「西郷隆盛」いまなお慕われる、薩摩の“せごどん”!その最期が惜しまれる、初の陸軍大将
- 2021/06/15
幕末といえば、英傑・豪傑がひしめき合うイメージの時代ですが、その当時を生きた人々のエピソードは現代に生きる私たちにもいまだ大きな影響を与え続けています。歴史人物の人気投票では、必ずと言っていいほど幕末の志士がランクインします。
中でも、その生涯だけでなく、人柄そのものが長く慕われている人物。そう、皆さんご存じ薩摩の「西郷隆盛(さいごうたかもり)」をはずすことはできないでしょう。本コラムでは西郷隆盛のプロフィール、時代ごとの行動背景などにフォーカスし、その生涯を概観してみたいと思います。
中でも、その生涯だけでなく、人柄そのものが長く慕われている人物。そう、皆さんご存じ薩摩の「西郷隆盛(さいごうたかもり)」をはずすことはできないでしょう。本コラムでは西郷隆盛のプロフィール、時代ごとの行動背景などにフォーカスし、その生涯を概観してみたいと思います。
出生~青年時代
下級藩士の出
西郷隆盛は文政10年(1827)12月7日、薩摩藩御勘定方小頭・西郷九郎(吉兵衛)隆盛とマサの長男として、鹿児島城下加治屋町に生を受けました。幼名は小吉、のちに吉之介、善兵衛、吉兵衛、吉之助、と順次変更しています。諱を「隆永(たかなが)」といいました。世にいう「隆盛」の名は維新後の名乗りを指しています。ちなみに号としては「止水」、のちに「南州(なんしゅう)」を用いています。
隆盛の西郷家は城下士のうち「御小姓与」という家格で、下から2番目の位にあたる下級藩士でした。薩摩では下級武士の子弟教育において、「郷中(ごじゅう)」という独特の制度がありました。これは学問と武術を教育する地域ごとの自治組織で、幼少の隆盛もこの郷中で学びました。
11歳の時に喧嘩の仲裁で右腕の腱を斬られ、剣術ができなくなったため、主に相撲を表芸として修めたといわれています。また、元服は満13歳、天保12年(1841)のときです。元服時に吉之介隆永と名乗るようになりました。
郡奉行の配下となり、郡方書役助を務める
隆盛にとって初のお役目は弘化元年(1844)、郡奉行のもとで就いた「郡方書役助」という役職でした。これは農民が税として収める米の収穫高を見積もり、適切に納税させるための書記官としての役割を指します。この時代の直属の上司である郡奉行・迫田太次右衛門利済(さこた たじえもん としなり)は気骨と情のある人物だったようで、年貢減免の願いを聞き届けられずに職を辞したことが伝わっています。若き隆盛には、この太次右衛門の姿が大きな影響を与えたと考えられています。
島津斉彬配下の時代
薩摩藩主・島津斉彬に仕える
嘉永4年(1851)、薩摩藩では、名君として知られる島津斉彬(しまづ なりあきら)が藩主となり、大胆な藩政改革が実行されていきます。隆盛は農政に関する建白書をこの前年に藩へと提出していますが、斉彬が藩主になった後には頻繁に意見書を出すようになり、それが斉彬の目に留まったとされています。
嘉永5年(1852)、隆盛は伊集院兼寛の娘・須賀と結婚(のち、貧窮により離縁)。翌安政元年(1854)に中御小姓に昇格。参勤交代で斉彬に付き従って江戸へ。「庭方役」という側近として斉彬に仕えることになります。
この庭方役とは、藩主の庭の警備や清掃が名目上の業務でしたが、実態としては他藩との交流や情報収集を担う情報部員としての性格が濃厚でした。いわば8代将軍・徳川吉宗が創始したという「御庭番」に相当する役であり、隆盛が早い段階で斉彬の信任を得ていたことがうかがえます。
国事についての見識を高める
嘉永6年(1853)にはペリーが来航し、同じころに病弱の徳川家定が第13代将軍に就任。これにより、攘夷問題と将軍継嗣問題が起きるようになります。こうした中、隆盛は水戸学の藤田東湖から国事について教えを受け、さらに福井藩の橋本左内や熊本藩の長岡監物らと交流して国事を話し合うなど、見識を高めていきました。
将軍継嗣問題においては斉彬の命により、一橋慶喜擁立に向けての工作にも関与しました。なお、この間の安政2年(1855)には西郷家の家督を相続しています。
しかし安政5年(1858)6月、井伊直弼が大老に就任して日米修好通商条約に調印。徳川慶福を14代将軍・家茂として擁立し、一橋派と攘夷派を中心に弾圧した「安政の大獄」が始まります。
同年の7月、鹿児島城下で軍事調練を行い、東上の姿勢をみせていた島津斉彬が急逝。最大のバックを失ってしまった隆盛は当時、任地の京都で斉彬の訃報を受け取ると、殉死しようとしたと伝わっています。
しかし京都・清水寺成就院の住職で一橋派・尊攘派のシンパだった月照に止められ、斉彬の遺志を実現するための運動に身を投じていくのです。
