毛利元就の名言・逸話35選

毛利元就は、安芸国(広島県)を中心に活躍した戦国大名です。子供たちに協力の大切さを説いた「三本の矢」の逸話が有名ですが、一方で権謀術数に長けた老獪な大名の印象もあります。

毛利元就は戦国大名に珍しい長寿で、60代でも自ら出陣するほどでしたが、本格的な活動はアラフォーから。領地を大内氏・尼子氏といった有力な大名に囲まれていたため、若い頃は彼らの一同盟者としてひっそりとした暮しをしていました。

今回は、そんな毛利元就の長い一生を、エピソードをもとにご紹介します。

※本編の登場人物は特に断りがない限り、最も有名な名前で記載します。戦国武将は政治情勢によって改名することもありますが、本編では最も一般に知られている名(陶隆房ではなく陶晴賢、など)で統一します。


幼少期から毛利本家継承まで

毛利元就は、安芸国の豪族・毛利弘元の次男として、明応6(1497)年に生まれました。年齢としては、武田信虎(信玄の父)や織田信秀(信長の父)とほぼ同世代です。


4歳で母と死別、9歳で父と死別

毛利元就は4歳で母親と死別し、9歳で実の父も亡くした。父の継室の大方殿が、元就を不憫に思い、猿掛城にとどまって元就の面倒をみた。(『毛利家文書』)


兄が急死、本家を継いだ甥の後見人になる(19歳)

14歳で元服してから、毛利元就は兄・興元の補佐をしていた。その兄が永正13(1516)年に酒の飲みすぎのため23歳で亡くなり、元就は遺児・幸松丸の後見人になった。(『毛利家日記』ほか)

元就の父・弘元は38歳、祖父・豊元は32歳で亡くなっており、元就に言わせると全て酒の飲みすぎのためだったそうです。元就は酒を節制しました。そのためか、74歳の長寿を全うしています。


吉川氏の娘・妙玖(みょうきゅう)を妻に迎える(26歳頃)

毛利元就は吉川国経の娘(法名・妙玖)を妻とし、大永3(1523)年には長男の隆元が生まれている。(『江氏家譜』ほか)


家臣の推挙で毛利家を継ぐ(26歳)

甥の幸松丸が9歳で早世し、大永3(1523)年、家臣たちの要請をうけて元就が毛利家の家督をついだ。(『毛利家文書』ほか)


家督継承時の発句

毛利の家 わしのはを次 脇柱(『毛利家文書』)


弟の元綱を暗殺した?

毛利元就の弟・相合元綱は、尼子経久と内通して毛利元就に反対しようと計画していた。それを察知した元就は元綱を襲撃し、一味の者をことごとく討ち果たした。(『毛利家譜』)

以降、元就は家中の反対勢力を討伐します。


勢力拡大から毛利両川体制へ

毛利氏の周りには、大友氏・尼子氏という二大勢力がありました。元就が家督を継いだ頃は、毛利はまだまだ小さな一勢力。しかし、元就は周辺の豪族たちと連携を強め、順調に力をつけてゆきます。


尼子氏と断絶し、大内氏と手を組む(28歳頃)

毛利元就は、大永5(1525)年、尼子氏と決別した。大内氏から安芸国西部の土地1370貫文の土地を与えられ、大内方についた。(『毛利家文書』)

毛利家はもともと大内氏の配下でしたが、大内義興の政策に反発を覚え、幸松丸の時にいったん尼子氏に乗り換えます。しかし恩賞が少なく、不満に思っていた元就のところに、大内義隆から使者が来て、再び大内方に転じています。


宿敵・宍戸氏と愛娘の婚約を取り決める(37歳頃)

元就は、安芸国での立場を強化するため、長年反目していた宍戸氏との関係修復をした。天文3(1534)年、自身の娘・五龍と、宍戸氏嫡孫・隆家との婚約を成立させた。(『芸陽記』ほか)

元就は五龍を溺愛しており、息子たちへの手紙にも、五龍の世話をしっかりするように書き残しています。


吉田郡山城に籠城し、敵兵を追い返す(43歳)

