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西郷隆盛の真の人物像とは? 知っているようで知られていない、その素顔

日本人で西郷隆盛の名を知らない人はいないといって良いでしょう。好意を寄せるか否かは人それぞれですが有名人であることだけは事実です。では、あらためて「西郷隆盛とは何をやった人?」と問われると、大体は以下に集約されるのではないかと思います。

・戊辰戦争で江戸城攻撃の直前に勝海舟と会談し、江戸城の無血開城を実現させた人物
・明治政府内において、いわゆる「征韓論」に負け、政府を去った人物
・故郷の鹿児島で挙兵し、西南戦争を起こして戦死した人物

歴史上に現れてくる西郷隆盛の関連事項というのは、大体、以上を持って全部です。いわゆる明治維新の英傑の一人であることは間違いありません。

そして「西郷隆盛」といえば、とにかく豪快で太っ腹なことでも知られています。この点に異論を唱える人は、まずいません。何故なら全て「事実」だからです。豪快で太っ腹で強力なリーダーシップを持つ、とにかく大物であったのです。同時代の全ての人達がそれを認めています。

案外に一部からは酷評されてもいる

特に西南戦争を題材とした記事を書いた経験のある人は「西郷隆盛はいい加減すぎる」と思うことが多いようです。

確かにあまりにも無計画であり、楽観的であり、自信過剰に見えるので「そんな戦い方で勝てる訳がない。あまりにもいい加減だ」と思われても仕方がありません。

例えば、鹿児島から東京に向かうにはどうしても関門海峡を越えねばなりませんが、西郷軍は一隻の船も持っていませんでした。おそらく「現地に付けばなんとかなるだろう」と思っていたのか、それとも、そもそも関門海峡のことを、すっかり忘れていた、としか思えません。

また、軍資金が全然足りず、東京まで行くのはとても無理でした。これも「途中で何とかなるだろう」と思っていたのかもしれません。しかし西南戦争だけで西郷隆盛を論じるのは間違っているのではないか、と思うのです。

戊辰戦争における西郷隆盛

西郷隆盛を「維新の英傑」にまで出世させたのは、戊辰戦争における圧倒的な勝利が彼によってなされたからです。

戊辰戦争は、いわば薩長連合軍と佐幕派と呼ばれる、江戸幕府存続派の争い全般を指しますが、いわゆる「倒幕の密勅」というものが天皇陛下より出されており、薩長連合軍は「官軍」、佐幕派は「賊軍」という位置づけの戦いでした。

また、薩長連合軍は最新式の武器で装備しており、従来の武器しか持たない佐幕派では、とても太刀打ちできませんでした。このため、多くの佐幕派の藩は「薩長連合軍が迫ってきた」というだけで簡単に降伏してしまい、最後まで抵抗を続けた藩は、会津藩を始めとする少数の藩だけだったのです。

それでも一部では激しい闘いが繰り広げられ、薩長連合軍はその全てに勝利。その指揮を取っていたのが西郷隆盛でした。彼がいなければ戊辰戦争はもっと悲惨な結果を招いたことだけは間違いありません。なぜなら西郷の適格な判断と明快な指示のおかげで薩長連合軍は非常に効率的に勝つことが出来たからです。

薩長連合軍の兵士は、ことごとく西郷に全幅の信頼を寄せていたことも強い一因でした。いくら官軍であると言っても、それだけで勝てる訳ではありません。戦争に勝つには、やはり的確な作戦と兵士の士気が必です。西郷の判断と指示はとても正確で確実に敵を打ち破っていきました。

明治維新が成し遂げられたのは戊辰戦争に勝ったからであり、それは西郷隆盛によって成し遂げられたものといって過言ではありません。そこには大久保利通も伊藤博文も岩倉具視も板垣退助もいませんでした。西郷と補佐の大村益次郎の2人だけがいたのです。大局を見るに敏な西郷と、些細な点も見逃さない大村益次郎の緻密さが薩長連合軍の強さでした。

征韓論に見る西郷隆盛の人柄

戦闘において優れた指揮官であった西郷隆盛ですが、残念ながら政治家の質ではありませんでした。

明治維新が成り、新政府として明治政府が発足すると、西郷は参議として政府の一員になります。しかし政治というのはいわば「利害関係の調整」が主な仕事ですから、とても西郷には向かない仕事だったのです。ハンコが必要な時は「めくら判」を押していたそうです。

そんな時に、いわゆる「征韓論」が起きます。要は明治政府が当時、挑戦半島を支配していた李氏朝鮮に国書を送ったところ、受取拒否されたことに端を発する問題です。

明治政府としては気分が良いはずはありません。しかし、当時は欧米列強との不平等条約の改正が政府の優先事項であり、正直な話、政府の主要メンバーは「朝鮮半島は後回しで良い」と考えていました。しかし西郷は自ら朝鮮特使として派遣されることを望んだのです。