潜居時代 ~ 王政復古
幕府に追われ、奄美大島へ隠れ住む
安政の大獄により追捕される身となった隆盛と月照は、紆余曲折ののちに鹿児島へと至りますが、薩摩藩は幕府の追及を恐れ、二人を日向への追放処分とします。このことから隆盛と月照は入水自殺を試みますが、隆盛だけが生還しました。その後、藩当局は隆盛を幕府の目から隠すために死んだ者として扱い、実際には奄美大島にひそかに隠れ住ませることにします。隆盛は安政6年(1859)から文久元年(1861)までの実に3年弱をここで過ごし、妻を娶って新たな家庭まで築いたことはよく知られています。
島津久光とは反りが合わず。
文久元年(1861)に国父待遇として薩摩藩の最高権力の座に就いたのは斉彬の弟にあたる島津久光(しまづ ひさみつ)でした。久光が京都でのパイプがないことから大久保利通らの意見などもあり、隆盛の召喚が決定されます。しかし、隆盛は久光と反りが合わずに彼を酷評、さらに命令違反を犯すなどして久光の怒りに触れ、遠島に処されてしまいます。結局、鹿児島に帰還したのは元治元年(1864)のことでした。
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長州征伐と薩長同盟
復帰後の隆盛は軍賦役・小納戸頭取に就任し、同年7月19日に勃発した禁門の変では藩兵参謀として部隊を指揮して長州軍を撃退。直後の第一次長州征討に際しては当初積極的な姿勢を示したものの、勝海舟らとの会談を通じて長州への処遇方針を転換。長州藩家老三名の切腹で事態を収拾させました。
慶応元年(1865)、小松帯刀の媒酌で家老座書役であった若山八太郎の娘・絲子と結婚。翌年、かねてより接触のあった坂本龍馬らの仲介により長州の桂小五郎と会談。秘密裏に薩長同盟を締結します。
このことから薩摩は第二次長州征討へは出兵せず、幕府軍が大敗したことから徳川の求心力がさらに低下したことは周知の通りです。
戊辰戦争~下野
慶応3年(1867)10月14日に大政奉還が果たされたのちも政局は安定せず、翌年1月3日の鳥羽・伏見の戦いを皮切りに戊辰戦争が勃発しました。東征大総督府下参謀に任命された隆盛が新政府軍を指揮し、同年勝海舟らとの会談で江戸を無血で開城させたことはあまりにも有名です。
戦後の隆盛は薩摩へと戻り、藩政の安定に尽力しましたが、明治4年(1871)に勅命により上京。岩倉具視らの遣外使節団が出立した後の留守政府で、筆頭参議として学制や兵制、地租改正などの最高責任者となりました。
翌年に参議兼陸軍元帥・近衛都督に就任、徴兵制に不満を持つ士族らの慰撫もその任務とされています。なお、元帥はこののち廃止され、隆盛は日本第1号の陸軍大将となりました。
明治6年(1873)以降、政府が以前より試みていた朝鮮国との国交樹立が難航し、いわゆる征韓論が勃興します。隆盛は自身を遣韓大使とするよう要望し、一時は許可されたものの大久保利通や木戸孝允ら諸参議と対立。帰国後の岩倉具視の工作によって遣韓は無期延期となり、隆盛は職を辞して鹿児島に帰ることとなりました。
なお、この時受理された辞表は参議と近衛都督のものだけであり、陸軍大将と正三位の位記は据え置きとなっていました。
私学校設立~最期
下野した後の隆盛が私学校を開設して士族の子弟教育にあたり、一時は悠々自適の生活を送れるかにみえました。しかし明治10年(1877)、私学校生徒が鹿児島の陸軍省火薬庫を襲撃。いわゆる不平士族の反乱からの流れと、中央政府が隆盛の粛清を企図しているという誤解から政府糾弾のため挙兵。西南戦争が勃発します。南九州各地での戦役では両軍とも甚大な被害を出しましたが、やがて西郷軍は鹿児島へと追い詰められ、鹿児島城裏の城山に立てこもりました。隆盛は9月24日、政府軍の総攻撃で負傷し、別府晋介を介錯人として自刃。満50歳の生涯を閉じました。
明治12年(1879)にそれまでの仮埋葬から現在とほぼ同じ位置の南州墓地に再葬され、南州寺殿威徳隆盛大居士の戒名がつけられています。
おわりに
国内最後の内乱の首魁となりながらも、人々に深く愛された西郷隆盛。戦闘当時も最終攻撃の前夜、政府軍の軍楽隊が隆盛に捧げる演奏を行ったといいます。その故事から現在でも、命日の前日9月23日には陸上自衛隊の音楽隊がレクイエムを捧げるのが慣例となっています。【主な参考文献】
- 『国史大辞典』(ジャパンナレッジ版) 吉川弘文館
- 『日本人名大辞典』(ジャパンナレッジ版) 講談社
- 熊本県公式観光サイト 西南の役にみる西郷隆盛の逡巡
- 南日本新聞 西郷年表
- 西郷南州顕彰館HP 斉彬公との出会い編『郡方書役助』
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