「どうする家康」小牧・長久手の戦い 徳川家康と羽柴秀吉の息を呑む心理戦とは
- 2023/08/21
大河ドラマ「どうする家康」第32話は「小牧長久手の激闘」。織田信雄(信長の次男)に加勢し、羽柴秀吉に対抗することになった徳川家康。家康と秀吉の軍勢がいよいよぶつかる。その様が描かれていました。では、『徳川実紀』や『三河物語』には、家康と秀吉が干戈を交えた小牧・長久手の戦い(1584年3月〜11月)は、どのように記されているのでしょうか。
織田信長との旧好を忘れず、信雄に加勢した家康。『徳川実紀』によると、家康は1万5千の軍勢でもって清須に向かい、そこで信雄と会談するのですが、その時、信雄は家康の加勢を涙を流して感謝したそうです。その後は、小牧山城(愛知県小牧市)に陣を置いた両者(3月28日)。
それより以前(3月13日)には、大垣城(岐阜県大垣市)の池田恒興らが、信雄方の犬山城(愛知県犬山市)を攻略していました。『実紀』には、恒興は「右府恩顧」(信長が引き立てた)の武将であったが「時勢にひかれて」秀吉に付いたと書かれています。
犬山城を攻略した恒興とその婿の森長可は、南下し、羽黒(犬山市)に向かいます。そして、諸所を焼いたようです。南下してきた池田・森軍を迎え撃ったのが、徳川の家臣・酒井忠次や、榊原・奥平の軍勢でした。
森軍に打ち掛かった徳川軍は、足軽などを前進させ、それから鉄砲を放ったようです。森武蔵守長可は「鬼武蔵」と恐れられた猛将でしたが、徳川軍の猛攻にはなす術もなかったようです。更には「金扇の御馬印」が彼方に見えたことにより「徳川殿出馬ありし」(家康が出馬してきた)と将兵は動揺。ついには、犬山に退いたのでした(3月17日)。
敗戦に激怒した秀吉は、大軍を率いて、大坂を出立。小牧山に近い楽田(犬山市)に本陣を置きます(3月29日)。楽田に布陣した秀吉は、小牧山の敵勢を力攻めすることはなく「二重堀」があるような「要害」を構えます(これは、長篠の戦いにおいて、信長が勝頼を誘き出すために、馬防柵などを設けて防御の姿勢をとったことに倣ったと言われています)。
その光景を小牧山から見た家康は「秀吉は私を勝頼と同じように思っている」と言い、微笑んだとされます(『実紀』)。この言葉からは(秀吉よ、私を勝頼と同じように思うな。甘くみるな)との家康の意識も垣間見えます。『三河物語』にも、秀吉軍が、楽田に高い土手を築き、そのなかに陣を置いたことが記載されています(力攻めにしなかったのは、無用の損害を避ける意味合いもあったでしょう)。
一方、家康は小牧山に柵を巡らすことはせず、無防備な状態だったとのこと。これは小牧山城が既に堅牢な城だったこともあるでしょうが(こちらは無防備だぞ。秀吉よ、攻撃してこい。撃滅してくれる)との家康の思惑もあったのかもしれません。
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