天文9(1540)年、大内氏と尼子氏の合戦に伴い、尼子晴久は3万の大軍で毛利元就の居城・吉田郡山城を囲った。元就は2400の兵で城に籠りゲリラ戦を展開、駆けつけた陶晴賢の援軍1万とともに尼子勢を追い返した。(『毛利家文書』)

この合戦の論功行賞で、元就は広島湾付近まで領土を拡大し、水軍を配下に入れます。約30年後に織田信長を苦しめる毛利水軍は、この頃から始まっています。


息子を小早川家に養子に出す(44歳)

天文10(1541)年、小早川家の当主・興景が後継ぎのいないまま亡くなった。興景の妻が毛利元就の姪だったので、元就の息子・隆景(当時8歳)が小早川家の養子と決まった。
隆景は、興景の3回忌が済んだ天文13(1544)年に小早川家を継いだ。(『小早川家文書』ほか)


月山富田城の戦いで作戦を提案する?(45歳)

天文11(1542)年、尼子経久の死をうけて、大内軍は尼子領に攻め込んだ。
このとき、元就も大内軍に同行しており、「尼子の勢力はまだ強く力攻めは成功しない、持久戦に持ち込んで調略を仕掛けた方がよい」と提案した。しかし大内義隆はこれを聞き入れず、月山戸田城を強硬に攻めた。
城は落ちず、大内方の兵糧が尽きて形勢が逆転、撤退中に義隆の嗣子・晴持が海難事故で死亡するなど散々な目にあったという。(『毛利家日記』ほか)

元就が調略を提案したことは後世の史料にある内容ではありますが、いかにも元就が言いそうな内容です。この戦い以降、大内義隆は意気消沈し文芸にふけるようになります。


形式上の引退(49歳頃)

元就は、天文15(1546)年頃に家督を嫡子の隆元に譲っている。元就の代に領土があまり拡大せず、家臣に不満があることを見越しての隠居だという。(『毛利家文書』)

ただし元就は隆元をまだ頼りないと思っており、引き続き政務のサポートをしています。


吉川家へ息子を養子に出し、毛利両川体制が成立(50歳頃)

吉川家の当主・興経は、尼子についたり大内についたりを繰り返していた。それが大内義隆の怒りを買い、不安に思った家臣たちが、吉川氏の妙玖から生まれた元春(当時17歳頃)を当主にしようと裏工作をし、興経を説得して養子縁組を成立させた。(『吉川家文書』ほか)

興経とその息子は、元春の養子縁組後に、元就の指示で殺されています。


大内義隆を山口に表敬訪問、陶晴賢と接触?(52歳)

天文18(1549)年、毛利元就は元春・隆景とともに山口を訪問する。二人の吉川家・小早川家養子縁組を認めてくれた御礼という名目であった。(『毛利元就防州山口下向饗応記写』)

池亨氏は、元就の滞在中、すでに謀反の心があった陶晴賢は、毛利元就一行にも協力を要請していたのでは、と指摘しています。陶晴賢は2年後、クーデターで大内義隆を放逐します。毛利元就もそれに呼応し城を占拠しています。


井上衆誅殺事件(53歳)

毛利元就と息子たちは、天文19(1550)年7月、有力な重臣であった井上元兼とその一族を突如殺害した。原因は、井上一族が毛利元就に従わず、勝手な行動をとったからだという。(『毛利家文書』ほか)

注意すべきなのは、毛利氏は有力豪族連合政権なので、いくら「重臣」といえども毛利氏に全て従う義理はない、という点です。ですので、井上一族が勝手行動をとったとしても当然のことで、それで殺害するのは、いわば毛利家側の一方的な言いがかりです。

それでもこの誅殺が毛利家で受け入れられたのは、有力豪族連合政権という組織そのものに限界が来ており、毛利家が強い権限を持って家中を統制する形式を、他のメンバーも求めていたから、と言えるでしょう。毛利家の政治体制も、この後大きく変化します。


