福島正則ってどんな人? 名言や逸話からその人物像に迫る

名古屋市中区栄一丁目にある、福島正則の銅像
名古屋市中区栄一丁目にある、福島正則の銅像
 皆さんは福島正則といえば、どのような人物像が浮かぶでしょうか。秀吉が本能寺の変の後に、信長の後継者としての地位を、柴田勝家と争った賤ケ岳の戦い(1583)がありました。この戦いで特に活躍したことで称賛された『賤ケ岳の七本槍』の1人が、福島正則(ふくしま まさのり)です。

 大河ドラマや物語で語られる福島正則は、義理人情に篤く、情熱的な人物で描かれることが多くなっていますが、そうした人物像は後世の史料や伝聞によって生みだされました。そこで今回は、そうした福島正則にまつわる逸話や名言を紹介していきたいと思います。

賤ケ岳の七本槍として台頭~豊臣政権期

 福島正則は永禄4年(1561)、福島正信の長男として生まれました。父の正信は桶屋でしたが、母親が秀吉の叔母だったため、その縁で秀吉の小姓になっています。初陣は天正6年(1578)で、天正11年(1583)の賤ケ岳の戦いでは「七本槍の一番槍」として激賞されました。

幼少期に世話になった人への恩は忘れない

 正則は幼少期、甚目寺(愛知県あま市)の釈迦堂に住む尼僧に世話になっていました。その後に出世した正則はその恩を返すため、食料を施して恩を返し続けました。正則が後に安芸広島に領地替えとなった際、この地に残る将にその世話を頼んでいます。

「今、拙者が他所に移ってしまえば、老尼はさぞかし困るだろう。貴殿ら、よろしく老尼の世話をして下されば、この身にとってはまことに嬉しきこと。何卒頼み入る」『名将言行録』


 その後も秀吉の四国征伐や九州平定、小田原征伐、朝鮮出兵などで活躍し、文禄4年(1595)には尾張国清州(愛知県清須市)に24万石の所領が与えられました。

朝鮮出兵で狙われるも武勇で撃退

 福島正則は秀吉から見ると従兄弟になります。そのため、朝鮮出兵時には李氏朝鮮の将兵で下記のような噂が流れ、正則は当初、集中的に狙われたそうです。

「正則は関白の叔父にあたる者(情報の間違い)であるから、彼さえ討てば、この戦に勝つことは容易なことだ」『名将言行録』


 しかし、三度攻めこまれた正則が全てを撃退したため、朝鮮の兵は彼を恐れてあえて近づくことをしなくなったと言います。

酒で失敗、名槍を吞み取られる

「貴殿がそれを飲み干したら、何でも望む物を与えよう」『名将言行録』


 文禄5年(1595)年、小田原攻めの功で与えられた天下三名槍の「日本号」を、正則は上記のように迂闊な一言で失うことになりました。この槍は天皇家に受け継がれていたものを秀吉が与えられ、それを秀吉が正則の武功を賞して与えた物でした。

相手は黒田官兵衛の家臣で母里太兵衛という武将です。正則はその日、酒に酔っており、黒田から使者として来た母里に礼として酒を与えようとしました。しかし、使者として来ていた母里は固辞し続けます。怒った正則は「黒田武士は酒に弱く酔えば何の役にも立たない」と叫ぶと、大きな杯になみなみと酒を注いで上記のセリフを言います。

 すると母里はその酒を豪快に飲み干し、正則の持っていた「日本号」を求めました。正則は後悔しつつも、武士に二言はないとして槍を渡したと言います。

 以後、「日本号」は「呑み取りの槍」という別名で呼ばれるようになったと言います。正則はその後も別の品の代わりに槍を返してもらえないかと母里と交渉しましたが、母里は最後まで拒否。正則は二度と槍を取り戻せませんでした。

千利休には敵わない

 また、基本的に武士ならば戦働きが第一という考えがありつつも、柔軟な考えができたこともわかっています。ある時、千利休について「なぜ武勇もなく得体の知れない茶人の千利休のことを慕っている」と細川忠興に聞いたところ、忠興に茶会に誘われました。この茶会が終了後、正則はこう言ったと伝わっています。

「わしは今までいかなる強敵に向かっても怯んだ事は無かったが、利休殿と立ち向かっているとどうも臆したように覚えた」『細川忠興家譜』


秀吉没後~関ケ原の合戦期

 朝鮮出兵をめぐって石田三成と対立した福島正則は、秀吉の死の翌年である慶長4年(1599)に前田利家も病死したことで対立が決定的となりました。実際、この年に盟友である加藤清正とともに石田三成を襲撃する事件も起こしています。

