藤原道長を狙った暗殺計画? さらには呪詛事件も
- 2024/06/27
藤原道長は命を狙われていた――。平安時代を代表する最高権力者にまつわる怪しい事件があります。一つは寛弘4年(1007)の暗殺計画の噂。もう一つはその2年後に発覚した呪詛事件です。道長は多くの貴族と協調し、意識的に敵を作ってきたわけではありませんが、政権獲得の過程で甥の藤原伊周(これちか)、隆家兄弟を蹴落としており、二つの事件で伊周は重要なキーマンになっています。しかし、事件の顚末をみると、何やら一筋縄ではいかない謎もあるようです。
伊周、隆家兄弟が武士と共謀? 都に流れた噂
寛弘4年(1007)8月9日、藤原伊周、隆家兄弟が平致頼(むねより)と共謀して藤原道長を殺害する計画を立てているとの噂が流れました。藤原実資の日記『小右記』の本文は欠落していますが、その見出しの史料『小記目録』に記録されています。『大鏡』も「伊周が道長に対して何か不穏な企てを仕掛けてくるだろうという噂があった」と記しています。金峯山参詣で京を留守にしていた道長
いずれにしても噂が流れたという曖昧な情報だけ。ほかの史料では確認できず、藤原道長の日記『御堂関白記』も、道長の側近・藤原行成の日記『権記』も、この噂に触れていません。『御堂関白記』が触れていないのは当然で、道長はこのとき京を留守にしていました。一条天皇の中宮である長女・彰子の皇子出産を願い、金峯山参詣の最中だったのです。敦康親王の後ろ盾 伊周は潜在的な政敵
藤原伊周、隆家は藤原道隆の三男、四男で、母は道隆の正室・高階貴子。道隆の政治力を背景に若くして出世します。しかし、道隆死後、その弟・藤原道長が政権を握ると、長徳2年(996)、花山法皇襲撃事件をきっかけに長徳の変で左遷されます。2人は翌年、許されて京に帰還。母を同じくする一条天皇の皇后・定子は長保2年(1000)に崩御しますが、遺児として一条天皇の第1皇子・敦康親王がいます。伊周、隆家兄弟はいったん道長に敗れ去りましたが、道長の長女・彰子から一条天皇の皇子が生まれず、敦康親王が皇位継承者に浮上した場合、その後ろ盾として勢力を盛り返す可能性を残していました。道長の潜在的な政敵なのです。
平致頼 伊周に従う桓武平氏の武士
一方、藤原伊周、隆家兄弟と共謀したとされる平致頼は桓武平氏の一族で、平将門と争った平良兼の孫。致頼自身、同族の平維衡と合戦し、流罪になりますが、長保3年(1001)に赦免されています。致頼の弟・平致光は長徳の変で検非違使の家宅捜索を受けた伊周の家司(執事)。側近中の側近です。致頼の勇猛さを示す史料もあり、致頼、致光兄弟は伊周が頼りにしていた武士団の中心メンバーだったのです。金峯山参詣の道長は無事帰京 釈明の伊周と双六
藤原道長の金峯山参詣は一条天皇の中宮・彰子の出産祈願が目的。彰子は20歳でしたが、懐妊の兆候はみられず、道長は焦っていたようです。この時点では一条天皇の皇子は亡き定子を母とする敦康親王だけ。道長としては、政権安定のため、「早く孫の顔が見たい」という心境だったはずです。一条天皇中宮・彰子の皇子出産を願い
金峯山は金峯山寺(奈良県吉野町)のある吉野山や山上ヶ岳(奈良県天川村)などの連峰で、修験の山。急峻な山道や断崖を行く参詣は相当な覚悟が必要でした。寛弘4年(1007)5月、藤原道長は家司・源高雅の邸宅で100日間の精進「長斎」を始め、長男・頼通や中納言・源俊賢、17~18人の近臣たちとともに京の寺社を参詣した後、8月2日丑の刻(午前2時頃)、京を出発します。「道長暗殺計画」の噂が京を騒がしている9日は雨の中、金峯山を登っているところです。11日に蔵王権現などを巡詣し、子守三所権現で金銀、五色の絹をはじめ莫大な献上品、お経を奉納し、各所の僧に多くの品々を与えました。その効果があったのか、彰子は懐妊。寛弘5年(1008)9月、敦成親王(のちの後一条天皇)が誕生します。
足の裏に「道長」 踏みつけて歩く伊周