しかし、明らかに敵視している国に出かけて行ったら殺される可能性が高いため、大久保利通始め、政府の主要メンバーは西郷の要求を頑として認めませんでした。それを不満とした西郷は、政府参議を返上して故郷の鹿児島へと帰ってしまうのです。

この時、西郷と子供のころより仲の良かった大久保利通が「いつでも大事な場合に逃げ出して、あと始末をおいにまかせておくとは何ちゅうこつか」と文句を言ったと言われています。しかし西郷は大久保利通の力量を認めており、鹿児島に帰ってから「おいがおらんでも岩倉どんと一蔵(大久保利通のこと)がおるけん、心配なか」と述べていたそうです。

当時の西郷の人物評をいくつか挙げて見ましょう。実際に本人に会っての人物評ですので説得力は強いものです。

  • 「身分は低く、才智は私の方が遥かに上である。しかし天性の大仁者である」(島津斉彬)
  • 「西郷の勇断は実に畏るべきことに候。世界の豪傑の一人の由、外人皆敬慕せりという。兵隊の西郷に服するや、実に驚くべきなり。英雄なり。仁者なり」(松平春獄)
  • 「維新の三傑といって、西郷、木戸、大久保と三人をならべていうが、なかなかどうしてそんなものではない。西郷と木戸、大久保の間には、雫が幾つあるか分らぬ。西郷、その次に○○○○といくら零があるか知れないので、木戸や大久保とは、まるで算盤のケタが違う」(板垣退助)
  • 「翁は気宇活濶、千万人の大軍を統率して能く平然たるべき天成の大英雄」(山県有朋)
  • 「西郷は天下の人物なり。日本狭しといえども、国情厳なりと言えども、あに一人を容れるに余地なからんや」(福澤諭吉)
  • 「それはそれは優しい旦那様でした。お顔もいつもニコニコして、言葉つきはやさしいし、私の長男平左衛門がそのころは三つでしたが、いつも平左衛門の頭を撫でて、カステラなど、よく貰っていました」(福村ハツ、鰻温泉女将)
  • 「その一身の利害を没却して、他の為めに計るという態度は、維新三傑の内でも特に大西郷にその著しきを見る。しかし後日になって冷静に考えて見ると、大西郷は余りに仁愛に過ぎて、遂にその身を誤らるるに到ったと云わなければならぬ」(渋沢栄一)

つまり、間違いなく「とてつもない大人物の器」だったのです。最後に挙げた渋沢栄一の人物評が、実は西郷隆盛と言う人物を最も良く表しているのではないか、と思えるのです。「大西郷は余りに仁愛に過ぎて、遂にその身を誤らるる」という部分が核心を突いているように思えます。

西郷はなぜ征韓論にこだわったのかと言う点について、実は明治政府になって失業した武士達の救済が、真の目的だったのではないか、という説があります。西南戦争を詳細に読んでいると、それと似た解釈が出来るのです。

征韓論において西郷は自分一人で特使として行き、一兵たりとも連れて行かぬ、と言っていたそうです。これを深読みすると「殺されると分かっていて特使を志願している」としか思えないのです。

明治になってから廃刀令で帯刀する権利をはく奪され、廃藩置県で主従の絆を奪われ、金禄公債(きんろくこうさい)で知行を奪われた武士階級は貧窮のどん底でした。行き場を無くした元武士のために陸軍、海軍、警察の3つの組織が発足しましたが、大部分が薩摩藩と長州藩の元武士で占められ、それ以外の藩の元武士は全くの失業状態になっていたのです。

西郷は、「自分が殺されれば、明治政府も李氏朝鮮に宣戦布告せざるを得なくなり、失業中の他藩の元武士も軍隊に入ることで職に就くことが出来る」 と考えていたのではないでしょうか。つまり「その一身の利害を没却して、他の為めに計る」のが西郷隆盛という人なのです。

もしこの説が本当なら、まさに「大西郷は余りに仁愛に過ぎ」という渋沢栄一の言葉は核心を突いていると言えるでしょう。しかし「困っている人を助けるために戦争を起こそう」という考えは、戦争を仕掛けられる側にしてみれば迷惑極まりないことですが、そこまでは考えが及ばなかったのでしょう。

彼の目は常に「目の前にいる困っている人達を助けること」に注がれていた、と解釈すれば全ての辻褄が合うのです。

私学校の発足

西郷が政府参議を辞め、鹿児島に帰ると、その人徳を慕って多くの政治家・軍人・官僚が辞職して一緒に鹿児島に帰ってきてしまいました。なんと、その数は最初は600人で、その後も続々と続いたそうです。いかに西郷隆盛の人気が高かったかが分かります。

