「どうする家康」大活躍する服部半蔵!でも忍びの活躍は昔からあった?『太平記』に描かれた忍び

 大河ドラマ「どうする家康」第8回「三河一揆でどうする!」では、三河国で一向一揆が勃発し、松平昌久(角田晃弘)など周囲の領主や、家臣の夏目広次(甲本雅裕)らが裏切り、徳川家康が苦慮する様が描かれていました。

 家康は、服部半蔵(山田孝之)を本證寺に潜入させ、一揆勢の内部崩壊を仕掛ける作戦に出ていましたが、この服部氏と言えば、元来は伊賀国を本国とし、半蔵の父・保長の時に三河に下向、松平氏(徳川氏)の家臣になったと言われています。

 伊賀国というと、忍びの里のイメージがありますが「忍び」に関する最も古い記述は(現時点においては)『太平記』(14世紀後半に成立した鎌倉末から南北朝の動乱を描いた軍記物語)に記載されていると言われます。足利方(北朝方)の高師直は、南朝方が立て篭もる男山、石清水八幡宮を攻略せんとしていました(1338年7月)。そのような時、師直方は、夜の風雨に乗じて「逸物の忍び」(優れた忍び)を八幡山へ忍び込ませ、神殿に放火、敵方を大混乱に陥れたのでした(『太平記』巻20「八幡宮炎上の事」)。

 こうした記述から、南北朝時代には「忍び」と呼ばれる集団がいたことが分かります。『太平記』には、忍びに関連する記述が散見され、忍びの隠れ屋が、所司代の「都築入道」により、襲撃されたとの一文も存在します。

 入道は、200余騎の軍勢で、究竟(屈強)な忍び共が隠れていた四条壬生の宿に押し寄せたのでした。宿に立て篭もっていた「兵ども」は、元々から「死生知らずの者ども」(命知らずの者たち)であったので、家の上に走り登り、矢を射尽くして後、皆「腹をかきやぶりて」死んだというのです。凄惨な描写ではありますが、忍びの者たちの屈強さと、タフさを窺うことができます。

 こうした忍びたちは「悪党」のなかから誕生したとも言われています。悪党は、鎌倉時代中期以降、主に畿内近国において、幕府や荘園領主に反抗した武装集団であり、取締の対象となっていました。

 悪党については、鎌倉・南北朝時代の播磨国の地誌『峯相記』に詳しく描写されています。彼らは「異類異形」の有り様で、柿帷子(柿色の着衣)に、女物の六方笠を着て、人に顔を合わせようとせず、目立たないような感じで、柄・鞘のはげた太刀・杖を持っていたとのこと。彼らは、城に立て籠もり、敵に攻撃を加えたり、時には裏切ったりして、約束などは守ろうとはしない輩だったようです。博打を好み、忍び小盗を生業としていた不良集団でもありました。

 これは、13世紀末から14世紀初頭の頃の悪党に関する描写ですが、それから約20年後には、悪党らは兵具には金銀を散りばめた豪勢な格好をしていたそうです。

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  この記事を書いた人
濱田浩一郎 さん
はまだ・こういちろう。歴史学者、作家、評論家。1983年大阪生まれ、兵庫県相生市出身。2006年皇學館大学文学部卒業、2011年皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。専門は日本中世史。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。 著書『播 ...

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