正解!
ざんねん…
答えは「中国エリアで最も勢力を拡げた戦国大名」
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毛利元就は戦国時代の大名で、安芸国(広島県)の小さな領主から権謀術数を駆使しながら勢力を拡大し続け、中国地方全域を支配下におさめる大大名となった人物です。 元就は明応6年(1497)に安芸国の国人領主の子として生まれました。家督を継いだ元就の兄は若くして亡くなり、兄の子・幸松丸の後見役を担っていましたが、幸松丸も幼くして亡くなったため、大永3年(1523)に元就が家督を継ぎました。 当時の中国地方は、山陰地方に尼子氏、山陽地方に大内氏という2大勢力があり、毛利家など安芸国の小さな国人領主は、尼子か大内か、どちらに付くかを選択しなければなりませんでした。最初は尼子氏に付いていた元就ですが、家督を継いだころから次第に大内氏に付くようになりました。元就は他の国人領主たちを支配下に置きながら、毛利家の勢力を徐々に拡大していきます。 その典型的な例が、自分の子を他家に送り込むことです。二男の元春は山陰の吉川氏、三男の隆景は瀬戸内の小早川氏の家督を相続させ、毛利本家の元就、長男隆元を中心とした「両川体制」を作り上げるのです。 毛利氏が勢力を伸ばしている中、やがて主君筋の大内氏にクーデターが起こります。当主の大内義隆が、家臣の陶晴賢に討たれてしまいます。元就は、これを絶好のチャンスととらえ、大内氏からの独立に成功しました。 さらに弘治元年(1555)、厳島の戦いで大内軍(陶軍)に大勝利し、その勢いのままに大内氏を滅亡に追い込みます。この頃、山陰の尼子氏も同族争いで弱体化しており、元就は山陰へも侵攻の手を伸ばします。永禄9年(1566)に尼子義久が降伏したことで、尼子氏も滅亡し、元就は中国地方を手中におさめたのです。 毛利元就と言えば、我が子3人を前にして「一本の矢は折れるが、三本の矢は折れない」と語り、兄弟で協力して毛利家を繫栄させるよう諭した「三矢の訓(みつやのおしえ)」が有名です。矢の逸話は後世の創作のようですが、その元になった教訓状が残っています。 毛利家を戦国屈指の大大名に成長させた元就は、成長した孫の毛利輝元に後事を託して、元亀2年(1571)に75歳で生涯を閉じました。 後継者の輝元を、叔父である吉川元春と小早川隆景の2人が支える「両川体制」は、元就の死後も揺るぎませんでした。なお、「三矢の訓」は、Jリーグのサンフレッチェ広島のチーム名の由来(サン=三、フレッチェ=矢)になったり、大相撲の三兄弟力士(若隆元、若元春、若隆景)が登場したりと、今も生き続けています。
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