しかし鹿児島には彼らの生計を立てる道はありませんでした。そこで西郷は私財をはたき私学校を作り、帰郷した人々に教官になってもらい職を与えたのです。こうして出来た私学校は、いわば西郷隆盛党ともいうべきメンバーの巣窟になります。

明治になってから数々の権利をはく奪された元武士は不満たらたらでした。ですので、自然に私学校では反政府の意見が大勢を占めることになります。

そうしているうちに、不穏な噂は中央の耳にも入り、政府も私学校を警戒するようになります。そして警察組織が動き出すのです。

軍隊と警察

先に「多くの政治家・軍人・官僚が辞職して一緒に鹿児島に帰ってきてしまいました」と書きましたが、この中に「警察官」という言葉は入りません。警察組織もメンバーの大部分は薩摩藩、長州藩の元武士でしたが、警察官の中から西郷を慕って帰郷したという人はいないのです。

これは一体どういうことなのでしょうか?

実は旧薩摩藩に所属する武士には2種類があり、城の回りを固める位置に住む武士を「城内士」、外側を固める位置に住む武士を「城外士」と呼んでいました。そして城内士と城外士は身分的にも「城内士の方が上」という意識があり、両者は常に対立していたのです。

祭りの時に城内士と城外士の争いが起きるのは「いつものこと」だったそうです。そして明治になってから城内士は軍隊に配属され、城外士は警察に配属されました。これは対立を避けるためでもあったようですが、結果的に軍人と警察官の対立という結果を招きます。

西郷隆盛は陸軍大将であり、軍人であったので、一緒に帰郷したのは軍人である「元城内士」のメンバーだったのです。逆に「元城外士」である警察官は、それほど西郷に心酔する人はいなかったそうです。それはそうでしょう。実際に職務上、付き合うことがなければ、その人を知る機会、そのものが無い訳ですから。

のちの西南戦争で有名な「田原坂の戦い」は軍人と警察の闘い、言い換えれば「城内士と城外士の闘い」でした。両者の相手に対する憎悪は非常に強いものだったそうで、同じ「元薩摩藩の武士」でありながら、凄惨な争いとなった背景にはこういった事情があったのです。

※田原坂の闘い(wikipediaより)
※田原坂の闘い(wikipediaより)

帰郷後の西郷

鹿児島に帰った西郷は、もっぱら犬を連れて散歩兼狩猟をしていたそうです。つまり上野公園にある西郷隆盛像のような感じであったようです。

もっとも西郷は写真が嫌いで一枚も残されておらず、上野の西郷隆盛像も除幕式の時に奥さんが「うちの旦那様は、あんな顔はしていないだよ」と言ったそうです。

※上野公園の西郷隆盛像(wikipediaより)
※上野公園の西郷隆盛像(wikipediaより)

ちなみにこの記事の表紙(アイキャッチ画像)となっている肖像画は、当時のお雇い外国人エドワルド・キョソネが西郷を知る人の意見を聞きながら描いたもので「最も本人に近い」と言われているものです。

西郷は狩猟が好きで連れている犬は猟犬だそうです。つまり、趣味に没頭していたという訳です。私学校は元陸軍少将の桐野利秋らに任せきりで時々、顔を出すくらいだったとのことです。

一方、私学校の不穏な噂を耳にした政府は鹿児島の様子を調査するためにスパイを派遣します。鹿児島では鹿児島弁でないと、すぐにバレてしまうので鹿児島出身の元城外士の警察官が何人かスパイとして送り込まれました。

その中の一人に人見寧という人物がおり、彼は事前に勝海舟を訪ね、西郷と会いたいから紹介状を書いてくれ、と頼んだと言います。しかし勝海舟は一目で「この男は西郷の暗殺を企んでいるな」と見抜き「この男は足下を刺すはずだが、ともかくも会ってやってくれ」という紹介状を書いて渡しました。

人見はそれを持って私学校に行き、桐野利秋に会い、紹介状を出して西郷との面会を求めました。人見の様子が「怪しい」と見て、紹介状の内容を密かに確認したところ、びっくりして西郷に連絡しますが、なんと西郷は「勝の紹介なら会おう」というのです。

西郷の家に人見を連れて行ったところ、西郷は寝っ転がっていたそうですが、人見がやってくると、起き上がり、「私が吉之助だが、私は天下の大勢などいう様なむつかしいことは知らない。まあお聞きなさい。先日私は大隅のほうへ旅行した。その途中で、腹がへってたまらぬから、十六文で芋を買って喰ったが、たかが十六文で腹を養うような吉之助に天下の形勢などというものが分るはずないではないか」と言って大笑したそうです。

