桓武天皇と早良親王 兄弟の光と闇

桓武天皇(『桓武天皇御略記』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
桓武天皇(『桓武天皇御略記』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
 桓武天皇と早良親王(さわらしんのう)、この2人は母を同じくする兄弟です。しかし一方は平安京遷都を行った天皇として千年の後までも名を残し、もう一方は無実の罪を訴えて牢獄で餓死したと伝えられます。

 2人の到達した場所はなぜこれほどに違ってしまったのでしょうか?

天武系 vs 天智系の皇統争い

 山部王(のちの桓武天皇)と早良王(のちの早良親王)は、天智天皇の孫の白壁王(のちの光仁天皇)を父に、渡来系氏族出身の高野新笠(たかののにいがさ)を母に持つ同父同母の兄弟です。山部は第一皇子で早良は13歳年下の弟です。

※参考:天武天皇系、天智天皇系の略系図
※参考:天武天皇系、天智天皇系の略系図

 白壁王は天智天皇の系統であったため、奈良時代よりの天皇家の本流である天武天皇系からは外れており、皇位継承とは無縁とされていました。しかし天平勝宝5年(753)ごろに、天武天皇系の聖武天皇の皇女・井上内親王と結婚すると、流れが変わって来ます。

 神護景雲4年(770)、称徳天皇が皇太子不在のまま崩御し、その後継を巡って天武系の長(なが)親王の子を押す派と天智系の白壁王を押す派が対立。結局、白壁王派が勝ち、光仁天皇が実現。即位に伴い、井上内親王が皇后となります。

 光仁天皇と井上皇后の間には、女系ではありますが天武系嫡流の血を引く他戸(おさべ)王が生まれており、このあたりで天武系・天智系の妥協が図られたようです。

兄弟二人

 天智系の父・白壁王が光仁天皇となりましたが、女系ながら天武系の他戸王が皇太子となり、山部王・早良王兄弟には帝位はよそ事でした。ところが宝亀3年(772)、井上皇后が夫・光仁天皇を呪詛したとして突如皇后の位を追われ、他戸皇太子も連座して皇太子の地位を剥奪されます。

 代わりに皇太子に立てられたのが親王宣下を受け、中務卿に任ぜられていた山部王です。早良王は出家して仏道修行に励んでおり、南都東大寺開山の良弁僧正の跡継ぎとして期待され、親王禅師と呼ばれていました。

 この兄弟は生母・高野新笠の出自が低いため、帝位とは無縁と思われていましたが、思わぬ呪詛事件で日の当たる立場に立つことになるのです。

 宝亀6年(775)、井上・他戸の2人は庶人に落とされて幽閉され、そののち、同じ日に理由もわからぬまま亡くなります。おそらくは殺害されたのでしょう。一説にこの一連の事件は山部王の立太子をもくろむ藤原式家の藤原百川(ももかわ)による陰謀との話もあります。

光仁天皇崩御、桓武天皇即位

 光仁天皇は神護景雲4年(770)に即位しますが、すでに62歳と高齢で10年ほどで退位。天応元年(781)皇太子となっていた山部親王が45歳で桓武天皇として即位します。同時に僧侶であった早良親王は還俗して皇太子となります。

 桓武にはすでに安殿(あて)親王が誕生していましたが、いまだ幼く、当時としては初老の桓武天皇が崩御した場合、早良皇太子には安殿親王が成長するまでのつなぎ的な役割を期待されたようです。早良皇太子には妃を迎えたり子供が出来たりの記録がなく、安殿親王への引継ぎもスムーズに行くと思われました。

 桓武天皇の治世は発足当初、生母の身分の低さへの反発もあって、即位の翌年には天武系の血を引く氷上川継(ひかみのかわつぐ)の朝廷転覆計画が発覚。その後も左大臣・藤原魚名(うおな)の突然の罷免とごたごたが続きました。しかし帝位など望めぬ若いころに、桓武は侍従や大学頭などの官僚としての実務経験を積んでおり、年齢もすでに壮年で自分の考えを通せる強さを持っていたため、次第にその治世は落ち着いていきました。

長岡京遷都、暗殺事件勃発

 延暦3年(784)、桓武は平城京から山背国乙訓郡長岡へ遷都します。

 遷都の理由は、大寺院が政治に口出しする平城京を嫌った、河川工事により淀川から山背国、琵琶湖・近江国へのルートが確立できた、など言われますが、遷都決定から実施までわずか半年と言う慌ただしい行程でした。

 これは延暦3年が政治上の変革が起きるとされる甲子革令(かっしかくれい)の年に当たっており、19年に1度の朔旦冬至(さくたんとうじ)陰暦の11月1日が冬至に当たる年で、古来非常にめでたい事として宮中で祝宴が開かれ、租税の免除や恩赦なども行われた年であったのです。

