「伊達輝宗」家中の内紛で後退していた伊達家の領国支配を復活させて勢力を拡大!
- 2020/11/27
天文の乱以降、衰退していった伊達氏を再び盛り返したのが、伊達氏十六代当主の伊達輝宗(だて てるむね)です。戦国大名の中でも人気の高い「独眼竜政宗の父親」にあたります。輝宗はどのような政治によって伊達氏再興を果たしたのでしょうか。今回は伊達輝宗の生涯についてお伝えしていきます。
父である伊達晴宗との確執
伊達晴宗の次子として誕生
輝宗は伊達氏十五代当主である伊達晴宗の次子として、天文13年(1544)に誕生しました。母親は岩城重隆の娘である久保姫です。本来であれば嫡男は長子の鶴千代丸になるはずなのですが、晴宗は久保姫を正室に迎える際に重隆と生れてくる子を入嗣させる約束を交しており、その約束通り輝宗の兄の鶴千代丸は岩城氏の家督を継承し、岩城親隆と名乗っています。
輝宗は天文24年(1555)に元服。その際に室町幕府将軍である足利義輝から偏諱を賜り、輝宗と名乗りました。これは伊達氏が初めて奥州探題職に補任されたタイミングです。その10年後の永禄7年(1564)頃に輝宗は晴宗から家督を譲られたと考えられています。年齢は道祐と称することになった晴宗が46歳、輝宗は21歳です。
この時期は織田信長が美濃国の斎藤義興を攻めている最中ですから、戦国乱世、群雄割拠のまっただ中でした。
家督相続と晴宗との不和疑惑
家督は相続したものの、実権はそのまま晴宗が握っていたと考えられます。これは晴宗が家督を継いだ際に、その父である稙宗が握っていたのと同様です。そして稙宗と晴宗は天文の乱(1542~48)という内乱を引き起こし、伊達氏の支配力は低下しました。まったく同じようなことを晴宗と輝宗も繰り返しています。武力衝突には至らなかったものの、数年に渡り晴宗と輝宗は不和だったと伝わっています。その証拠としてあげられるのが、永禄9年(1566)に伊達氏と蘆名氏で交された起請文の内容です。
もともと伊達氏と蘆名氏は縁戚関係を重ねて強い結びつきを持っていましたが、蘆名氏と二階堂氏が対立し、輝宗が二階堂氏を支援したことから伊達氏と蘆名氏の関係は悪化していました。その和議が成立したのがこの年です。和議の成立の条件として、晴宗の娘(輝宗の妹)を蘆名盛興の正室としたのですが、その際に輝宗は妹を一度自分の養女としています。つまり輝宗の娘として蘆名氏に嫁いだのです。
この約定には、蘆名氏が晴宗と結んで輝宗に逆らうことのないようにと明文化されています。晴宗と輝宗の間に確執があったことを物語っているわけです。
元亀の乱で主導権を得る
元亀の乱
家督を輝宗に譲った晴宗はしばらく米沢城近くにいたようですが、信夫郡杉目城に移っています。輝宗は米沢城にあって指示を下していたのですが、問題は晴宗の代から台頭してきた家臣らの存在です。蘆名氏の起請文も浜田宗景、中野宗時、牧野宗仲が宛先になっており、この面々が政治の中枢を担っていました。特に宗時、宗仲の父子は晴宗の意向に沿う政治を主導していたと考えられます。輝宗にとっては邪魔な存在です。
元亀元年(1570)4月4日、この宗時、宗仲父子の謀反が発覚。宗時は米沢城から宗仲の守る小松城に慌てて移りますが、翌日の5日に輝宗勢の攻撃を受けて小松城は落城。宗時と宗仲は相馬氏の領土へと落ち延びていきます。これが元亀の乱です。
謀反の計画をしていたのにもかかわらず、あっさりと敗れていることから、輝宗側の奇襲作戦によるクーデターだったのではないでしょうか。輝宗は引き続き浜田宗景は重用、宗時や宗仲の代わりとして遠藤基信を起用し、主に外交担当としての役割を与えています。
こうして輝宗は実権を握ることに成功しました。この経緯は天文の乱の際に実権を握った晴宗のときと似ていますが、晴宗が稙宗を幽閉したような強引さはありません。直接的に晴宗と輝宗はぶつかったわけではないのです。あくまでも権勢を得ていた家臣の追放です。そのため元亀の乱によるダメージは伊達氏にはほとんどありませんでした。
輝宗の外交戦略
