【解説:信長の戦い】野洲河原の戦い(1570、滋賀県野洲市) 六角氏、せっかくカムバックを果たすも…
- 2020/11/04
信長軍と六角(義賢・義治)軍との間で起こった野洲河原(やすがわら)の戦い。逃げていた六角親子がカムバックしたために勃発しました。しかし……!
人生ってなかなか思い通りにいかないものだなあと、しみじみ感じてしまうような戦いです。
人生ってなかなか思い通りにいかないものだなあと、しみじみ感じてしまうような戦いです。
六角義賢・義治父子がカムバック!
元亀元年(1570)4月、朝倉義景を攻めるため、越前に進軍しようとしていた織田信長。ところが義弟・浅井長政の離反に遭い、計画が狂ってしまいます。信長はすぐに撤退を決断し、木下藤吉郎らを殿軍(しんがり)として残しました(金ヶ崎の退き口)。
どうにかピンチを切り抜け、京都へ戻ることができた信長でしたが、さらなる不幸が降りかかります。かつて観音寺城の戦いで甲賀郡に逃れていた六角義賢・義治父子が、この機に乗じて琵琶湖近くまで進出してきたのです。
まさかのカムバック。このままでは、京都―岐阜間の通路が塞がれてしまいます。
うーむ……これは、近江平定どころの話ではないですね。そこでまず信長は、稲葉良通を守山に派遣し、六角方の土豪たちを追い払わせました。同年5月9日には京都を出発し、12日に永原(現滋賀県野洲市)に到着。永原には7日間滞在し、通路確保のため、下記のように武将を配置しました。
- 永原城:佐久間信盛
- 長光寺城:柴田勝家
- 安土城:中川重政・津田隼人佐(はやとのすけ)
途中、宇佐山城(現滋賀県大津市南滋賀町)にはすでに森可成(よしなり)を置いていたので、地図をご覧いただくとわかる通り、湖南の防衛線ができあがりました。
のちに横山城には木下秀吉、佐和山城に丹羽長秀が置かれ、近江の支配体制へと発展するのですが、今回は割愛します。
通路を確保できた信長は19日に永原を発ち、21日には岐阜城へとたどり着きました。
鬼柴田が六角軍を撃退!
一方、5月下旬、六角氏は数千の兵力でもって草津方面に出張してきました。一旦は没落した六角氏でしたが、伊賀・甲賀の土豪たちを動員したのです。これに対峙したのは、永原城の佐久間信盛と長光寺城の柴田勝家でした。6月4日の昼、両軍は野洲川北岸の乙窪(現野洲郡中主町)あたりで衝突。わずか2~3時間で決着がついたようで、織田軍の勝利に終わりました。
三雲や高野瀬といった重臣を含む780名を失った六角軍は、再び甲賀郡へと逃げていったのです。信長も一安心といったところでしょうか。
「ツボワリ柴田」の逸話
さて、柴田勝家には「瓶(甕)割り柴田」「ツボワリ柴田」といった異名があります。由来は野洲河原の戦いに先立って行われたとされる、長光寺城の戦いでの出来事です(『武家事紀』)。実は後世の創作との見方が強い話なのですが、有名なので紹介しておきます。
勝家の守る長光寺城を包囲した六角軍は、さらに城の水源を断ちました。しかし勝家は、貴重なはずの城内の水で馬を洗ってみせるなどし、城内に紛れ込んだ間者に余裕を見せつけたのです。それどころか、出撃前には水の入った3つの瓶をたたき割り、皆を奮い立たせた
とか。参考までに、この記事のアイキャッチ画像は『絵本太閤記』にみえる「ツボワリ柴田」の逸話の部分です。
まとめ
一度ならず二度までも織田軍に敗れた六角氏。それでも懲りずに信長に抵抗を続けますが、次第に歴史の表舞台から遠ざかることに…。一方、義弟・浅井長政への報復に水を差されそうになった信長でしたが、この後まもなく、浅井・朝倉軍との有名な合戦・「姉川の戦い」へと舵を繰ることになるのです。
【主な参考文献】
- 太田牛一『現代語訳 信長公記』(新人物文庫、2013年)
- 谷口克広『戦争の日本史13 信長の天下布武への道』(吉川弘文館、2006年)
- 谷口克広『織田信長合戦全録 -桶狭間から本能寺まで』(中公新書、2002年)
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