「槇島城の戦い(1573年)」足利義昭が挙兵もあえなく敗退、室町幕府は事実上滅亡。

織田信長が第15第将軍・足利義昭を追放したことにより、室町幕府は滅亡します。きっかけとなったのは、京都で行われた「槇島(まきしま)城の戦い」です。かつては友好関係にあった信長と義昭。二人はどういった経緯で敵対し、武力衝突にまで至ったのでしょうか。

信長と義昭の対立の経緯

永禄11(1568)年9月、信長は足利義昭を奉じて入京しました。翌10月、義昭は念願の征夷大将軍に就任します。

以後、信長と義昭は非常に良好な関係でした。信長は義昭のために二条城(義昭の邸宅)を造ってあげたり、義昭は書状の中に「御父 織田弾正忠殿」なんて書いたり。……めちゃくちゃ仲良しじゃないですか!!

しかし二人の間にはやがて確執が生まれていくのです。

足利義昭の肖像画
信長に対し、執念深く敵対した足利義昭

確執の始まり

永禄12(1569)年10月、信長と義昭は初めて衝突します。伊勢平定を義昭に報告しに行った信長。その後しばらくは、京都に滞在する予定でした。ところが突然、当時の本拠地・岐阜へと帰ってしまいました。どうやら二人はケンカ別れをしたようなのです。

ケンカの原因は何だったのでしょう。おそらく翌年に信長が義昭に承認させた「五カ条の条書」だと推測されています。

五カ条の条書
五カ条の条書(※イメージです)

将軍の権限を著しく制限する内容に、義昭が反発したことは想像に難くありません。義昭にとってみれば、「オマエ何様だよ!?」という感じですよね。

信長に擁立されて将軍となった義昭。対して将軍の権威を “利用” して統一事業を進めようとする信長。二人の争いの火蓋は静かに切って落とされました。義昭は水面下で反信長勢力を結集し始めたのです。

水面下で信長包囲網を形成する義昭

元亀3(1572)年には、反信長勢力はかなりの拡大を見せます(信長包囲網)。この頃には松永久秀・三好義継・武田信玄・石山本願寺(顕如)・浅井長政・朝倉義景……など、そうそうたるメンバーが義昭と通じていたとみられています。

しかし恐ろしいのは、義昭は表面上、信長との関係は穏やかだったことです。義昭は信長のため、京都に屋敷を造ったり(建設中に延焼)、高屋城攻めのときには応援軍を派遣したりしています。

信長と義昭は、お互いにもはや敵であることを知りながら、上っ面では仲良くしている……うーん、怖い。

17か条の異見書で義昭を非難した信長

同年9月、信長は義昭に全17か条からなる異見書を提出しています。その内容といえば、義昭のことを痛烈に批判しているものばかりです。この頃になると、二人の対立は誰の目にも明らかになっていったのですね。

武田信玄の西上

一方、10月3日には武田信玄が本拠地である躑躅ケ崎館(つつじがさきやかた/現山梨県甲府市)を出陣します。

信長を追い詰めたい義昭にとって、信玄の出陣は待ち望んでいたものでした。とはいえ、このときの信玄の目的が一気に「上洛」を目指していたのか、それとも単に徳川・織田領の侵略だったのかという点は、専門家の間でも意見が分かれるところです。

西上作戦における武田軍の進路
西上作戦における武田軍の進路(1572~1573年)

このときの武田軍は、徳川方との二俣城の戦い・三方ヶ原の戦いに勝利するなど、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いで支配領域を広げていきました。一方で信長は、徳川に援軍(佐久間信盛・平手汎秀・水野信元)を送ったものの、自身は岐阜城を動かなかったようです。信玄の進攻に備えていたものと考えられます。

義昭、ついに挙兵!

年が明けた元亀4(1573)年には、信長の周りは敵だらけとなります。畿内では、義昭方につく者が続出したのです。同年2月13日、義昭は各方面に御内書を出し、ようやく反信長の立場を鮮明にしました。

義昭は幕府軍を組織して、近江志賀郡に派遣。浅井長政もこれに呼応し、穴太(あのう/現滋賀県大津市)に放火しています。また鉄砲の材料を集めるなど、信長と対決するための準備を着々と進めていました。

今堅田・石山の戦い

一方の信長は、義昭との和睦を望みました。ところが義昭はこれを拒否します。信長がいくら下手に出ようとも、義昭は首を縦に振ってくれません。このときの義昭さん、かなり強気だったようです。さらに義昭は近江・石山と今堅田の砦(ともに現滋賀県大津市)に兵を入れます。

当時の義昭としては浅井・朝倉たちと協力しつつ、信玄が来るのを待とうという目論見だったのでしょう。まぁ、ダメになっちゃうんですけどね! 詳しくは後ほど。

2月20日、義昭のこの行動に対し、信長は兵を動かします。これは義昭に多少のダメージを与え、講和に持ち込もうとしたものと考えられます。同月24日には柴田勝家・明智光秀・丹羽長秀・蜂屋頼隆が、石山・今堅田の砦に攻撃を仕掛けました。両砦とも長く持ちこたえることはできず、26日には石山、29日には今堅田が開城しています。

信長、上京に放火

一方その頃、武田信玄の軍は野田城(現愛知県新城市)を攻略(2月中旬)。しかし武田軍は、野田城からなかなか進みませんでした。ひとまず武田軍は大丈夫と見た信長は3月25日、義昭を攻撃するために岐阜を出発します。

