【家系図】中国地方の大大名・毛利元就の祖先は鎌倉幕府ナンバー2の政所別当だった!
- 2019/11/17
毛利元就といえば、一代で西国最大の戦国大名の地位を築き上げ、三人の子には協力して毛利家を支えるように説いた「三本の矢」のエピソードが有名ですよね。しかし一方で毛利氏がどのような家柄だったのかはあまり知られていません。
本記事では毛利氏のルーツにフォーカスし、その発祥から元就誕生までの足跡を振り返ってみたいと思います。
毛利のルーツ・大江広元
毛利氏のルーツをさぐると、たどり着くのは鎌倉幕府創業の功巨・大江広元です。
彼は最初は紀伝道という学問を家業としており、朝廷の文官として仕えていましたが、のちにその能力を買われて源頼朝の右筆となり、さらに政所別当として頼朝の政治を補佐するまでに出世したといいます。
その功績から肥後国山本荘(熊本県鹿本郡植木町)、伊勢国栗真荘(三重県鈴鹿市)、相模国毛利荘(神奈川県厚木市)、周防国島末荘(山口県大島郡東和町)などの領地をもらい受け、広元はそれらを子に分け与えました。
毛利氏発祥の地は安芸ではなく、相模。
このうち、広元の四男・季光(すえみつ)は相模国毛利荘(もりのしょう)に居住してその地名を名字としました。これが毛利氏のはじまりです。
なお、季光のほか、広元の男児らは以下のようにそれぞれが家を興しています。
- 親広(長男):源通親の猶子となる。
- 時広(二男):長井氏を称す。
- 政広(三男):那波氏を称す。
- 季光(四男):毛利氏を称す。
- 忠成(五男):海東氏を称す。
季光は出家していましたが、承久3(1221)年の承久の乱で幕府方として功をあげると、以後は御家人として活躍。天福元(1233)年には評定衆に任命されるまでになっています。
しかし、やがて一族滅亡の危機が訪れます。
季光は有力御家人である三浦泰村の妹を妻としていましたが、宝治元(1247)年にはその三浦泰村と執権の北条氏による対立から宝治合戦と呼ばれる幕府内乱が勃発。季光は縁戚関係から当然のごとく三浦氏に加担しますが、合戦に敗北したため、最期は広光(嫡男)・光正(二男)・泰光(三男)とともに自害して果てたのです。
しかし、たまたま四男の経光は所領の越後国佐橋荘にいて合戦に参加しなかったことが幸いしました。結果的に毛利荘は没収されたものの、佐橋荘および安芸国吉田荘の地頭職は安堵され、経光自身にもお咎めはなかったようです。
このように毛利一族はかろうじて滅亡を免れたのでした。なお、毛利氏が越後国佐橋荘と安芸国吉田荘を与えられた時期や経緯ははっきりしていません。
時親の代に安芸国吉田荘へ定住
難を逃れた経光は越後国佐橋庄を南条と北条の2つに分割して、文永7(1270)年には嫡男基親に北条を、四男の時親に南条と安芸国吉田庄を譲渡したといいます。
ただし、惣領家である嫡男・基親の越後毛利氏は南北朝期に入って断絶し、時親の子孫が北条も支配するようになります。そして毛利元就の家系につながったのは四男・時親の方でした。彼は六波羅評定衆に就き、京都在住のための財源として河内国加賀田郷(大阪府河内長野市)を与えられています。
やがて14世紀に入って鎌倉幕府が滅亡し、建武の新政(1333-36年)を経て南北朝時代に突入していきます。
時親は嫡男の貞親に河内国加賀田郷を、三男広顕・孫の親衡と家親(二男親元の子)に越後国南条荘を分け与えると、延元元(1336)年には、曾孫の元春に家督を譲り、共に吉田荘吉田郷山田村(広島県甲田町上小原)に移り住みます。
また、元春の母方の祖父が安芸国土着の領主であったことから援助も受けたといいます。ここから毛利氏は安芸国に定住することになったのです。
南北朝期、親衡・元春父子が対立!
