【家系図】福島正則のルーツ、そして子孫はどうなった?

正則の家系図と福島一族の概要

正則の出自は諸史料によって異なっており、混沌としている。

『系図纂要』では、清和源氏で源頼光の流れを汲むというが、『寛政重修諸家譜』では元々は平氏だと伝えている。
また、正則の父は福島正信で尾張国海東郡に居住していたといい、母は秀吉の伯母だといわれている。だが、これらの情報が史実かどうかは定かでなく、伝承の域をでない。福島氏は正則によって有名になったから仕方ないかもしれない。

秀吉の縁戚だった正則は、幼い頃より秀吉に仕えて功を重ね、やがて尾張国清洲に24万石を与えられるほどに出世。秀吉死後の関ヶ原合戦では、徳川家康の東軍に属し、戦後には安芸国広島と備後国鞆を併せて49万石の大大名になった。しかし、豊臣恩顧の大名だったことから家康に警戒され、その後の福島氏は苦難の道をたどることになる。


慶長19-20年(1614-15)の大阪の陣では、福島一門の中に豊臣方に味方した者もいた。正則は徳川幕府から出陣を許されず、江戸留守居役とされている。そして元和5年(1619)には、広島城の無断修繕を理由に信濃国高井野藩に減転封され、わずか4万5千石に。しかも正則の死後はそれすらも没収されている。





正則の子孫は?

正則の死後、所領を失ってしまった福島氏のその後はどうなったのだろうか?


正則の嫡男・忠勝は元和6年(1620)に父に先立って死去しており、寛永元年(1624)に正則が没すると、末子の正利が3千石あまりの旗本として家を存続させた。だが、嗣子がなかったために一旦は断絶を余儀なくされている。その後、忠勝の孫にあたる正勝が天和元年(1681)に幕府に召し出され、2千石を与えられて福島氏が再興すると、以後は旗本として代々家名を繋いでいった。


高校教諭の福島正秀さんは、正則から13代目の直系の子孫で、正則の側室の流れを汲む末裔だという。正則が信濃川中島に減転封の命を受けた際、側室の子は2歳だったといい、その後は広島で商人になる道を選んだらしい。


正則の末裔は現代にまで続いていたのである。

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戦ヒス編集部 さん
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