 桓武はこの年のうちに新しい都を造営することにより、皇統が天武系から天智系へ移り、新王朝が樹立したのを知らしめたかったからと言われます。事実、これ以降は天武系の皇位継承者は居なくなりました。しかし、この遷都が事件を引き起こします。

 長岡京造営の中心人物は桓武の重臣・藤原種継でしたが、延暦4年(785)9月23日、新都の工事見回り中の種継が何者かに矢を射かけられ、翌日に死亡する事件が起きます。

藤原種継が矢で射られる場面(『扶桑皇統記図会 後編1下』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
藤原種継が矢で射られる場面(『扶桑皇統記図会 後編1下』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

 ただちに捜索が行われ、事件の首謀者として1ヶ月前に死亡していた大伴家持の名が上がります。

 現在では歌人として知られる家持ですが、大伴氏は古くから続く武門の家柄で、家持はその棟梁の立場でした。他にも大伴氏一族の大伴継人(つぐひと)や佐伯一族の佐伯高成ら数十人、さらには東宮坊の関係者までが捕らえられて断罪・流罪に処せられます。

 この事件の背景は、大伴氏を中心とする保守勢力と、天皇の威光を背景に新都造営の中心勢力となってさらに上昇を目指す新興藤原氏との対立と見て良いでしょう。

疑いをかけられる早良皇太子

 しかし、事件は思わぬ処へ飛び火します。なんと、事件の一味として皇太子となっていた桓武の実の弟・早良親王の名前が出て来たのです。

 なぜ早良の名前が出てきたのか? 早良は若いころに南都東大寺で修業しており、平城京の寺院勢力と強い結びつきがあったのは事実です。桓武は長岡京への遷都に寺院の移転を認めておらず、寺院勢力から早良に対して遷都反対、あるいは寺院の移転を認めるように働きかけがあったのは想像できます。

 また、早良親王自身が安殿親王の成長ぶりや、その生母である藤原式家出身の乙牟漏(おとむろ)の立后により、皇太子としての自分の立場が危うくなるのを感じ、桓武を倒し早良皇太子を擁立しようとする勢力に近づいたのかもしれません。

 真相はわかりませんが、皇位継承を巡る争いを防ぎ、天皇の地位を安定させるために設けられた役所である東宮坊の関係者までが処罰されたのは事実です。この辺りに種継襲撃事件を利用して自身の子である安殿親王(のちの平城天皇)の安泰を図り、不安要素である早良皇太子を除こうとする桓武の意思が感じられます。

無念のうちに亡くなる早良親王

 早良親王は事件に関係したとして、5日後の9月28日に長岡京にある乙訓寺に幽閉されます。そして無実を訴えて10数日間自ら飲食を絶った早良は、淡路島への流罪の旅の途中、淀川を下る船の中で絶命してしまうのです。

 遺体は都に戻されることもなく、そのまま淡路島まで運ばれ、その地で葬られました。その死については桓武の命令で飲食を与えずに餓死に追い込んだとの説もあります。この無残な死は後を引きました。

 早良の死後3年が経った延暦7年(788)、桓武の夫人・藤原旅子(たびこ)が30歳で亡くなります。翌延暦8年末には桓武の母・高野新笠 皇太后が、さらに延暦9年(790)に桓武の皇后・藤原乙牟漏と桓武の若いころからの夫人・坂上又子(さかのうえのまたこ)が相次いで亡くなります。

 延暦11年(792)には皇太子となった肝心の安殿親王までが、精神病の一種とされる “風病(ふうびょう)” で長患いをします。挙句に安殿の妃である藤原帯子(たらしこ)まで急死してしまいました。

おわりに

 身近な人間が次々に亡くなる事態に桓武は占いを行い、早良親王の祟りであるとの卦が出ます。新都長岡京もたびたびの洪水や流行り病に襲われます。しかも桓武を恨んでいるのは早良ばかりではありません。光仁天皇呪詛事件で亡くなった井上皇后と他戸皇太子も、帝位を桓武に奪われたとして恨んでいます。

 桓武は早良の呪いのかかったような長岡京を捨て、延暦13年(794)平安京に遷都、さらにこれらの人々の魂を慰めるために、淡路島の早良親王の遺骸を大和国八島陵へと改葬し、延暦19年(800)には崇道天皇とおくり名をします。井上内親王は剥奪された皇后の位に戻します。

 しかしこれらの措置を行っても、桓武の心は生涯休まることはありませんでした。


【主な参考文献】
  • 新古代史の会編/中村光一著『人物で学ぶ日本古代史3』(吉川弘文館、2022年)
  • 樋口健太郎/編「平安時代天皇列伝」(戎光祥出版、2023年)
  • 井上満郎「桓武天皇と平安京」(吉川弘文館、2013年)

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  この記事を書いた人
ichicokyt さん
Webライターの端っこに連なる者です。最初に興味を持ったのは書く事で、その対象が歴史でした。自然現象や動植物にも心惹かれますが、何と言っても人間の営みが一番興味深く思われます。

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