同年は足利尊氏が挙兵して建武の新政が崩壊し、南北朝時代がはじまった年でもありました。
南北朝の動乱では、時親と元春は北朝の足利尊氏方に味方しましたが、貞親と親衡は南朝方として戦っています。毛利家は時親からの親・子・孫・曾孫の四代が敵味方に分かれてしまうのです。
ただしこのときは時親が毛利家の生き残りのために、危険を分散したという見方もあるようです。実際、親衡は元春の口添えにより、暦応3(興国元、1340)年に味方に戻ってきています。
翌暦応4(興国2、1341)年には時親が没し、元春が吉田荘支配を引き継いでいますが、
その後観応元(正平5、1350)年の観応の擾乱が勃発すると、再び父子が敵対関係に。
親衡は反幕府方の足利直義派(直冬派)として活動し、この乱を機に尊氏と徹底して対立・抗争を繰り広げていった足利直冬の援助を得て、安芸武田氏を敗走させるなど、しばらくは力を振るいました。
しかし、足利直冬勢力の衰退とともに力を失うと、今度は一環して北朝方(室町幕府方)に味方していた元春が台頭。幕府に接近した元春は建徳2(応安4、1371)年には九州探題の今川了俊に従って九州へ下向しています。
反幕府という父の汚名を拭い去るためなのでしょうか…。このときの元春は先頭をきって南朝勢力と奮戦し、のちに了俊からその功績を賞賛されています。
多くの庶流が誕生し、国人領主として成長
ところで元春の代より、多くの庶流が誕生しています。
元春は一族の対立を回避すべく、弟や子息らへの所領の分割譲渡を行いました。そして嫡男広房を毛利の惣領家、その他の多くを庶家として成立させ、毛利一族の和平を願ってその心得を置文(現在でいう遺言)に残しています。
残念ながら、一族はその後も争いを繰り返してはいますが、のちの戦国期の毛利家を支える一門衆がこの時期に多く誕生していたのです。
広房・光房・煕元の代は?
元春の嫡子・広房は永徳元年(弘和元年、1381年)の正月に吉田荘の地頭職半分を譲られていますが、至徳2年(元中2年、1385年)に討死しています。
光房の代には南北朝が統一されますが、応永6(1399)年には6ヶ国もの守護を兼ねる大内氏と将軍・足利義満が不和となって応永の乱が勃発。
このときは幕府の勝利となりましたが、以後も室町幕府と大内氏の抗争は続き、光房は将軍・足利義満の命をうけて大内氏と戦っています。
安芸国人一揆
応永11(1404)年には安芸の国人領主33人が団結し、5か条から成る「安芸国人一揆契状」というものを取り交わしています。
これは毛利氏をはじめ、安芸の国人領主らが対等な関係で一致団結し、「互いに安芸国の所領を守る」「将軍の命に従う」などと誓い合ったものです。つまり、強大な勢力を誇る大内氏などの他国から自領を守るために、幕府の後ろ盾や国内勢力の一致団結が必要だったのです。
惣領家と庶家
対等な関係という点では、毛利氏の惣領家と庶家の力関係も当初はそうでした。
元々は庶家の土地は惣領家から分割譲渡されたものですが、その後に庶家が自力で勢力を拡げたものもありました。このため、
光房時代には惣領家が庶家を統率しようにも、たびたび庶家が反発して対立していたようです。
永享6(1434)年に作成された史料『毛利氏一家中分銭支配日記』をみると、概ね以下のようになっています。
- 毛利氏:176町
- 麻原氏:158町
- 福原氏:92町
- 中馬氏:82町
- 坂氏:124町
- 河本氏:35町
このころの惣領家と庶家は主従関係になく、ほぼ対等な関係だったとみられています。上記のデータをみれば、惣領家と庶家の所領差はさほど大きくなかったことが伺えます。
しかし、煕元の代になると、惣領家と庶家の所領差に変化がみられるように…。当時の将軍は独裁者で知られる足利義教だったのもあり、煕元は幕府の命で各地を転戦するなど、忠義を尽くして働きました。
その甲斐もあってか、煕元が宝徳3(1451)年に子の豊元に所領を譲った時点では、吉田荘のほか、内部荘・竹原郷・坂村・麻原郷・豊島村・有富保・入江保を領有しているのが確認できるのです。
乱世到来で惣領家は一気に勢力拡大
応仁元(1467)年からはじまった日本最大の内乱といわれる応仁の乱が勃発するとさらに惣領家の所領が広がっていきます。
当時の当主・豊元は西軍の山名方に味方して多くの戦功を立てると、新たな所領を与えられ、急速に勢力拡大していきました。
事実、文明7〈1475)年には嫡男の弘元(毛利元就の父)に所領を譲っていることが史料で確認できますが、煕元の頃に比べて所領がかなり増えているのがうかがえます。
なお、弘元の「弘」は大内政弘から一字を譲り受けたものであるため、この頃に毛利氏は大内氏の傘下に入ったとみられます。
このように毛利氏は、「南北朝の内乱 → 安芸国人一揆 → 応仁の乱」を経て、安芸の国人領主として成長。弘元の子である興元や元就が誕生するころには、毛利惣領家は庶家を従えるほどの権力をもつようになっていたのです。
【参考文献】
- 河合 正治『毛利元就のすべて』(新人物往来社、1996年)
- 河合 正治『安芸毛利一族』(吉川弘文館、2014年)
- 池 享『知将・毛利元就 国人領主から戦国大名へ』( 新日本出版社、2009年)
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