「どうする家康」徳川家康の秀忠への怒りを解かせた、徳川四天王・榊原康政の直言
- 2023/11/21
大河ドラマ「どうする家康」第44話は「徳川幕府誕生」。関ヶ原合戦(1600年)に遅参した徳川秀忠を父・徳川家康が叱り付ける場面が描かれました。『徳川実紀』(徳川幕府が編纂した徳川家の歴史書)には、この辺りの家康と秀忠のやり取りは、どのように記されているのでしょうか。
信州上田の真田氏攻めに手間取った秀忠は、関ヶ原の戦いに間に合わず。家康はそれを大層憤ったようです。道を急いだ秀忠は、近江草津で、家康の軍勢に行きあいます。が、家康は「心地悪し」と言って、3日も秀忠と対面しませんでした。この家康の態度に、「どうしたことか」と人々は恐れ、色を失ったとのこと。そうした折、秀忠軍に属していた榊原康政(徳川四天王の1人)は、夜、密かに家康のもとを訪れます。
康政:「御父子共に戦しようとお思いだったならば、なぜもっと早く出軍の期を告げ知らせなかったのですか」
康政は秀忠遅参には家康のミスも関係しているのではないかと指摘したのでした。そして、将来、天下人ともなるべき壮年の中納言(秀忠)が「弓矢の道において、父君(家康)のお心に適わないとは・・」と人々に嘲笑されたならば、それは子(秀忠)の恥辱のみならず、父(家康)の恥辱でもあると、康政は秀忠への怒りを解くよう、家康に諫言したのでした。
涙を流しての康政の直言。さすがの家康も反省したようで、翌日、伏見にて、秀忠と対面することになります。戦のことなどを家康・秀忠父子が語り合っている様を見て「上下みな安堵」したとのこと。康政の仲介に秀忠は感謝し「康政の此度の志、我が家(徳川家)のあらむ限り、子々孫々に至るまで忘れないで欲しい」との書状を送ったようです。
さて、『三河物語』(江戸時代初期の旗本・大久保彦左衛門の著作)には、合戦の経験が浅い本多正信に、秀忠が真田攻めを一任したことが、そもそもの失敗だったと記されています。その道に通じない者に指揮をさせても上手くいくはずもないと彦左衛門は言います。
彦左衛門:「佐渡(正信)の考えが及ぶのは、隼の使い方まで」
とまで彦左衛門は言っています。彦左衛門は正信を(虫の好かぬ奴)と感じていたようです。
※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。
コメント欄