「信貴山城の戦い(1577年)」梟雄・松永久秀の最期となった合戦

戦国3大梟雄(きょうゆう)の一人に数えられる松永久秀。織田信長に対して恭順と反発を繰り返しましたが、その度に信長は久秀を許してきました。しかし、信長への2度目の謀反「信貴山城の戦い」において久秀は降伏を受け入れず、信長が欲した名物「平蜘蛛」もろとも自害しています。

なぜ、久秀は信長の申し出を拒み、死を選んだのでしょうか。久秀最後の戦となった「信貴山城の戦い」に迫ります。


久秀の人物像

信貴山城の戦いで苛烈な最期を遂げたことで知られる松永久秀は、戦国3大梟雄の一人として悪名をとどろかせた人物です。

かつて信長は建設中の安土城を訪れた徳川家康に「この男は世の人の成し難きことを3つもやってのけた」と久秀を紹介しました。

成し難き事とは、即ち

  • 1、将軍足利義輝の弑逆
  • 2、主君の三好慶長の殺害
  • 3、東大寺大仏殿の焼き討ち

の3悪行です。

信長なりの誉め言葉だったのかもしれませんが、これを聞いた当の本人は汗を流して赤面していたとか。これを聞くと、悪行三昧の悪人としてではなく、もっと人間味のある久秀の人物像が浮かび上がってきますよね。

昨今の研究では前述の3悪行も濡れ衣だったことが明らかにされつつあり、久秀の残忍、かつ、極悪非道といったヒール役のイメージは徐々に払しょくされてきているようです。

実のところ、久秀は悪名高い一方で茶の湯に通じた文化人でもあり、名物飾りを行う「大名茶湯」を行う茶人として知られていました。

当時の茶人で最も知名度が高い人物と言えば千利休ですが、久秀は利休の師である武野紹鴎(たけのじょうおう)の茶会で手ほどきを受け、自分の初めての茶会に千利休の最初の師・北向道陳を招待するなど、茶の湯にかけては利休に引けを取らない一流の技を身に着けていたと推察されます。

もちろん、利休とも茶の湯を通した交流があったことが知られており、久秀は茶の湯を深めながら堺の茶人や豪商とよい関係を築いていたようです。


大和支配の強化のため信長と同盟関係に

元々久秀は三好長慶の一家臣でしたが、三好家の中で徐々に頭角を現し、やがて重臣へと出世。その実力が認められて大和をほぼ手中に収めました。

長慶の死後は三好一門の有力者・三好三人衆との抗争を繰り返し、苦戦を強いられていましたが、久秀はこの状況を打破するために一手を打ちました。それは信長との同盟です。

将軍・足利義昭を奉じての上洛にあたって、京都や堺に影響力をもつ久秀との関係性を重要視した信長と、義昭と信長の後ろ盾を得て戦いを有利に進めようとした久秀。両者の利害関係の一致によって、信長と久秀の「同盟関係」が成立しました。

信長軍は三好三人衆を追い落とすと、久秀に多聞城と信貴山城を拠点にした大和の支配を任せました。このとき久秀は名物・唐物茄子茶入「我朝無双のつくもかみ」を信長に献上し、以来信長に臣従しています。


松永久秀関連マップ。色塗エリアは大和国。青マーカーは久秀の居城となった城

将軍・義昭と組んで信長に反旗を翻す

元亀2(1571)年、甲斐の武田信玄は遠江・三河への進攻を本格化し、信長に圧力をかけ続けました。

久秀はこうした信長包囲網からの呼びかけに呼応、それまで対立していた将軍・義昭と結託して信長に反旗を翻します。これを見た信長は筒井順慶に命じて、久秀とその息子・久通が居城する多聞城を攻撃させました。

このとき多聞城にこもって抗戦した久秀はこらえきれずに降伏。久通の子(久秀の孫)を人質に差し出し、信長に許されました。


信長は久秀のセンスに憧れつつ、嫉妬していた?