寛弘4年(1007)8月14日、藤原道長一行は無事帰京。道中、何者かに狙われたとか危険な目に遭ったという記録になく、藤原伊周が本当に道長暗殺を企てていたのかは結局、不明です。『大鏡』は、道長帰京後、噂を気にした伊周が釈明のため道長邸を訪問したとしていますが、噂の真偽には触れていません。この対面では、気後れした様子の伊周に対し、道長は噂には触れず、双六勝負を持ちかけます。高価な物が賭けの対象となり、伊周は負けっ放しという有り様。道長の余裕ある態度が強調されています。
なお、『大鏡』の写本の中には、伊周がしばしば道長邸を訪れ、双六で故意に負けてばかりいたものの、足の裏に「道長」と書き、踏みつけて歩いていたとする逸話を伝えるものもあります。
道長もおびえた 中宮や皇子を呪う呪詛事件発覚
寛弘6年(1009)1月30日、藤原道長と彰子、敦成親王への呪詛が発覚します。証拠の厭符(えんぷ、まじないの札)が出てきて、逮捕された僧・円能を取り調べた記録が『政事要略』という史料にあります。それによると、円能は、前年12月中旬、佐伯公行とその妻・高階光子、源方理(のりまさ)に呪詛を頼まれたことなどを自白しました。また、この取り調べ記録で関与を指摘されている道満は、安倍晴明の宿敵・蘆屋道満のモデルとされている法師陰陽師です。
「わが身の大事」出勤渋った道長
『権記』によると、藤原道長は「わが身の大事だ」と出仕を渋ります。暗殺計画の噂よりも呪詛事件の方がよほど恐ろしかったようですが、当時の貴族としてはごく普通の感覚。ただ、6日後には政務に復帰しています。道長:「ひたすら引き籠もっているわけにもいかない。今、政務に関与しないのは不都合だ」
なお、道長自身はこの事件に関し、『御堂関白記』に何も書き残していません。
呪詛依頼者は伊周の叔母・高階光子
呪詛事件関係者は藤原伊周に近い人ばかりでした。また、伊周の同母妹の亡き定子にも近く、その遺児・敦康親王支持グループともいえます。事件発覚翌日に謹慎させられた高階明順(あきのぶ)は伊周の母・貴子の兄弟。呪詛依頼者として官位を剝奪された高階光子はその姉妹で、源方理は伊周の妻の兄弟です。
伊周は事件への関与が不明のまま出仕停止に。3カ月後に許されますが、翌年、37歳で死去します。一条天皇も亡き定子の関係者による呪詛事件に心労が重なったのか、体調を崩し、2年後の寛弘8年(1011)、崩御しました。
結局、誰が得をした? 敦康親王派は排斥
狙われた藤原道長ですが、結果的にダメージは受けず、逆に敦康親王支持派の排除につながります。一条天皇は皇位継承について、第1皇子・敦康親王、第2皇子・敦成親王の順に考えていましたが、道長は外孫である敦成親王をなるべく早く皇位継承者にしたい思惑がありました。呪詛事件の顚末は道長に都合のよい成り行きとなったのです。おわりに
藤原道長が得をしたという結果だけをみれば、両事件ともでっち上げとみることもできます。道長にとって、藤原伊周は政敵としてそれほど脅威ではありませんが、敦康親王の排除はハードルが高く、呪詛事件を自作自演した可能性も想像できないことではありません。ただ、呪詛の力を恐れる平安貴族にとって心理的抵抗は相当大きいはずですが……。なお、道長暗殺計画の噂に登場する平致頼は「道長四天王」の一人でもあり、いつの間にか道長配下に鞍替えしています。あるいは、こうした事件をきっかけに道長が政敵の配下にも手を突っ込んで引き抜いているのかもしれません。道長のしたたかさも垣間見える事件です。
【主な参考文献】
- 倉本一宏『藤原伊周・隆家』(ミネルヴァ書房、2017年)
- 山中裕『藤原道長』(吉川弘文館、2008年)
- 倉本一宏『藤原行成「権記」全現代語訳』(講談社、2011~2012年)講談社学術文庫
- 保坂弘司『大鏡 全現代語訳』(講談社、1981年)講談社学術文庫
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