早良親王の怨霊伝説 平安京遷都の背後にある怨念と陰謀とは
- 2024/05/14
怨霊にまつわる日本最古の伝えは蘇我蝦夷・蘇我入鹿父子のものです。その次には非業の死を遂げたうえ、遺骨まで土佐の国に流罪となった長屋王が怨霊となり、土佐国に疫病を流行らせましたが、都にはさほど影響はありませんでした。本当に都を恐怖に陥れたのは早良親王(さわらしんのう 750?~785)の怨霊です。
遷都を考える桓武天皇
奈良時代以前にも恨みを飲んで死んだ死者の魂が怨霊となって祟る、との発想はありました。その場合、生きていた時の地位が高ければ高いほど、恐ろしい怨霊になると考えられました。日本最強の怨霊たちが、至高の位に昇った崇徳天皇、桓武天皇の血筋で新皇を名乗った平将門、太政大臣であった菅原道真ですからね。桓武天皇の同母の弟であり、皇太子の地位にあった早良親王も、充分に恐ろしい怨霊となる資格を備えていました。
宮廷内の政争に巻き込まれ、自ら絶食して命を絶った早良親王ですが、この争いは藤原氏 VS 反藤原氏の争いです。大化の改新(645)で中大兄皇子の後押しをして “藤原氏” を賜った中臣鎌足、その子孫は自分の娘を天皇の后とすることで外戚として大いに権勢を振るい、当然反発するものも多くいました。
そんな時に起きたのが桓武天皇(737~806)による「大和国の平城京を廃して新しい都を作る」という構想です。平城京が手狭になったことや、東大寺などの大寺院が政治に口出しするのを嫌ったのが理由です。
延暦3年(784)、桓武天皇は山城国の長岡京に都を作り始めます。ところがこれには古くから大和国に勢力を張る有力豪族たちが揃って反発しました。
「まつりごとの中心は天皇家や自分たちの故郷である大和を離れるべきではない」
こうした立場を取る勢力の中心となったのが、歌人として知られる大伴家持です。
長岡遷都推進者・藤原種継が殺害される
万葉集の編者として知られる家持ですが、大伴氏・紀氏・多治比氏ら古い家柄を持つ豪族が家持の側に立ちました。そして家持は春宮太夫と言う皇太子の身の回りの世話をする役所の長官で、早良親王と親しい間柄でした。このように新都建設は反対派も多く、最初から不穏な空気の中で進められます。案の定と言うか延暦4年(785)9月24日、新都建設の推進者・藤原種継が建築現場を見廻っていた時に矢を射かけられ、殺害されてしまいます。
種継は長岡遷都を強く主張しており、建設の責任者も務めていました。犯人の宮廷警護の下級兵士2人はその場で取り押さえられますが、彼らの口から上役の大伴竹良と竹良と親しい大伴継人の名前が出ます。ただちに捕らえられた竹良と継人の口から、今度は大掛かりな陰謀が語られました。
それによると、事件の首謀者は大伴家持で、多治比浜人や紀白麿ら多くの有力豪族が計画に加わっていたことがわかります。しかし、首謀者とされた家持は事件発生の1ヶ月前、8月28日にすでに病没していました。そして桓武天皇は日ごろから家持と親しい早良親王に疑いの目を向けます。
早良親王の死
桓武天皇と早良親王は母親を同じくする兄弟ですが、以前からその間柄は険悪でした。桓武天皇の即位の時に父である光仁天皇が強引に早良親王を皇太子にしてしまったのです。桓武天皇自身は自分の長男である安殿(あで)親王に位を譲りたく思っていました。「皇太子を除く良い機会かもしれぬ」
安殿親王の母親は皇后の藤原乙牟漏(おとむろ)で、乙牟漏に近い血筋の藤原氏の面々が桓武天皇の後押しをしました。種継殺害に関係したと疑われた大伴竹良・大伴継人・多治比浜人ら数人は死罪に、紀白麿ら多数の者は流罪に処せられます。反藤原の旧勢力はあらかた一掃されました。