その後、久秀の居城であった多聞城は信長に接収されてしまいますが、この多聞城は当代きっての豪華絢爛な城郭として名を知られていました。

豪華な4階やぐらに塁上に長屋づくりを連ねた多聞やぐら、御殿内部の壮麗な障壁画や金地の彫刻飾りなど、当時最先端の意匠が凝らされていたようです。

しかも多聞城には久秀が収集していた名物の茶道具や書画など天下の至宝が大量に集められていたとのこと。久秀同様に茶道具や美術品を愛した信長は、これらを城ごと手中に収めてしまったのです。

信長は多聞城がよほどお気に召したのか、多聞城のやぐらを壊して築城中であった安土城に送り、このやぐらをもとに天守を築造したようです。

しかしその一方で、自分が作るより先に創造された華麗な城の存在が許せず、多聞城をことごとく破壊させたりしています。しかも、この破却の責任者とされたのは、久秀の子・久通と、久秀のライバルであった筒井順慶。久秀親子の心中はいかばかりだったでしょうか。

もしかしたら信長には、久秀の持つ教養や美的センスへの共感と憧れがあったのかもしれません。そしてその一方では、久秀に言いようのない嫉妬を感じていたのかも。

もともと性格的に似通った部分のある久秀と信長だからこそ、お互いに惹かれたり反発したりを繰り返していたのでしょう。


合戦の内容

陣中からの突然の離脱

天正5(1577)年8月、信長の石山本願寺攻めに参陣していた久秀が突如兵を引き上げ、大和の居城である信貴山城に立てこもりました。ここで久秀は再び信長に反旗を翻したのです。

これは、毛利輝元のもとに身を寄せていた義昭による第二次・信長包囲網の動きに呼応したものだと考えられています。

第二次・信長包囲網の主役ともいえる上杉謙信が加賀一向一揆と和睦して上洛するとの情報を入手した久秀は、本願寺、毛利氏、謙信と連合すれば、勝機十分と踏んだのかもしれません。


信長の側近・松井友閑の説得むなしく、開戦

信貴山城に立てこもる久秀に対して、信長は久秀と親しい自分の側近・松井友閑を使わせて降伏を勧めました。

久秀が所有していた名物茶釜「平蜘蛛」を差し出せば許すよ、と信長は久秀が戻りやすいように尤もらしい条件まで準備して。しかし久秀は友閑の面会を断り、織田方の説得に応じることはありませんでした。

信長はやむなく同年9月29日に信貴山城へ軍勢を派遣。このときの総大将は信長の嫡男・織田信忠、従う将兵は筒井順慶、明智光秀、細川幽斎など名だたる者たちです。信長はさらに羽柴秀吉、佐久間信盛を援軍として派遣し、2万数千もの大軍で信貴山城を包囲しました。

10月5日に戦いが始まると、信長は人質であった久秀の孫2人を京中を引き回したうえで殺害。それでも、堅い守りを誇る信貴山城は簡単には落ちません。久秀軍も大軍を相手に死に物狂いの応戦だったことでしょう。戦は長期戦になるかと思われました。


内部からの反乱、落城も時間の問題に

しかし、久秀にとって思わぬ事態が起こります。もともと順慶の家臣で久秀の配下となっていた森好久が、自ら率いる200の鉄砲隊とともに久秀に背いたのです。

圧倒的な兵力差で責められ、自軍の内部からも反乱がおこり、久秀軍は泥沼状態。
そして、すでに兵を引いていた謙信からも、本願寺からも、そして毛利からも久秀への援軍はついに届きませんでした。


久秀、ついに信貴山城にて自害

10月10日夜、信長軍は総攻撃を開始しました。このとき久秀は67歳。息子の久通とともに決意の籠城でしたが、久秀はもはやこれまでと覚悟を決めました。


松永久秀の最後の切腹シーン(月岡芳年画)
松永久秀の最後の切腹シーン(月岡芳年画)

雪舟の絵をはじめとしたさまざまな美術品を火中に投じるとともに、信長が懇望した天下に名高い茶釜・平蜘蛛を床に投げつけうち砕きます。そして火をかけると、爆発炎上する信貴山城の天守において一族郎党230人余りと共に切腹。その人生に幕を下ろしたのでした。


久秀爆死説は後世の創作か?