輝宗の対外的な政策は、父親である晴宗とは真逆で、それ以前の祖父である稙宗の方針に似たところがあります。養子縁組や政略結婚によって周辺諸大名と血縁関係を結び、伊達氏の影響力を強めていくという外交戦略です。自身の妹を養女として蘆名氏に嫁がせたのもそのひとつですし、別の妹は常陸国の佐竹氏に嫁がせ、佐竹義重の正室となっています。入嗣については、永禄10年(1567)、弟の伊達政景が陸奥国宮城郡の留守顕宗の養子となり、家督を継いでいくことになりますし、翌永禄11年(1568)には弟の伊達親宗(のちの昭光)が石川郡の石川晴光の養子となって家督を継ぎました。
ちなみに輝宗が家督を継いだ時期に、出羽国の最上義守の娘(義姫)を正室に迎えており、永禄10年(1567)には嫡男の梵天丸(のちの伊達政宗)を産んでいます。
このように伊達氏は蘆名氏や佐竹氏、最上氏、留守氏、石川氏と強い結びつきをもっていきました。こうした外交方針の一変が晴宗と輝宗の関係を悪化させた原因のひとつだと考えられています。
元亀の乱によって完全に主導権を握った輝宗は、居城もなく軍事力もほとんど持たない遠藤基信を外交担当筆頭に据えて自身の意図を反映させやすくし、積極的な外交を展開していくのです。
例えば、蘆名氏や二階堂氏と対立している田村氏は南の不安定要素であり、その解決のために田村氏から政宗の正室を迎えています。また、宮城郡南部の勢力である国分氏についても家督相続に介入し、弟の伊達政重(のちの国分盛重)を入嗣させて家臣化にも成功しています。
永禄12年(1569)には北条氏政、天正元年(1573)には織田信長に書状も送っており、遠方との外交も重要視していたことがわかります。
相馬氏との対立
伊具郡南部を巡る争い
輝宗は天正期に入ると相馬氏と死闘を繰り広げました。相馬盛胤は伊達稙宗の長女を母としており、伊達氏にとっては血縁関係にあたるのですが、稙宗が亡くなった後は、その領土だった伊具郡は相馬氏に押さえられていきました。この伊具郡南部にあたる丸森、金山、小斎の奪還は輝宗に課せられた重要な役目となったのです。天正4年(1576)に相馬氏と亘理氏が手切れをすると、これを好機と見た輝宗は相馬領へ侵攻しました。しかし相馬勢の抵抗が激しく、輝宗は奪還に失敗します。翌天正5年(1577)には蘆名氏や同盟関係にある葛西氏と協力し、再び相馬領に侵攻しましたが、相馬盛胤・相馬義胤父子の戦上手ぶりに苦戦、失敗してしまいます。
しかし天正9年(1581)年には嫡男の政宗を伴って出陣し、調略が成果を出して城内の内応によって小斎城の奪還に成功。これで勢いに乗った輝宗はさらに戦を続け、天正12(1584)5月には佐竹氏・田村氏・白河(白川)氏が仲介して和睦が成立。その条件として伊具郡南部は伊達氏に返還されました。輝宗の執念が見事に実を結んだのです。
輝宗の最期
伊達氏が伊具郡南部を取り戻した同年10月、輝宗は家督を嫡男の政宗に譲ります。このとき輝宗41歳、政宗18歳です。稙宗→晴宗、晴宗→輝宗と当主が比較的若い年齢で隠居し、家督を譲っている傾向から、輝宗→政宗の家督相続も不思議な点はありません。
ただし長年縁戚関係にあり、強い絆で結ばれてきた蘆名氏が家督相続でもめ、それに伊達氏や佐竹氏が介入したことで、伊達氏と蘆名氏の関係は急速に悪化していきました。田村氏から独立した大内氏や畠山氏は蘆名氏に支援を求め、伊達氏に対抗しています。こうして伊達氏と蘆名氏の同盟関係は解消されてしまいました。
天正13年(1585)、政宗が大内領に侵攻したことで畠山氏は降伏。この際、輝宗の仲介もあって畠山氏はわずかばかりの本領安堵を受けています。しかし、畠山義継が御礼のために宮森城を訪れた際、輝宗は拉致されてしまいます。追撃した政宗は父親である輝宗もろとも義継を銃殺したといいます。
輝宗の最期については諸説ありますが、ここ何代かに渡る父子の確執を考慮すると、輝宗と政宗の間にも同様な事例があったかもしれず、意図的に輝宗を銃撃したのではないかという陰謀論もあります。
おわりに
天文の乱によって衰退していた伊達氏を再興させた輝宗の活躍は高く評価されるべきでしょう。この輝宗の築いた地盤があればこそ、次の当主となった伊達政宗は伊達氏当主として最大の成果を出していくのです。ただし、その最期は謎に包まれています。【主な参考文献】
- 高橋富雄『陸奥伊達一族』(吉川弘文館、2018年)
- 遠藤ゆりこ(編)『伊達氏と戦国争乱』(吉川弘文館、2015年)
- 高橋富雄『伊達政宗のすべて』(新人物往来社、1984年)
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