この事件は藤原氏全盛時代を築く第一歩となりましたが、その塁は早良親王にも及びます。親王は事件の4日後の9月28日に、現在も長岡にある乙訓寺(おとくにでら)に幽閉されます。桓武天皇は一刻も早くと思ったのでしょうか、同時に親王の廃太子と淡路島への流刑を申し渡しました。
自身の無実を訴え、捉えられてから一切の飲食を絶っていた親王は、旅が始まっても絶食を続け、高瀬川のほとりで亡くなりました。天皇はそれでも許さず、親王の遺体をそのまま淡路島に送り、埋葬させます。
新都を襲う親王の怨霊
「天皇の弟であり、皇太子でもあった高い位の方が餓え死にされた」という事実は宮廷の人々に大きな衝撃を与えました。反藤原勢力であっても今回の事件に巻き込まれず、宮廷勤めを続けた人も多かったのですが、彼らの間で囁きかわされます。
「いくら自分の子供に帝位を継がせたいからと言って桓武天皇のやり方はあまりに酷い。早良親王の御霊が祟らねば良いが…」
そして案の定というか、桓武天皇の身辺に怪異が起き始めます。親王が亡くなった3年後の延暦7年(788)、天皇の夫人の藤原旅子が30歳の若さで亡くなります。翌年にはさらに皇后の藤原乙牟漏も亡くなりました。
旅子も乙牟漏も殺害された種継の従姉妹に当たります。天皇は、この2人の死に早良親王の影を感じ、乙牟漏が亡くなると、剥奪していた早良親王の“親王号”を戻しました。
しかしそんな事で親王の怒りが治まるはずもなく、今度は安殿親王も病に倒れます。
「早良親王の位を奪った安殿親王が祟りを受けたのだ」
この噂はたちまち宮廷内に広まり、建設中の長岡京でも事故が頻発、すべて親王の怨霊の仕業とされました。
延暦9年(790)には新都を中心に畿内に天然痘と思われる疫病が流行り、翌年には全国に広まっていきます。夏には日照りで稲が稔らず、伊勢神宮では火災が起こります。さらに翌年6月には長岡京を激しい雷と豪雨が襲い、式部省の南門が倒れ、8月には長岡京全体が洪水で水浸しになりました。
世人は噂しあいます。
「早良親王の怨霊は長岡京に留まっている」
平安京への遷都
延暦18年(794)、たまらず桓武天皇は風水師に占わせた四神相応の地「平安京」に都を移します。それでも鎮まらぬ親王の怨霊に、天皇は僧を淡路島に遣わして親王の墓前で経をあげさせ、さらに大伴是成らを淡路島に派遣して、早良親王に幣帛を捧げます。天皇が神社に奉る供え物を幣帛(へいはく)と呼ぶので、この時点で早良親王は ”神” として扱われたことになります。翌年7月には再び大伴是成と僧や陰陽師を遣わして親王に “崇道天皇” との尊号を送り、桓武天皇に変わってこれまでの仕打ちを親王に詫びます。
この後、親王の怨霊はだんだんに鎮まり、崇道天皇の御霊は京都上御霊神社に神として祀られました。
おわりに
早良親王の怨霊は恐ろしいものでしたが、御霊を神として祀れば、祟りは鎮まるとの考えも広まりました。この騒動の中で敗れた反藤原勢力の名誉も回復され、怨霊鎮めに一役買ったようですが、その地位は大きく低下し、この後も藤原氏の勢力は増大して行きます。それにつれ、反藤原を下地にした怨霊騒ぎが何度も繰り返されました。
【主な参考文献】
- 武光誠『日本人なら知っておきたい「もののけ」と神道』(河出書房新社、2011年)
- 武光誠(監修)『すぐわかる日本の呪術の歴史』(東京美術、2001年)
- 西本昌弘『平安前期の政変と皇位継承』(吉川弘文館、2022年)
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