久秀の最期の様子としてよく知られているのは、茶釜の平蜘蛛に火薬を詰め、もろともに爆死したというものでしょうか。悪人としての久秀像にふさわしい、強烈な印象を残す死にざまです。

しかし、久秀爆死のエピソードを示す根拠は史実を示す資料には残されていません。
久秀の最期を伝える資料には、


『松永、天守に火を懸け焼死』(信長公記)

『松永父子、腹を切り自焼しおわんぬ』(多門院日記)


といった、焼死を示す文言が記されているのみです。ただし、平蜘蛛を打ち砕いたというのは確かなようで、壊れた平蜘蛛の破片は多羅尾光信によって拾い集められ、後に復元されています。

さらに、多門院日記によると、久秀の首は自害の翌日に安土城に送られてきていることからも、爆死したという状況は考えにくい。やはり久秀の爆死説は、最期の様子を見聞きした人によって肉付けされたエピソードなのかもしれません。

それでも、もしかしたら…と思わせてくれるのが久秀の生きざまなのではないでしょうか。


おわりに

信貴山城の戦いで久秀が死亡したことで、第二次信長包囲網は次第にほころび始めます。

その翌年には謙信が急死し、天正8(1580)年には信長と本願寺との間で講和が成立したことで、信長包囲網はほぼ消滅することとなりました。

その後の信長は、さらに西へと勢力を拡大していきますが、信長自身もわずか数年後の天正10(1582)年には本能寺の変で命を落としてしまうのでした。

久秀が自害した10月10日はくしくも10年前に久秀が東大寺大仏殿を焼き払った日と重なります。これを人々は仏罰だと噂するとともに、裏切りを重ねた悪行の報いだと因果応報の理に思いを馳せました。

信長はこの噂をどのような思いで聞いていたでしょうか。そして、どのように久秀の人生を振り返っていたのでしょうか。信長と久秀には実に多くの共通点がありました。

久秀が東大寺を焼き討ちにしたのに対して、信長は延暦寺を焼きはらっています。久秀が将軍・義輝を殺したというのなら、信長だって将軍・義昭を追放しています。

他にもお互いに茶の湯を嗜むなど文化・教養の面で近しいものがあったり、性格的にも残忍な一面がある一方で人情味あふれる部分も持ち合わせていたりと、二人は「似た者同士」だったのですね。

信長はこれを面白がって久秀に目をかけていたのかもしれませんが、久秀にとってはどうだったでしょう。面白がっているうちはいいが、興が醒めれば斬られるという危機感もあったのかもしれません。

信貴山城で信長からの降伏の提案を受け入れなかったのは、「自分の役目はここまで」という覚悟があったのかもしれません。そして、悪人は悪人らしくと、平蜘蛛と共に信貴山城を枕に散っていったのかもしれません。



【主な参考文献】
  • 超図解!戦国合戦絵巻 湯原浩司編 株式会社ダイアプレス 2018年
  • 大間違いの織田信長 倉山満 ベストセラーズ 2017年
  • シリーズ・実像に迫る009 松永久秀 金松誠 戎光祥出版 2017年
  • 戦国合戦史辞典 存亡を懸けた戦国864の戦い 小和田泰経 新紀元社 2010年
  • 城が見た合戦史 天下統一の野望をかけた城をめぐる攻防 二木謙一 青春出版社 2002年
  • 戦国城塞傳 十二の城の物語 津本陽 PHP研究所 2003年

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  この記事を書いた人
玉織 さん
元・医療従事者。出産・育児をきっかけに、ライター業へと転向。 現在はフリーランスとして、自分自身が「おもしろい!やってみたい!」 と思えるテーマを中心にライティングを手掛けている。 わが子の子育ても「得意を伸ばす」がモットー。

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