「藤原道綱」道長の異母兄 温厚な人物ながら舞台裏で暗躍も?

 藤原道綱(ふじわらのみちつな、955~1020年)は藤原兼家の次男で、藤原道長の異母兄です。母は一流歌人で『蜻蛉日記』の作者。道綱自身も多くの和歌を残していますが、母譲りの文学的素養はなく、ほかの貴族に「無学」とバカにされ、政治的手腕も乏しかったようです。それでも兼家や道長のコネで正二位・大納言まで出世。そして、意外にも政治的重大事件の舞台裏で重要な役割を果たしていた形跡があります。藤原道綱の生涯や人物像をみていきます。

『蜻蛉日記』鷹を放つ 母との強い絆

 『蜻蛉日記』をみると、藤原道綱の幼少期、父・藤原兼家はときどき訪ねて来るとはいえ、母一人子一人の環境で、かなり溺愛されて育ちます。

 幼い頃、兼家が帰りがけに言う言葉を覚え、「近いうちに来るよ」としきりに口まね。母とけんかした兼家に「私はもう来ないつもりだ」と言われて号泣する場面もありますが、このとき道綱は12歳。満年齢10~11歳ですが、あまりにも子供っぽい感じです。

泣き虫?母思い?「法師になる」

 夫・藤原兼家との関係に悩む母が出家願望を口にします。

道綱母:「どうしよう。尼になって執着を断ち切れるか試してみようと思う」

 藤原道綱はおいおい泣いて答えます。

道綱:「そうなったら私も法師になって暮らします」

道綱母:「法師になって鷹が飼えなくなったらどうするの」

 道綱は即座につないであった鷹を放しました。母を一人にはさせない、そのためなら大事にしていた鷹も要らないという思いを示しました。

 『蜻蛉日記』は「まだ子供で、深い事情は分かっていないのに」と記しますが、道綱は既に16歳。年齢の割に泣き虫で精神的にも幼くみえます。一方、母思いで優しさがあふれ出ているとも言え、もちろん、かなりのマザコンとみることもできます。

相撲見物の帰り 父は送ってくれず

 このエピソードから1カ月後。天禄元年(970)7月、藤原道綱は相撲見物に出かけます。

 装束を整えて藤原兼家邸に行き、父・兼家の牛車に同乗したまでは良かったのですが、道綱の帰宅は家臣任せ。兼家は噂の女性のもとへ行ってしまい、道綱母はあきれます。

 次の日の参内でも道綱の帰りに兼家は同行せず、母は「私たちの夫婦仲がこんなにこじれていなければ……。幼心にも敏感に感じているだろう」と、しょんぼりした様子の道綱を見てさみしく思います。

16歳で従五位下 父の力

 道綱母はやたらと嘆きますが、藤原兼家は薄情な父だったのでしょうか。

 藤原道綱は天禄元年(970)8月、元服。11月には従五位下に叙任され、兼家は道綱を連れてあちらこちらに挨拶回りをします。

 出世のゴールが四位、五位という中級貴族はざらにいる中、16歳の少年が従五位下ですから一流貴族の子弟としての待遇は受けています。当時、中納言兼右大将だった兼家の権勢があってのこと。兼家は道綱の将来を十分考え、便宜を図っていたのです。

花山天皇出家の極秘作戦に参加?

 『蜻蛉日記』巻末歌集によると、藤原道綱が初めて女性に手紙を送った際、母が和歌を代作したことが分かります。

 若き道綱が和歌を贈った女性は大和だつ女や八橋の女。ラブレターの類いが母の日記に掲載され、しかも当時の人も読める状態。プライバシーも何もありません。

道綱の失恋?大和だつ女、八橋の女

 大和だつ女は大和国に縁のある女性という意味ですが、氏素姓は不明。藤原道綱は18~20歳の頃、手紙、和歌を贈りました。道綱に対して塩対応だったせいか、道綱母はこの女性を気に入らなかったようで、『蜻蛉日記』では「返事はあったが、書かないでおこう」と返歌を無視。また、天延2年(974)秋、久しぶりに道綱と再会したときは道綱の和歌に「私ではありません」と繰り返して返事。このときも道綱母は「踊り字(繰り返し符号)だらけで相変わらず気のないこと」と低評価でした。

 八橋の女は八橋あたりに住む女性という意味。三河の名所の八橋(愛知県知立市)か、京・賀茂の八橋を指すのか不明ですが、道綱は20歳のとき、「いつまでも独身では」と世話を焼く人に紹介され、求愛の和歌を贈り続けます。

 『蜻蛉日記』はこの年で終わっていて、最終的な恋の結末は不明ですが、和歌だけをみれば、大和だつ女にも八橋の女にも振られて終わっています。

三種の神器を懐仁親王のもとに

 寛和2年(986)6月、花山天皇が出家します。藤原道綱の異母弟・道兼が花山天皇を極秘に内裏から脱出させ、花山寺に連れ出しました。

 道兼は「既に、神璽(勾玉)も宝剣も皇太子に渡っています」と、躊躇する花山天皇を促しますが、『扶桑略記』によると、勾玉や宝剣といった三種の神器を懐仁親王(一条天皇)のもとに運んだのは道綱。これは道兼、同行した僧、道綱の3人だけが知る秘密工作でした。