厳島の戦い

このまま何事もなければ、毛利元就は大内義隆に臣従する有力者の一人として生涯を終えたかもしれません。しかし、陶晴賢の謀反から大内家が瓦解し、毛利家は独立勢力として成長します。

天文20(1551)年8月、陶晴賢は大友晴英を擁立し挙兵、大内義隆を大寧寺に追い詰め、9月1日、義隆を討ち取ります。元就もこれに呼応して挙兵し、大内氏旧領を切り取ります。一方で、陶晴賢は協力要請をしたはずの元就を危険視し、元就側も晴賢の心中を察して警戒を強めるなど、早くから不穏な空気が流れました。

やがて小競り合いから決定的な決裂となり、元就は家臣たちに「陶晴賢と決別する!」と宣言、陶晴賢も決戦に向けて軍備増強をします。そして、運命の天文24(1555)年を迎えます。元就は58歳になっていました。


陶晴賢の腹心が内通の咎で切腹させられるよう仕向ける?

陶晴賢の水軍を指揮していた江良房栄が、毛利元就と内通した咎で切腹させられる。(『棚守房顕手記』ほか)

この事件については、江良房栄が本当に裏切っていたという説と、彼の内通はデマで、毛利元就が偽の手紙を陶晴賢側にリークした、という説があります。水軍での攻撃を考えていた陶晴賢にとって、その大将を失うのは痛手でした。


厳島に宮尾城をたて、デマ情報を流す?

元就は、陶晴賢の大軍に勝利すべく、狭い厳島に城を建てた。そして、わざと「あそこに城を建てたのは失敗だった、あそこをとられたら毛利家は終わりだ」と嘆いて、陶側のスパイを利用して相手をおびき寄せたという。(『陰徳太平記』)

他の説によると、厳島は信仰の中心であり交通の要所でもあるので、大内氏は行軍する際常に厳島を制圧してから動いていました。大内氏の家臣であった陶晴賢もそのために厳島に立ち寄ったわけで、毛利家側のデマに惑わされたのではない、という指摘もあります。

仮にそうであれば、元就は陶晴賢が厳島に寄ることを想定して奇襲を仕掛けたのであり、いずれにせよ元就の作戦勝ちでした。


厳島で陶軍を挟撃、勝利を得る

陶晴賢の厳島上陸を聞いた毛利元就は、3500の兵で厳島に向かった。夜、元就が率いる本隊2000はひそかに陶軍の背後の尾根に陣取り、夜明けとともに陶軍に襲い掛かった。逃げる陶軍の先には小早川隆景の別動隊1500が控えており、大混乱に陥った陶軍は大量の戦死者を出して敗走した。(『毛利家文書』ほか)

陶晴賢は脱出の船を探して厳島内をさまよいましたが果たせず、間もなく自害しました。


西国の覇者、子供たちの行く末を憂う

陶晴賢を討たれた大内氏は完全に瓦解しました。弘治3(1557)年、元就は山口を攻めて大内氏を滅ぼし、一気に西国の覇者に躍り出ます。


三子教訓状を出す(60歳)

毛利元就は、隆元・元春・隆景の三人に、毛利家存続のため互いに協力することの大切さを説いた教訓状を出した。(『毛利家文書』)

有名な「三本の矢」説話は、この手紙が元ネタです。池亨氏の指摘によると、隆元は弟2人に不満を持っていたそうで、具体的には、2人が隆元のサポートをしないどころか、養家の便宜をはかるよう圧力をかけてくることが嫌だったとの事です。元就はそれを受けて、3人の結束が大事との教訓を残しています。


息子たちの返事にイヤミを言う

3人の息子たちは、元就の教訓状への返事「奉答状」を提出した。とはいえ弟2人は不在にしていたため、隆元が返事を用意し、弟たちは内容をよく確認せず花押だけ押したという、いい加減なものだった。当然のことながら、弟2人に宛てた部分への返答は不十分なものになった。
受け取った元就は、「3人に宛てた部分もあるし、それぞれに宛てた部分もあるのだから、返事をくれるのであれば自分宛の箇所にしっかり返事をするのが当然だと思いますが、諸君はどう思いますか。」と嫌味の返事をしている。(『毛利家文書』)

