「どうする家康」松平元康はどうして ”徳川家康” となったのか?
- 2023/02/21
大河ドラマ「どうする家康」第7回「わしの家」では、松平元康(演・松本潤)が「三河国をひとつの家に」という願いを込めて「家康」という名に改めていました。では、実際には、元康はどのような意味を込めて「家康」と改名したのでしょうか?
先ず、元康の「元」の字は、亡き今川義元の「元」の字を貰ったものでした。家康の祖父は松平清康(1511〜1535)。25歳の若さで家臣によって斬殺されるという悲劇に見舞われた清康ですが、戦上手で情がある武将として、慕われていました(江戸時代初期の旗本・大久保彦左衛門の著作『三河物語』)。元康の「康」の字は、祖父・清康の「康」を貰ったものと思われます。家康は「康」の字を残したのです。
では「家」という字はどこから取ってきたのか?家康の先祖の松平家当主には、名に「家」の字のつく人はいません。元康が家康と改名したのは、永禄6年(1563)のこと。そしてその3年後(1566)には、名字(苗字)を松平から徳川に改めています。
徳川というのは、清和源氏の流れを汲む新田氏の一族・得川氏に由来しています。家康も祖父・清康も、自らの先祖は、源氏であり、自分もその流れを汲む者との意識がありました。永禄年間に家康が出した書状には「源元康」と署名があるのも、その証拠といえます。
そういったことを踏まえていけば「家」の字がどこから来たかの推測ができます。平安時代後期の武将で、前九年の役・後三年の役にも参戦、天下第一の武勇の士と称された源義家(1039〜1106)。清和源氏の本流の祖とも言われるこの義家の「家」の字を家康は頂戴したのではないかと考えられています。
ドラマでも描かれたように、永禄5年(1562)には、家康は上之郷城を攻めて、城主・鵜殿長照を討ち取り、その子息2人と、自らの妻子(妻の築山殿、子の竹千代と亀姫)との人質交換を果たしていました。今川方との戦、そして人質交換。家康と今川氏との距離はますます遠くなったと言えます。
そうした状況もあって、元康は今川義元の「元」の字を棄て、家康と改名したのでしょう。元康の改名は、今川氏との決別を一段と鮮明にしたと言えます。
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