一国のため、自ら医道の奥義を極めた?毛利元就の専門医術について
- 2020/11/24
「三本の矢」のエピソードであまりにも有名な「毛利元就」。一代にしてその版図を中国地方一帯に広めた戦国大名です。兄弟三人が力を合わせて事に臨むよう諭したという「三本の矢」の話は後世の創作とされていますが、それにはベースとなった元就の書状がありました。「三子教訓状」というもので、子どもたちが一致団結して毛利家を盛り立てていくよう14か条にわたる説諭が約3メートルにも及ぶ紙に記されています。
元就は非常に筆まめであったことで知られ、多くの書状が残されていますが、自身でも評している通りに人並外れた武勇で組織を牽引していくタイプではなかったといいます。言いかえれば深謀遠慮や工作・作戦に能力を発揮した智将タイプであり、先述の細やかな書状の存在はその在り方を如実に示すもののひとつといえるでしょう。
そんな元就が細心の注意を払った事柄として、家臣団の健康維持と医療体制の整備・充実があげられます。ついには自ら医術を追究し、強力な組織運営の根本のひとつに「医療」を掲げたといっても過言ではありません。
今回は、毛利元就が実践した専門医術についてフォーカスしてみましょう!
元就は非常に筆まめであったことで知られ、多くの書状が残されていますが、自身でも評している通りに人並外れた武勇で組織を牽引していくタイプではなかったといいます。言いかえれば深謀遠慮や工作・作戦に能力を発揮した智将タイプであり、先述の細やかな書状の存在はその在り方を如実に示すもののひとつといえるでしょう。
そんな元就が細心の注意を払った事柄として、家臣団の健康維持と医療体制の整備・充実があげられます。ついには自ら医術を追究し、強力な組織運営の根本のひとつに「医療」を掲げたといっても過言ではありません。
今回は、毛利元就が実践した専門医術についてフォーカスしてみましょう!
節酒を奨励した元就
元就が実践・奨励した具体的な健康法のひとつに「節酒」があります。文字通り、適度な飲酒量を守るというものであり、禁酒とは異なる点に注意が必要です。元就の書状では毛利氏代々が飲酒で健康を害していることを述べ、嫡男の隆元や嫡孫の輝元に酒量を過ごさないよう注意を与えています。小椀に2杯ほどまでを適量とし、特に酒の力で沈鬱な気分を晴らすことを戒めています。
負の感情が酒量を増やして健康をむしばみ、さらにアルコールの力に頼るという悪循環をよく理解していたのでしょう。元就自身は完全な下戸ではなかったとされるものの、適量を守る「節酒」は家臣にもおおいに奨めたと考えられます。
自ら専門医術を学び、軍医の充実に努めた
元就は家中の医療体制充実にも尽力しましたが、その指導的役割を果たしたのが「曲直瀬道三(まなせどうさん)」です。近江・佐々木氏庶流に生を受け、長じて医師となってからは室町13代将軍・足利義輝や正親町天皇等々の診療を行い、実証的な臨床医学の先駆者としても知られています。
元就が道三と知己を得たのは永禄5年(1562)頃のことと考えられ、幕府より毛利氏に対する使者として道三が中国地方に赴いたのがきっかけでした。この時に道三は元就の診察も行ったのでしょう。以降も度々中国へと下向し、診療にあたることでその医術が西国に伝わる契機となりました。
永禄9年(1566)には出雲・尼子氏を攻略中だった元就が戦陣で病を得、この時の治療により道三は『雲陣夜話』を執筆します。
医療と軍医の重要性を痛感した元就は陣中の医師に道三流の医術を学ばせ、自らも道三に師事してその奥義に至ったと伝えられています。
9種の専門診療分野
元就が授かった道三流医術の極意書『雲陳(陣)夜話補遺秘傳』では、各症状を大別してカテゴライズしています。そこには「疫癘(えきれい)門」「瘧疾(ぎゃくしつ)門」「泄瀉(せっしゃ)門」「痢病門」「淋病門」「眼病門」「頭痛門」「腹痛門」「雑方」とあり、つまりは8部門+1種の専門診療科を設定したとも言い換えられます。
いずれも戦陣で発症しやすいとされる病態が取り上げられ、それぞれの身体症状と処方すべき薬などが詳細に解説されています。
現在では耳慣れない病名もありますが、「疫癘(えきれい)」とは感冒・麻疹・痘瘡などの伝染病、「瘧疾(ぎゃくしつ)」はマラリヤ性疾患、「泄瀉(せっしゃ」は疫痢など、「痢病」は赤痢・白痢・膿血雑痢をそれぞれ意味しています。
他は読んで字の如くで、性病や眼科・外科的な疾患まで幅広い治療を想定しています。
また、雑方には「咳止め」「脚気」「捻挫」「止血」「腰痛」「虫刺され」「気狂い」など、頻発したであろう症状への処方が収録されました。中には切断された骨を接ぐ「骨續」の薬と方法まで紹介され、戦陣医療としての生々しさを感じさせます。
いずれも漢方薬を中心とした対応となりますが、各種の症状ごとに細かい診察の要諦も記され、曲直瀬道三の臨床医学の精髄をうかがうことができます。
おわりに
先に触れた例でもわかる通り、毛利元就は長文の書状をまめにしたためる人物であり、研究者はその内容について異口同音に「くどくどしい面がある」と評しています。しかし、執拗なほどの懸念や配慮は裏を返せば細やかな気配りの発現でもあり、これこそが元就と毛利氏を西国の覇者たらしめた原動力だったのではないでしょうか。特に生命や健康に関することとなれば、少々口うるさいと疎まれても、注意喚起を続けることが思いやりと信じていたのかもしれませんね。
【主な参考文献】
- 『戦国武将の健康法』 宮本義己 1982 新人物往来社
- 『雲陳夜話補遺秘傳』(写本) 一溪叟 撰 1860(万延元) 【新日本古典籍総合データベース】
※データベースの表記は「雲陣」 - 『雲陣夜話』 曲直瀬道三 1566(永禄9) 【国立国会図書館デジタルコレクション】
- 毛利博物館
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