これには人見も気を吞まれてしまい、挨拶もそこそこに引き揚げ、「西郷さんは実に豪傑だ」と感服した、という話が残されています。

そんな紹介状を書く勝海舟も凄いですが、西郷の大器ぶりを知っている勝にはおそらく、想定範囲内の出来事だったのでしょう。元々、鹿児島に帰ってきてから「おいがおらんでも岩倉どんと一蔵がおるけん、心配なか」と言っていた西郷は自分は政治家に向いていないことが良く分かっていたのでしょう。そして「もう、自分に出来ることはやった」という自覚もあったのではないか、と思われるのです。つまり西郷は西南戦争で本気になって明治政府を滅ぼそうとは考えていなかったらしいことが、こういった数々の逸話から感じ取れるのです。

西南戦争の勃発

しかし私学校の面々はそうではありませんでした。彼らは本気になって明治政府打倒を考えていたようです。そして当然ながら、その総大将には西郷隆盛以外には考えられませんでした。

彼らは鹿児島にあった陸軍省の倉庫を襲って大量の弾薬を略奪、つまり「戦争の準備」を始めだしたのです。それを知った西郷は「おはんたちはなんちゅうことをしもすか!」と激怒したと言われています。

当時、江藤新平による佐賀の乱、熊本県で起きた神風連の乱、福岡県で起きた秋月の乱、前原一誠による萩の乱など、明治政府に不満を持つ旧武士階級による反乱事件が頻発していました。それらの乱は全て政府により鎮圧されましたが、こういった不平不満を持った武士は、まだ日本国内に沢山いるはずだ、というのが彼らの考えでした。それらの不満分子が一斉に立ち上がれば明治政府を崩壊させることも不可能ではない、と考えていたようです。そして、そのためには西郷隆盛という人物が必要だったのです。

激怒したものの、私学校の面々は元々、西郷を慕って来た者ばかりです。状況を察した西郷は、ついに「おいが身体はおはんたちに上げまっしょ」と言います。

これは西郷が自分を慕ってきた人達にあげた「最後の愛」とでも言えるものだったと考えられないでしょうか? 元々、征韓論では自分が殺されることを前提とした作戦を考えていたらしい西郷です。「一身の利害を没却して、他の為めに計る大西郷は余りに仁愛に過ぎて、遂にその身を誤らるるに到った」と見る渋沢栄一の意見は正しいのではないでしょうか?

戊辰戦争における西郷隆盛と西南戦争における西郷隆盛は同じ人物ですが、西南戦争における西郷隆盛は「ただの看板」に過ぎなかった、と言えそうです。徳川幕府を打倒するために戦った戊辰戦争での西郷は「本気」でしたが、西南戦争はそうではなかったのです。だから西郷は西南戦争において、のちの歴史研究家から非難されてしまうような数々の「誤算」を発生させてしまうのです。

元々、計画していたものでもなく、「本気」でもないのですから当然の成り行きではないでしょうか?西郷隆盛という人物の性格から考えると「岩倉どんや一蔵」を廃して自分が取って変わることなど全く考えていなかった方が自然だと言わざるを得ないのです。

「創業は易く守成は難し」という言葉があります。「体制を変えるのは容易だが、その体制を維持するのは難しい」という意味です。この言葉を持ってすれば西郷隆盛は創業を成した人物であり「岩倉どんや一蔵」は守成を成さんとした人達という事になります。

大久保利通は「恨まれたり、嫌われたりするのは覚悟のうえ」で明治政府の維持に努めました。ですので紀尾井坂で暗殺されてしまい、現在でも一般的な評判は決して良くはありません。しかし政治家の中には「大久保利通こそ政治家の理想像」と考える人も少なくないのです。

「いつでも大事な場合に逃げ出して、あと始末をおいにまかせておくとは何ちゅうこつか」という大久保利通の言葉は、そのままの意味に取るも良し、逆に「あと始末はおいにまかせておけ」という意味に取るも良しと考えた方がよさそうです。

二人が「吉蔵」と「一蔵」であった時のことを考えれば、その真意はおのずと伝わったものと考えるべきでしょうから。

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  この記事を書いた人
なのはなや さん
趣味で歴史を調べています。主に江戸時代~現代が中心です。記事はできるだけ信頼のおける資料に沿って調べてから投稿しておりますが、「もう確かめようがない」ことも沢山あり、推測するしかない部分もあります。その辺りは、そう記述するように心がけておりますのでご意見があればお寄せ下さい。

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