「伊達稙宗」政略結婚や養子縁組を駆使し、奥州の宗主として君臨!

 独眼竜政宗の三代前の当主が今回ご紹介する伊達氏十四代当主の「伊達稙宗」です。分国法として有名な塵芥集を制定したことでもよく知られている人物です。

 十四男七女という多くの子どもに恵まれた稙宗は、政略結婚や養子縁組を通じて奥州の宗主として君臨。その生涯についてお伝えしていきます。

伊達氏当主として初めて「陸奥守護職」に補任される

伊達尚宗の嫡男として誕生

 稙宗は、長享2年(1488)に伊達氏十三代当主である伊達尚宗の嫡男として誕生しました。

 母である積翠院は越後国守護である上杉氏の出自だと伝わっています。だとするとこのときすでに陸奥国の伊達氏と越後国の上杉氏はかなり深い繋がりがあったはずです。そしてこの上杉氏との深い繋がりが、稙宗の半生を狂わすのです。

 稙宗と名乗るのは永正14年(1517)のことですから、それまでは室町幕府将軍である足利義高から一字拝領し、伊達高宗と名乗っていました(今回はすべて稙宗で統一します)。

 伊達氏の当主となった詳しい時期は不明ですが、永正8年(1511)に家臣に発給した安堵状には稙宗の名前が記載されていますので、この時期には家督を継いでいたと考えられます。ただし尚宗が没する永正11年(1514)までは、尚宗と並立して伊達氏を率いていた可能性もあります。

 稙宗は永正10年(1513)、越後国で内乱が起こった際に、守護である上杉定実に味方し、守護代である長尾為景と争っています。これは母方の肉親である上杉定実を助けるためです。

 こうして稙宗と定実はより親しくなり、稙宗の子が定実の養子となる流れになっていったのでしょう。

陸奥守護職に補任される

 永正14年(1517)、室町幕府の将軍として復帰した足利義稙に莫大な贈答品を送り、一字拝領を願い出ました。このとき義稙の一字を拝領し、その後は「稙宗」と名乗ります。

 また、同時に幕府から「左京大夫」に任じられました。父である尚宗は従五位相当の大膳大夫でしたから、従四位下相当の左京大夫は、より幕府からの信頼を勝ち取った証です。

 左京大夫は奥州探題職を世襲してきた大崎氏の官位でしたから、伊達氏は大崎氏に匹敵する存在であることが公式に認められたことも示していました。

 そして大永2年(1522)には陸奥守護職にも補任されます。奥州は元来、守護を置いていません。鎌倉期には奥州惣奉行が奥州を監督し、さらに室町期になると、斯波氏の支流である大崎氏が奥州探題職を世襲し、奥州をまとめてきました。

 陸奥守護職は、単なる守護という扱いではなく、大崎氏に変わって奥州を統括するという役目もあったと考えられます。稙宗はあくまでも奥州探題職を欲したようですが、幕府は大崎氏に気をつかって奥州探題職は大崎氏としています。


 要するに伊達氏と大崎氏の二者が並立して奥州を代表し、その統括の地位にあったのです。ただし、勢いからすると実質的なリーダーは伊達氏であったことは間違いありません。

奥羽の主な国衆の分布マップ。緑エリアは陸奥、黄エリアは出羽

伊達氏の政略結婚による戦略

他勢力の取り込み

 稙宗は政略結婚や養子縁組を巧みに利用し、他勢力を取り込んでいきます。

伊達稙宗の婚姻策。黒線は婚姻関係、青破線は養子縁組
伊達稙宗の婚姻策。黒線は婚姻関係、青破線は養子縁組

 そのひとつが羽州探題の最上氏です。『伊達正統世次考』によると、永正11年(1514)、稙宗は最上氏を破りました。しかし稙宗は最上氏を滅ぼすことなく、翌年には妹を最上氏当主である最上義定の正室とし、伊達氏の勢力下に置くことに成功しています。

 また、稙宗の正室は会津国を支配する蘆名盛高の娘(泰心院)であり、その間に生れた娘も盛高の孫である蘆名盛氏の正室となり、伊達氏と蘆名氏は強く結びつきました。この縁戚関係を利用し、大永8年(1528)には葛西氏の領土へ侵攻。本拠であるりんこう館を落としています。

 稙宗はこの葛西氏にも我が子を入嗣しており、一説では七男が葛西晴重の養子となり、葛西晴胤と名乗って家督を継いでいます(ただし、この七男の牛猿丸は葛西晴清という説もあります)。

 ちなみに稙宗と泰心院の間に生れた長女は、相馬兵部大輔顕胤の正室となり、顕胤は14歳で家督を継いでいます。

 その他にも下館という側室との間にもうけた娘は、それぞれ仙道に領土を持つ二階堂氏、田村氏、懸田氏に嫁いでいます。亘理氏の娘も側室に迎え、その間にもうけた娘も亘理綱宗、亘理元宗に嫁ぎ、伊達亘理氏の祖となりました。