3月29日には逢坂(おうさか/現大津市)に到着。将軍の側近であった細川藤孝と摂津の荒木村重が信長を出迎え、忠節を誓っています。四面楚歌の状態にあった信長は、これにかなり喜んだらしく、二人にはその場で名物の刀が与えられています。その日の昼には京都に入り、知恩院(現京都市東山区)に着陣しました。

4月2・3日、信長軍は京都の郊外に火を放ちます。目的は義昭を脅し、和睦交渉に応じさせるためです。すぐに信長の使者が義昭のもとを訪れましたが、それでも義昭は和睦を拒否しました。

翌4日、信長の軍勢は、かねてから信長に反抗的であった上京(かみぎょう/京都市街地の北側)にも放火。同時に二条城を包囲し、義昭に和睦を迫ります。しかし、これでも義昭は信長との和睦に応じませんでした。なぜだと思います? 義昭は、信玄や浅井・朝倉が助けてくれると、まだ期待していたからです。

槇島城の戦いに関連する要所。色が濃い部分は山城国

一時的な和睦の期間

しびれを切らした信長は、正親町天皇に働きかけます。4月7日、関白の二条晴良が義昭を説得。こうして、ようやく二人は和睦したのでした。結局これは、一時的なものだったのですが……。

翌8日、信長は岐阜へと戻ります。その途中、六角氏の立て籠もる鯰江(なまずえ)城(現滋賀県愛知郡愛東町)を攻撃。さらに六角氏側についていた百済寺の全伽藍を焼き討ちにしています。

信玄の死

野田城を落とした後、武田軍は不可解な行動に出ていました。京都のある西の方角ではなく、北へと進軍していたのです。これは信玄の体調が悪化していたからです。そして4月12日、信玄は病死します。ところが信玄の死は、すぐには公にされませんでした。

大船の建造

和睦したとはいうものの、義昭が再び反旗を翻すと踏んでいた信長。5月に佐和山(現滋賀県彦根市)を訪れ、大船の建造を命じました。7月5日に完成した大船は、長さ30間(54メートル)・幅7間(13メートル)という、当時としてはかなりの大きさ。そしてこの大船、すぐに使われることになるのです。

義昭、執念の再挙兵(槇島城の戦い)

しぶしぶ信長と和睦するに至った義昭は、信長が岐阜に戻る頃には怪しい動きを見せていました。5月になると反信長連合の結成を呼び掛けるため、諸国の大名たちに書状を送っています。朝倉・毛利・顕如・武田信玄など……ん? 信玄? 信玄は先月に亡くなりましたよ? 

元亀4年(1573)7月3日、義昭は信玄の死を知ってか知らでか、槇島城(現京都府宇治市)に立て籠もりました。報せを聞いた信長は、造っておいた大船で琵琶湖を渡り、9日には京都の妙覚寺(みょうかくじ・現上京区)に着陣します。

二条城には、幕府奉公衆の三淵藤英や武家昵近(じっきん)公家衆の日野輝資・高倉永相らがいましたが、すぐに降伏。三淵藤英は降伏を拒否したものの、説得に応じて7月12日に開城しました。

7月16日には義昭の立て籠もる、槇島城に軍勢が派遣されました。織田軍はなんと、主だった武将たちが率いる総勢7万もの大軍勢! 翌17日には信長本人も京都を出陣しています。

そして7月18日、織田軍は二手に分かれ、槇島城への攻撃を開始しました。槇島城は巨椋池(おぐらいけ/かつて存在した周囲約16キロメートルの湖沼)の中に築かれた水城。難攻不落にも思えた槇島城でしたが、この日のうちに開城を余儀なくされました。

おわりに

反信長包囲網の黒幕から一転、義昭は敗軍の将となります。ところが、信長はそんな義昭を殺すことなく、“追放”としたのです。これは信長が、世論を気にしたからとも考えられています。義昭の槙島城の退去をもって、およそ240年続いた室町幕府は滅亡しました。

信長は7月28日、それまで義昭の存在によって実現できなかった、天正への改元を行いました。義昭の追放によって、信長は改元の権限をも握ることができたのです。かつては蜜月関係だった二人。明暗がくっきりと分かれましたね。

一方、京都を追放された義昭は、枇杷庄(びわのしょう)(現京都府城陽市)、津田城(現大阪府枚方市)を経て、若江城(現大阪府東大阪市)へと移ります。その道中、「貧乏公方」と民衆から笑われたのだとか……。

若江城で義昭を匿ったのは、義昭の妹婿に当たる三好義継でした。義継にしてみれば、義昭を受け入れないわけにはいかなかったのです。しかしこの行動が、同年11月の若江城の戦いへとつながっていきます。


【主な参考文献】
  • 谷口克広『織田信長合戦全録 -桶狭間から本能寺まで』(中公新書、2002年)
  • 谷口克広『信長の天下布武への道』(吉川弘文館、2006年)
  • 谷口克広『信長と将軍義昭 提携から追放、包囲網へ』(中公新書、2014年)
  • 全国歴史教育研究協議会『日本史用語集 A・B共用』(山川出版社、2014年)

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  この記事を書いた人
犬福チワワ さん
日本文化・日本史を得意とする鎌倉在住のWebライター。 都内の大学を卒業後、上場企業の経理部門・税理士法人に勤務するも、体調を崩して離職。 療養中にWebライティングと出会う。 趣味はお笑いを見ることと、チワワを愛(め)でること。

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