関ケ原の戦いでは三成に反発する形で徳川家康の味方につき、先陣を切って戦ったことで戦後、安芸広島49万8千石を与えられました。

大出世か討死の賭け

 この時、関ケ原前に会津攻めで出陣する日をあえて占い結果が大凶だった日にしました。正則の家臣との会話が伝わっています。

正則「どうせここを出たら戻らぬ」
家臣「急なことでないので、御出陣をなにも今日にすることはありますまい」
正則「わしは所領が少ないから、兵も多くはない。人の後について、鬱屈した気持ちで日々をすごすより、関東で武功を立てて大きな領地をもらうか、強い敵を破って人々を驚かすような戦死をするしかないのだ。どちらになるかは天運に任せる」『名将言行録』


 正則は大功を立てて別の領地をもらうか、強敵に玉砕するつもりでした。そのため、どうせここに戻らないのだから、出陣の日には拘らなかったということでしょう。

誰よりも早く家康に味方する

 また、石田三成の挙兵後に、諸将を集めて家康が話した際、真っ先に家康に味方することを宣言したのは正則と言われています。

「秀頼公は御年わずか八歳でいらっしゃいますから、どうして自らこのような御企てがおできになりましょうや。これは間違いなく石田三成の謀でして、天下を我が手に収めたいと願っていることは疑いのないところです。他の方々の気持ちがどうであろうとも、この正則は関東(家康)のお味方として、その兇徒らを誅伐します」『名将言行録』


 この言葉に諸将は賛同し、関ヶ原の合戦で家康は多数の味方を率いて戦えたと言われています。

武士として約束は守る

 正則は先陣として東海道を西進し、織田信長の孫秀信(元服した三法師)の守る岐阜城に攻めかかりました。秀信は耐えきれず降参し、城を明け渡す代わりに自分と家臣が城から逃げるのを認めてほしいと正則に申し出ました。この時、家臣の中には「秀信を捕まえるべき」と主張する者もいました。しかし正則はこう家臣を注意しました。

「武士たる者は、一旦結んだ約束を破ることを恥とする。和睦が成立して、戦が終わってしまったのに、相手を陥れるというのでは、武士の資格に欠けると言わねばならぬ」『名将言行録』


敵であっても名将には敬意を

 また、この戦で織田秀信の家臣に木造長正という者がいて、奮戦したものの負傷し岐阜城近くの民家で治療を受けていました。正則はその話を聞いて彼に使者を派遣し、こう伝えました。

正則「貴殿の傷が気がかりだ。医師を申しつけましょうか」
長正「そのご厚意は決して忘れません。しかし傷は浅いので、お気遣いなきよう」『名将言行録』


 戦後、木造長正は前田利長が召し抱えようと勧誘しましたが、誘いに乗らずに正則の家臣として働いたと伝わっています。

敵に背中を見せたくないという意地

 こうした武士らしさがあるエピソードの多い正則ですが、武士らしくあるためには意固地な面もありました。関ケ原の戦いで先陣を務めた正則は、大勢が決した後もその姿勢を崩しませんでした。西軍が総崩れとなり伊吹山方面に撤退する中、島津軍だけが死に物狂いで正面突破を図りました。東軍は勝利が確実となった状況で兵を失いたくないと島津軍との戦いを避けましたが、正則は敵に背中を見せたくないと島津兵と戦おうとしました。家臣が彼を引き止めると、正則はこう言って馬を島津軍に向けようとしました。

「武士たる者の墓所は戦場なのだぞ」「敵に後ろは見せたくない」『名将言行録』


 家臣は必死に正則と馬に組みついて行く手を阻み、正則はついに諦めました。しかし、どうしても敵に背中を見せたくないとして、正則は馬上で体をねじり、後ろ向きに引き返したと伝わっています。
 

江戸幕府期

 慶長6年(1601)年以降は与えられた広島で内政に励むことになりますが、秀吉の子である秀頼に対する恩も忘れていませんでした。慶長16年(1611)に家康と秀頼が会見をする際は淀殿の説得に奔走しています。この頃には病気によって幕府に隠居を願い出ており、戦場で活躍はできなくなっています。

福島正則は恐妻家?

