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島流しの西郷隆盛が沖永良部島で出会った二人の恩人

 明治維新の立役者・西郷隆盛は、幕末に薩摩藩によって2度の島流しに遭っています。とくに2度目の島流しとなった沖永良部島では、生死の境をさまようほどの過酷な暮らしを強いられました。そんな沖永良部島で西郷は二人の恩人と出会っていたのです。

沖永良部島に流された西郷

 安政の大獄から逃れるため、奄美大島に島流しとなっていた西郷隆盛は、藩の帰還命令を受けて鹿児島に戻ります。藩の最高権力者は島津久光でしたが、久光と西郷の主従関係は悪く、西郷は久光を田舎者呼ばわりしていたといいます。

 久光が兵を率いて上洛することになり、西郷に下関で待つよう命じました。しかし、京の不穏な情勢をキャッチした西郷は、久光の到着を待たずに京都へ向かってしまいます。命令違反を犯した西郷に久光は激怒したのです。

 死一等を減じられたものの、再び島流しという処罰を与えられた西郷。はじめは徳之島への流罪でしたが、島での様子を聞いた久光は「罪が軽すぎる」として、さらに遠方の沖永良部島へ送ることを命じたのです。

 沖永良部島は鹿児島から約552キロ離れており、現在でもフェリーで17時間半かかるという遠方の地。さらに西郷を待ち受けていたのは、想像を超えるような過酷な環境だったのです。

島の役人・土持政照

 西郷が入牢したのは広さが2坪ほどしかない格子牢で、四方に壁が無い吹き曝しの粗末な牢屋でした。自由に身動きも取れず、風雨にさらされっ放しの入牢生活は、西郷の健康をどんどん蝕んでいきました。

 この様子に「西郷さんの命が危ない」と感じたのが島の下級役人の土持政照です。政照は西郷より6歳年下で、生まれ故郷である沖永良部島で母親と暮らしていました。

 死罪ではないので、命まで奪ってしまってはいけないと思っていたのでしょう。政照は代官に牢の環境改善を直訴します。許可を得た政照は、私費を投げうって新しい牢の建設に取り掛かるとともに、完成までの間は西郷を自宅で預かったのです。

 政照の母親の看護もあって西郷は健康を取り戻し、完成した座敷牢に移って島での暮らしを続けていきます。座敷牢では島の子供たちに学問を教え、島の教育向上に貢献することになりました。
政照の直訴が無ければ、西郷は格子牢で獄死していたかもしれません。命の恩人となった政照と西郷は義兄弟の契りを結ぶほど、信頼が厚かったそうです。

流人仲間・川口雪篷

 座敷牢に移った西郷をたびたび訪ねてきた流人仲間がいました。川口雪篷(せっぽう、本名・量次郎)です。

 雪篷は文政元年(1819)生まれですから、文政10年(1828)生まれの西郷よりも9歳年上となります。書家であり、陽明学を学ぶ教養人でしたが、酒癖が悪かったのが欠点だったようです。

 流罪となった理由は分かっていませんが、一説によると「島津久光の書を質屋に売り払って酒代にしたから」とも言われています。いずれにしろ、西郷が流罪となった時には沖永良部島に居たことになります。

 流人仲間として意気投合した西郷は、雪篷から漢詩や書についての教えを請い、時には酒を酌み交わしながら時世を語り合ったことでしょう。「敬天愛人」といった思想を持つようになった西郷にとって、学問の恩人と言える存在になったのです。

 西郷が鹿児島に帰還したのに合わせ、雪篷は西郷家の居候となって子女の教育係となります。明治10年(1877)の西南戦争で西郷が戦死した後も、雪篷は西郷家を守り、それは明治23年(1890)に72歳で亡くなるまで続きました。

おわりに

 西郷隆盛の帰還から6年後、沖永良部島に「社倉」が設立されました。豊作の時に穀物を共同貯蓄し、飢饉になったら救済に役立てるという仕組みで、西郷が土持政照に渡した社倉設立趣意書が基になっています。

 沖永良部島の人々のお役に立ちたいという西郷の思いは、命の恩人である土持によって実現され、社倉は島の発展のために大いに役立ちました。

 西郷隆盛もまた、沖永良部島の恩人となったのです。

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  この記事を書いた人
マイケルオズ さん
フリーランスでライターをやっています。歴女ではなく、レキダン(歴男)オヤジです! 戦国と幕末・維新が好きですが、古代、源平、南北朝、江戸、近代と、どの時代でも興味津々。 愛好者目線で、時には大胆な思い入れも交えながら、歴史コラムを書いていきたいと思います。

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