奥州探題大崎氏の取り込み

 他勢力の取り込みの矛先は奥州探題職を世襲している大崎氏にまで及びます。

 天文5年(1536)、大崎氏の当主である大崎義直は、伊達氏の本拠である西山城に使者を送り援軍を要請しました。前当主である大崎高兼が急逝し、急遽弟の義直が家督を継いだものの、統制がとれずに一門一族がどんどん独立状態になってしまったからです。

 これを打破する力を義直は持っておらず、仕方なく伊達氏に協力を仰ぎました。最大のライバルである伊達氏に援軍を依頼するのですから、義直はかなり崖っぷちに追い込まれていたのでしょう。稙宗はこの要請に応え、反義直派の拠点である古川城を攻め落としました。

 この際に、稙宗は高兼の娘と自身の二男である伊達小僧丸義宣を娶せ、大崎氏の養嗣子とする約束を交したと考えられています。

 こうしてついに大崎氏すら従属させることに成功。名実ともに伊達氏は奥州最大の勢力となっていたのです。

『塵芥集』を制定

 また、稙宗は同年に紛争解決の指針である『塵芥集』を制定しています。

 全国各地の分国法の中で最も条文が多いことでも知られており、この中で伊達氏は「守護」と、家臣は「地頭」と記されています。伊達氏の地位も紛争解決への介入も公式のものであることを示したのです。

伊達氏の長い内乱が勃発

嫡男と譜代家臣らによるクーデター

 奥州の宗主として君臨した稙宗でしたが、思わぬところに落とし穴が待ち受けていました。外様を優遇するあまり、譜代の家臣らの不満を招いてしまったことです。特に長女が嫁いだ相馬顕胤については、嫡男である伊達晴宗よりも溺愛しており、伊達氏の領土を割譲しようとしていました。

 さらに稙宗は三男の伊達時宗丸(後の伊達実元)を越後国守護である上杉定実の養嗣子にしようと動いており、越後国の安定のために伊達氏の精鋭百騎も時宗丸につける考えだったのです。

 このように伊達氏の外の勢力に対し助力したり、兵を割いたり、領土まで与えるといった方針が、伊達氏の譜代家臣に重くのしかかっていきます。

 稙宗は自分が実質的な奥州のリーダーだと自覚し、その信念に従って行動していたのでしょうが、譜代の家臣らは次第に危機感を募らせていきました。

 天文10年(1541)に稙宗は家督を嫡男の晴宗に委譲したと考えられますが、あくまでも伊達氏の中心は稙宗です。そんな稙宗に不満を抱いていた譜代の家臣らは晴宗を掲げてクーデターを起こしました。

 天文11年(1542)6月、なんと稙宗を捕らえて西山城に幽閉してしまったのです。こうして時宗丸の入嗣は阻止されたのですが、これを機に稙宗と晴宗が周辺諸国を巻き込み対立していきます。

 これが伊達氏の衰退を招いた内乱「天文の乱」です。

丸森城にて死去

 天文の乱で嫡男と争った稙宗でしたが、次第に劣勢になり、最終的には天文17年(1548)、室町幕府将軍である足利義輝の仲裁を受ける形で和睦しています。

 西山城は和睦の証として廃城。稙宗は伊具郡丸森城に移りました。このときになってようやく家督を晴宗に譲ったという説もあります。

 天文の乱の最中も当主の座にいたのであれば、もっと手の打ちようもあったはずなので、やはり家督を譲ったのが天文の乱が起きるきっかけになったと考えるのが妥当なのではないでしょうか。

 かつて奥州の宗主として君臨した稙宗は、永禄8年(1565)、丸森城で死去しました。天文の乱が起こってから23年後のことですから、稙宗は23年もの長きに渡り、不遇の時代を過ごしたのです。

 この丸森城は孫の相馬盛胤が接収し、伊達氏と相馬氏の領土争いはなおも続きました。

おわりに

 軍事力を駆使しつつも、巧みな外交戦術で伊達氏を奥州最大勢力とした稙宗の手腕は見事なものです。多くの血を流さず、政略結婚と養子縁組によって伊達氏は奥州宗主の地位を手に入れたのです。

 このままの状態で独眼竜政宗に引き継がれていたら、秀吉や家康に匹敵する勢力として天下獲りに名乗りをあげていたのかもしれません。


【主な参考文献】
  • 高橋富雄『陸奥伊達一族』(吉川弘文館、2018年)
  • 遠藤ゆりこ(編)『伊達氏と戦国争乱』(吉川弘文館、2015年)
  • 高橋富雄『伊達政宗のすべて』(新人物往来社、1984年)

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  この記事を書いた人
ろひもと理穂 さん
歴史IFも含めて、歴史全般が大好き。 当サイトでもあらゆるテーマの記事を執筆。 「もしこれが起きなかったら」 「もしこういった采配をしていたら」「もしこの人が長生きしていたら」といつも想像し、 基本的に誰かに執着することなく、その人物の長所と短所を客観的に紹介したいと考えている。 Amazon ...

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