常設の最高執政職のことであり、徳川将軍を補佐して幕政を統括する役目を担っていました。江戸時代初期にはこれに相当する役職は「年寄衆」などと呼ばれ、「老中」の語が用いられるようになったのは寛永期(1624~45年)の頃とされています。
老中の正確な起源は不明ながら、文禄2年(1593)の「大久保忠隣」「本多正信」の任命、または慶長12年(1607)の「酒井忠世」以下3名の任命に始まるなどの説があります。
老中は延宝期(1673~81年)以降、3万石以上の譜代大名から任命されました。おおよそ4~5名を定員として、寛永12年(1635)以降は月ごとの当番制で政務にあたりました。重要事項については合議制を採用することもありましたが、基本的に月番の老中は一人で政務を担当したようです。
江戸幕府の政治機構について、将軍を総理大臣とした内閣に例えることがありますが、それは正確ではありません。老中は現在の閣僚のように細分化された職掌に分かれていたわけではなく、それぞれ同等に近い広範な幕政に関わっていたためです。強いて例えるならば、将軍を大統領として複数名の首相格が月交替で執政した状態といえるでしょうか。
老中の職務は、寛永11年(1634)の規定では「禁中(内裏)・公家・門跡のこと」「国持以下、1万石以上の大名のこと」「国家財政のこと」などのほか、都市計画や寺社仏閣の建築、知行割りや外国への対応など多岐にわたっていました。
この職掌は時代とともにさらに広範囲をカバーするようになり、幕末には本格的な海外対応や近代軍制の推進までをも統括するようになります。
老中間の序列については、後述する老中首座を除いて先任順が基本となっていました。ただし「酒井雅楽頭」「酒井左衛門尉」のようにすぐ首座や次座となった例もあり、その場合は執務歴より階級が優先されました。
『国史大辞典』によると、江戸時代を通した老中の平均就任期間は約10年としていますが、在任は短ければ1か月、長ければ33年という例もあり、一様ではありません。
また、老中就任時の平均年齢は45歳とされていますが、天保14年(1843)に就任し開国へと舵を切ったことで有名な「阿部正弘」は、実に25歳の若さで老中になったことが知られています。
老中の中には筆頭格を務める者や特殊な権限を持つ者、あるいは臨時で大権を委任される者などのバリエーションがあります。以下にその種類について、概略をみてみましょう。
老中首座
平均して4~5名が常置されたという老中の中において、その筆頭となるのが老中首座です。主席老中ともいえる立場であり、家格や着任順を考慮して任命されました。歴史上有名な老中首座としては、寛政の改革を行った「松平定信」や、天保の改革で知られる「水野忠邦」、幕末に開国を推進した「阿部正弘」などが挙げられます。
勝手掛老中
5代将軍・綱吉が延宝8年(1680)、「堀田正俊」に財政と幕領農民についての政策に特化した権限を与えたのが始まりとされています。上記の管轄については相当程度の独断が許されていたため、強大な影響力をもったといいます。堀田の死後はしばらく空白となっていましたが、8代将軍・吉宗の時代に復活され、享保7年(1755)に「水野忠之」が勝手掛老中に任命されました。
与えられた権限内での自由度が高いかわりに職責も重大であったため、老中首座が兼任する場合も多くありました。ただしそれは原則ではなく、時代や状況によってさまざまな形態で運用されています。そのため、老中首座=勝手掛老中というイメージは正確ではありません。
大老
将軍補佐の任務を負う、幕府の臨時最高職が大老です。定員は1名で、通常の老中と異なるのは上記の通り常設された役職ではない点にあります。その地位は老中の上に位置付けられ、重要な政策決定に関与しましたが実際に幕政を左右したのは幕末の事例であり、それまでは名誉職的な側面が強かったと考えられています。
大老に就任できる家柄は「井伊」「酒井」「土井」「堀田」の四家のみであり、幕末に「井伊直弼」を輩出したことで有名な井伊家は大老職にしか就任していません。
その起源には諸説ありますが、寛永15年(1638)に老中の「土井利勝」「酒井忠勝」が大老に相当する地位にのぼったことに始まると考えられています。実際に「大老」の語が使われるようになったのは貞享~元禄(1684~1704)年間頃のこととされています。
大老といえば真っ先に、桜田門外の変で散った井伊直弼をイメージするのではないでしょうか。歴史上では直弼を含め、2名の大老が暗殺されており、臨時の職ながら幕政の象徴として危険とも隣り合わせであったことがうかがえます。
【主な参考文献】
- 『国史大辞典』(ジャパンナレッジ版) 吉川弘文館
- 『古事類苑』(ジャパンナレッジ版)
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