 この頃、正室の照雲院を三男・正利の難産の影響で失っています。その後継室となった昌泉院は家康の養女で牧野康成の娘でした。彼女はその立場もあり、妾の存在を許さない嫉妬深い女性だったようです。

 そのため、正則が浮気をして酒を飲んで帰った際は薙刀をもって正則を追いかけまわし、戦場で背中を見せたことのない正則が背中を見せて逃げ回ったと伝わっています。ただし、この逸話は出典となる史料がないため、河合敦氏は後世の創作ではないかとしています。

酒で失敗(何回目か不明)

 また、広島藩主となった後、船で大坂や江戸に向かった帰りは必ず鞆の浦で船から降りる正則は、そこで家臣に木綿の服に着替えるよう命じていました。しかし、酔った正則は着替えを命じるのを忘れ、船を降りる準備が遅れた家臣の柘植清右衛門を叱責しました。

「先ほど木綿に着替えるように触れよと、柘植清右衛門に申し付けたのに、未だにそれに触れていないようだ。清右衛門は何をしているか」
「とにかく、清右衛門を見つけて頸を斬れ!奴の頸を見なければ船より上がらぬ」『武功雑記』


 柘植清右衛門は殿がそう言うならと切腹し、正則はその後眠ってしまいました。翌日正則が柘植清右衛門を呼び出すも、彼は既に死んで頸になっていました。正則は1日中泣きながら柘植清右衛門に詫びていたと言います。

昔の交友関係は大事にする

 慶長13年(1608)に秀頼が疱瘡(天然痘)になった際、広島から誰よりも最初に秀頼の見舞にやってきたと伝わっています。また、八丈島に正則の家臣の乗った船が不時着した際、船に載せた正則の酒を家臣がある人物に一部渡しました。その人物は宇喜多秀家。関ヶ原の戦いで西軍の先鋒として正則と戦った元五大老でした。その報告を受けた正則はその家臣を上機嫌に褒めたと伝わっています。

「あっぱれでかしたぞ。わしの指図をうけられない遠いところで、一樽の酒を贈ったのはよき計らいだった。わしをはばかって酒を与えずにいれば正則はけちな男だと宇喜多に蔑まれる。そうなればどれほど無念か」『名将言行録』


 慶長19年(1614)年に始まった大坂の陣では秀頼から加勢を求められますが、これを拒絶しています。一族に豊臣軍に参加した者もいた上、弟の福島高晴が秀頼に内通したとして改易されました。そして元和5年(1619)、家康の死後台風による被害で壊れた広島城の修繕を幕府の許可なく行ったという理由で安芸・備後50万石が没収されました。

 嫡男の忠勝は越後魚沼と信濃を含む高井野藩(長野県高山村)へ転封となり、石高は4万5千石まで減りました。寛永元年(1624)年に高井野で死去しました。ただ、死去後幕府の検死役が到着する前に家臣が火葬にしてしまったため、残っていた所領も全て没収され、子孫は大名でなく旗本として残ることになってしまいました。

狡兎死して走狗烹らる

 この領地没収の際、正則と家臣の会話としてこのようなものが伝わっています。

家臣「かつてはあれほどまでのご武功を重ねられましたのに、このようなご処置とは、一体どういうことでしょう」
正則「弓をみてみよ。敵がある時はこの上なく重宝なものだが、国が治まっている時は、袋に入れて土蔵に入れておく。わしはつまり弓である。乱世の時は重宝がられる人間さ。今このように治世の時代となれば、川中島の土蔵に入れられたのだ」『名将言行録』


まとめ

 福島正則は私たちが現在イメージする武士らしい武士そのものだったと言えます。強敵には敬意を見せ、口にした約束は守り、面目を大事にし、恩を忘れない。一方で酒癖が悪く、失敗しつつも後悔しない。結果同じような失敗を何度もする。ある意味人情味がある人物ですが、家臣は慕いつつも苦労していた気がします。


【主な参考文献】
  • 岡谷繁実『現代語訳 名将言行録』(講談社、2013年)
  • 小和田康経『刀剣目録』(新紀元社、2015年)
  • 久下実 『広島藩』(現代書館、2015年)
  • 近藤瓶城『史籍集覧』(近藤出版部、1906年)

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  この記事を書いた人
つまみライチ さん
大学では日本史学を専攻。中世史(特に鎌倉末期から室町時代末期)で卒業論文を執筆。 その後教員をしながら技術史(近代~戦後医学史、産業革命史、世界大戦期までの兵器史、戦後コンピューター開発史、戦後日本の品種改良史)を調査し、創作活動などで生かしています。

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