元就は、大内氏を討った機会に完全に隠居をしようと考えていたようですが、息子たちの行く末を不安視したか、この後も引き続き政務をみています。


嫡子の隆元が死去(66歳)

永禄6(1563)年8月、出陣中の嫡子・隆元が、安芸国佐々部の宿所で腹痛のため急死した。(『毛利家文書』)


隆元毒殺説

隆元は亡くなる前日、和智誠春の宿所を訪れて饗応をうけていた。元就は彼が毒殺したと見ており、誠春は永禄12(1569)年に逃亡をはかり殺されている。(『毛利家文書』)

和智の背後には尼子氏がいたと考えていたようです。


孫・輝元が将軍から偏諱をもらう(68歳)

永禄8(1565)年、隆元の遺児が元服した。将軍・足利義輝の偏諱をもらい「輝元」と名乗った。将軍の偏諱を貰うのは毛利家で初である。(『毛利家文書』ほか)


またも隠居を撤回

元就は、輝元の元服を機にまた引退しようとした。しかし輝元が、「父親は四十を超えてもなお面倒を見てもらえたのに、十五になったばかりの自分を見捨てて隠居するなんて認められない」と強硬に反対して、今回の隠居も撤回した。(『毛利家文書』)


吉田郡山城で隆景・輝元が見守る中死去(74歳)

元亀元(1570)年正月頃から、元就は体力の著しい衰えを感じ、戦にも自ら出なくなった。輝元と隆景・元春は陣中にあったが、容体の悪化を聞いて9月に輝元と隆景が帰国。元就はすでに話すことも物を書くことも疲れてなかなかできなくなっていた。
元就は翌年の元亀2(1571)年6月に亡くなった。最期には輝元と隆景が立ち会ったという。(『毛利家文書』)


毛利家や毛利元就に関する逸話

一揆契状での結束

弘治3(1557)年の安芸国人領主契状は傘連判状で、署名者の上下関係がない体裁をとっている。(毛利博物館蔵)

戦国大名の主従関係について、特に毛利家など西国の戦国大名は、明確な上下関係がないことが多く見られます。その一つがこのような「一揆契状」です。

百姓一揆や国人一揆など種類を問わず、「一揆」というグループ内では、メンバー間に上下関係はありません。ただし議長やリーダーの必要が生じたときに、メンバー内で最も有力な人が選ばれます。元就が所属する一揆では、それが毛利家であり元就だった、というしくみです。

一方、武田家や北条家といった東国の戦国大名では、このような形はさほど強く見られません。東国では早くから、江戸時代の主従関係に似た強固な上下関係が形成されます。


筆まめ

毛利家が伝える『毛利家文書』には、毛利元就の直筆文書が100通以上残っている。

鴨川氏は元就の直筆書状を武田信玄のものと比較し「信玄よりずっと力強く、(中略)文章を書き慣れているようにみえる」と評しています。信玄も筆まめでしたが、元就はそれを遙かにしのいでいました。

数量が多いだけではなく、内容も長文で、妻や母のことを回顧したり、子供たちに人心掌握の心得を説いたりするなど、元就の価値観が分かるものも多数残してくれています。


控えめなタイプ

毛利元就は、自分自身を「体が強くもなく、精神的にも強くなく、知恵や才覚が人並み外れているわけでもなく、また常に正直で人並み以上に神仏の加護があるわけでもないのに、どういうわけか乱世を生き延びている」と評価している。(『毛利家文書』)

池亨氏は元就を「悲観的で愚痴っぽい」とし、鴨川氏は「なにごともひかえめに評価し、けっしてうかれることのないタイプ」としています。


下戸?

