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なぜ崇徳天皇は怨霊となったのか
- 2023/03/03
昭和39年(1964)に行われた崇徳天皇(すとくてんのう)800年式年祭において、昭和天皇は勅使を使わされたそうです。長い日本の歴史の中で、史上最悪と言われる怨霊になってしまった崇徳天皇。様々な出来事が怨霊や祟りだと信じられていた時代のこと。さぞや人民は恐ろしかったことでしょうね。
怨霊になったのが天皇だと、さらにその力は強大なもに思われていたことでしょう。未だに崇徳天皇の怨霊を鎮めるため、スパンは長いのですが百年ごとに式年祭が開催されています。しかし、式年祭前後の数年間には必ずと言っていいほどの重要な動乱が起こっているのです。
怨霊になったのが天皇だと、さらにその力は強大なもに思われていたことでしょう。未だに崇徳天皇の怨霊を鎮めるため、スパンは長いのですが百年ごとに式年祭が開催されています。しかし、式年祭前後の数年間には必ずと言っていいほどの重要な動乱が起こっているのです。
白峯社創建の謎
明治天皇の父にあたる孝明天皇は、幕末の動乱を少しでも鎮めようと、崇徳天皇の神霊を京都に奉還し、鎮魂するために「白峯社」の創建を決意します。そして慶応4年(1868)、父帝・孝明天皇の遺志を引き継いだ明治天皇は、讃岐から京都へ700年ぶりに崇徳天皇の神霊を迎えたのでした。このときの宣命では、京都の新営に移っていただき、天皇と朝廷を守護し天下が鎮まるよう、助けていただきたいとありました。
時はまさに戊辰戦争の真っ最中、崇徳天皇の怨霊が奥羽列藩同盟に味方する事を朝廷は恐れたようですね。昭和15年(1940)、昭和天皇より白峯社は「白峯神宮」と改称されました。
父帝との不和
ところで崇徳天皇は、なぜ祟を起こすような怨霊になったのでしょうか。崇徳天皇は、第74代鳥羽天皇と皇后藤原璋子の間に誕生した皇子です。しかし実際のところは、叔父の白河法皇と璋子が密通して生まれた子であり、鳥羽天皇からは叔父子と呼ばれて嫌われていたそうです。崇徳天皇5歳の時、白河法皇が鳥羽天皇に譲位を迫り、皇子はわずか5歳にして第75代崇徳天皇となったのです。しかし 大治4年(1129)に白河法皇が崩御されると、今度は鳥羽上皇が院政をふるうようになります。そして崇徳天皇20歳の時に弟に譲位することを強いられ、無理やりに退位させられ、第76代近衛天皇が即位するのです。
ですが、病弱の近衛天皇は17歳で崩御、その後は後白河天皇が即位しましたが、保元元年(1156)には鳥羽法皇も崩御したことで皇位継承問題などの内紛が表面化、保元の乱へ進んで行きます。
保元の乱
天皇に即位した崇徳天皇ですが、白河院と鳥羽院の院政で、実際は何もさせてもらえませんでした。ですので崇徳天皇は、歌道に専念するしかなかったとか。その上、武も文も自分より劣る弟の後白河天皇が即位したことで、不満が募っていくばかりでした。鳥羽院の病気見舞いも拒絶され、鳥羽院が崩御した後の初七日にもできないようなことで、対立は一層深まっていったのです。
そしていよいよ我慢の限界に来た崇徳院は、藤原忠実と頼長や源為義に為朝などを味方につけて保元の乱を起こします。しかし、藤原忠通・源義朝・平清盛らが後白河法皇に加勢。結局、崇徳院は敗れ、讃岐国に配流となったのです。讃岐への護送は過酷を極め、ほとんど囚人同様の扱いでした。
讃岐に到着した崇徳院は、雲井御所にて約3年間を過ごします。この間は、綾高遠の庇護を受けながら地元民との交流もあり、平穏な日々を過ごされたようです。その後、鼓ケ岡御所に移ることになるのですが、綾高遠の庇護も受けられなくなり、不自由な生活環境から、仏事にのめり込むようになっていきます。
ついに怨霊となる
気がつけば讃岐国に来てから早9年が経ちました。もう京都に戻ることは無理だと悟った崇徳院は、自らの血で書いた自筆の経を3年がかりで仕上げ、その経を京に送ります。しかしそれも拒絶されたため、崇徳院は怒りと恨みに覆われてしまい、ついには自分の舌先を噛み切った血を用いて、諸々の仏に願文を書き綴ったのでした。そしてそれ以降は、死して天下を祟り、国家を悩ましてやると誓って、髪も爪も切らず生きながら天狗の姿となって強い恨みを抱いたまま、 長寛2年(1164)、46歳で亡くなります。
この間の状況は諸説様々にあるのですが、信じるに足りる資料があまりなく、はっきりと分かっていません。ただ、数多くある説話が広まるにつれて、怨念話も大きく膨らんでいったことでしょう。それゆえに崇徳院の祟りや恐怖のイメージが深く信じられていったと思われます。
崇徳院の祟り
崇徳院の配流から崩御後に至っても、後白河院は崇徳院を完全に罪人として扱っており、服喪もしなかったそうです。しかし崇徳院崩御の翌年から次々と異変が起こります。後白河院の皇子の二条天皇と次代の六条天皇の摂政が亡くなったのです。その後も、後白河院の近親者が相次いで亡くなったことから、崇徳院の怨霊を意識し始めたようですね。さらに安元3年(1177)、京都で太郎焼亡と呼ばれる大火(安元の大火)が起こり、大極殿を含めた京都市内の三分の一が焼失します。そして翌年にも次郎焼亡と呼ばれる大火(治承の大火)が起こります。このとき、2つの大火と崇徳院の怨霊と考えたのは、誰あろう後白河院自身だったのです。
これ以降、一気に崇徳院の鎮魂が進められます。崇徳という天皇を称えた号となる諡号も、この時に贈られたものです。後白河院の対応があまりに遅れたため、後の世まで尾を引くことになり、崇徳院の怨霊が人々の間に定着していきました。
白峰御陵入口の近くには、保元の乱では敵方になった源義朝の子の頼朝によって、崇徳院の菩提を弔う十三重石塔が建てられています。
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