元就は酒が嫌いで、「酒なんかに頼っても、少しも心の癒しにならない」と言っている。(『毛利家文書』)

彼の父も兄も酒の飲みすぎが原因で若死にしているので、元就は徹底して節制したようです。手紙に「けこ(下戸)」と書いているので、元就は「飲めるのに飲まない」のではなく、「飲めない」体質だったのかもしれません。


朝日を拝んで念仏を唱える

元就は11歳の時、旅の僧から念仏の秘事を伝授され、以来欠かさず毎日朝日を拝んで念仏を十回ずつ唱える習慣を続けている。(『毛利家文書』)


文芸好き一族

毛利元就は和歌が好きで、『大江元就詠草』という和歌・連歌集を残している。(財団法人防府毛利報公会所蔵)
長男の毛利隆元は絵画に造詣が深く、自画像が残っている。(毛利博物館所蔵)
吉川元春は文学が好きで、出雲月山富田城で交戦中に『太平記』四十巻を書写している。(吉川史料館所蔵)


軍事金の源・石見銀山の経営

元就の代に手に入れた石見銀山は、毛利家の軍事費として利用された。
天正9(1581)年7月5日付の「石見銀山納所高注文」によると、収入は年間銀3652枚(現代換算で33億7500万円)で、もっぱら軍事費に利用された。(『毛利家文書』)

銀は兵糧購入以外にも、南蛮貿易を通じて鉄砲や火薬を調達する支払いに充てられました。


正親町天皇の即位費用を寄付

毛利元就は、永禄3(1560)年、財政難から即位式を挙げていなかった正親町天皇に2000貫文(現代換算で2億円)を寄付し、翌年に陸奥守に任命された。(『毛利家文書』)

陸奥守は、毛利氏の先祖である大江氏が代々世襲した官職です。元就に加え、隆元ら3兄弟にもそれぞれ官職が与えられました。


「上意に背いても構わない」

毛利家は足利義輝の意向で結ばれた講和を度々破っているが、彼らの意見としては「上意に背いてでも、家を維持しないことには仕方がない」というものだった。(『毛利家文書』)

毛利隆元の意見ではありますが、毛利家の最終決定権は元就にあったので、元就も同じ考えでしょう。


吉田郡山城の「百万一心」碑

吉田郡山城の「百万一心」碑は、人柱のかわりに埋められた石碑である。当時は、難工事になると生贄として人を生き埋めにする慣習(人柱)があった。しかし毛利元就は人柱をたてるかわりに「百万一心」と書いた石を埋めたといい、工事は無事に終了したという。
「百万一心」とは、「一日一日を、一人一人が力を合せて、心を一つに協同一致して事を行うこと」である。(ひろしまナビWebページ)

現在の「百万一心」碑はレプリカです。オリジナルは、文化13(1816)年に吉田郡山城解体の際に紛失しました。それより前に、長州藩士が石碑の拓本をとっており、現在のレプリカもそれをもとに作られています。


おわりに

「三本の矢」の逸話自体はフィクションではあるものの、毛利元就は子供たちに協力の大切さを繰り返し説いた武将でした。彼自身は、そのために隠居できずに大変な思いをしたものの、その教えは毛利家を守ることになりました。

毛利家は、元就の死後、幼少な輝元が当主だというハンデを、吉川・小早川両家の支援で克服します。毛利家は天下泰平の世になっても、それぞれの政権で重きをなし、明治維新でも重要な役割を果たしてゆきます。



【主な参考文献】
  • 池亨『知将毛利元就』(新日本出版社、2009年)
  • 岸田裕之『毛利元就』(ミネルヴァ書房、2014年)
  • 鴨川達夫『武田信玄と毛利元就』(山川出版社、2011年)
  • 山本博文監修『あなたの知らない広島県の歴史』(洋泉社、2012年)

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  この記事を書いた人
桜ぴょん吉 さん
東京大学大学院出身、在野の日本中世史研究者。文化史、特に公家の有職故実や公武関係にくわしい。 公家日記や故実書、絵巻物を見てきたことをいかし、『戦国ヒストリー』では主に室町・戦国期の暮らしや文化に関する項目を担当。 好きな人物は近衛前久。日本美術刀剣保存協会会員。

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