 花山天皇を出家、退位させ、外孫・懐仁親王を即位させる陰謀の黒幕は藤原兼家。道綱は父の仕掛けた極秘作戦に関わっていたのです。

道長と三条天皇の確執では調整に奔走

 長徳元年(995)、藤原兼家の跡を継いだ長男・道隆、三男・道兼が相次いで死去し、2人の同母弟で兼家五男の藤原道長が政権を掌握します。道長の異母兄・藤原道綱は翌年に中納言、長徳3年(997)7月に大納言と昇進。大納言は大臣に次ぐ高官で、道綱は道長政権の主要閣僚の一人となります。

※参考:藤原北家九条流(祖は藤原師輔)の略系図
※参考:藤原北家九条流(祖は藤原師輔)の略系図

道長と賀茂祭見物同乗し、投石受ける

 藤原道綱と藤原道長は異母兄弟ながら仲は良く、永延元年(987)4月17日、賀茂祭見物で牛車に同乗します。しかし、右大臣・藤原為光(藤原師輔九男、道長の叔父)の牛車の前を横切ってしまい、為光の従者から牛車が壊れるほど投石を受けました。

皇太子時代の三条天皇に仕える

 藤原道長の政権が発足した時の天皇は一条天皇で、東宮(皇太子)は居貞(おきさだ)親王でした。皇太子とはいえ、居貞親王の方が4歳上。一条天皇の従兄弟で、後継者として「東宮」に立ったのです。

 大納言・藤原道綱は東宮大夫を兼務。皇太子に仕える役所の長官です。寛弘4年(1007)1月には皇太子教育の責任者・東宮傅(とうぐうのふ)に。寛弘8年(1011)、居貞親王が三条天皇として即位するまでこの役目を務めています。

道長次女・妍子の中宮大夫に

 三条天皇に入内した藤原道長の次女・妍子(きよこ)が中宮になると、藤原道綱は中宮大夫に就きます。道長と三条天皇の間を取り持つ重要な役割を担います。

 ところが、三条天皇と道長の関係は悪化。道長は、眼病などを患った三条天皇に退位を迫ります。外孫の即位を狙う道長の画策です。

 道綱は道長と三条天皇の間に入り、調整役、連絡役を務めました。両方とのつながりが深く、温厚な人柄も重宝されていたのかもしれません。

 結局、長和5年(1016)1月、三条天皇は退位し、後一条天皇が即位します。

大臣の夢かなわず…実資からは無能者扱い

 藤原道綱は『蜻蛉日記』にも「おとなしく、おっとりした性格」と書かれ、やや覇気のない人物と捉えられています。また、藤原実資の日記『小右記』などに何度かの道綱の失敗エピソードがあり、無能、無才の低評価が定まっていたようです。

主催の宴会を台無しにした暴言

 寛弘元年(1004)10月、天皇を囲む貴族の宴会がありました。『御堂関白記』によると、藤原道綱が世話役で、囲炉裏を囲んで温かい料理を振る舞います。ところが、『古事談』によると、道綱が舞楽を舞ったときに冠を落とし、からかわれたことで右大臣・藤原顕光(兼通の長男)と大げんか。道綱の暴言がひどいものでした。

道綱:「何を言うか。妻を人に寝取られているくせに」

 道綱は顕光の正妻に密通していたのです。

参加者:「道綱の暴言たるや礼儀を知らない動物と同じだ」

 道綱は主催パーティーを自らの失態で台無しにしたのです。

「1カ月だけでも」大臣拝命を懇願

 藤原道綱は大納言を23年務めましたが、大臣にはなれませんでした。

 寛仁3年(1019)6月、高齢の左大臣・藤原顕光に辞任の噂があり、道綱は藤原道長やその妻・倫子に大臣拝命を懇願します。

道綱:「1、2カ月だけでも大臣に任命してほしい。政務は執らない。1カ月やったら辞任する」

 藤原実資は『小右記』の中で道綱を蔑んでいます。

実資:「(道綱は)大納言を長年務めており、(大臣を望む)その主張はもっともだが、一文不通の人が大臣に任じられたことはない。これは世間が許さないだろう」

 「一文不通」は読み書きができないという意味で、たいへんな悪口です。

 実は20年以上前の因縁があります。長徳3年(997)7月、先に中納言になった実資が大納言昇進では道綱に先を越され、このときも『小右記』で「わずかに名字(氏名)だけを書き、一、二も知らない者」と道綱を侮蔑し、これも「名前以外は漢字を書けない」というひどい言い様です。実資は人事を主導する道長や一条天皇の母・詮子(道長の姉)の政治介入も批判。つまり、出世で道綱に追い抜かれた恨みを持ち続けていたのです。

多数の妻子 娘は紫式部の友人

 藤原道綱は寛仁4年(1020)10月15日、66歳で死去。直前に法性寺で出家し、藤原道長の見舞いを受けています。

 大和だつ女、八橋の女との失恋がある20歳の時、実は長男が生まれていて、妻子も多数います。

 長男・道命(どうみょう)は高僧ながら色好みで和泉式部と関係を持ちました。正妻・源雅信の四女が産んだ兼経(かねつね)は道長の養子となり、正三位、参議に出世。娘の一人、豊子は中宮・藤原彰子に仕えた女房・宰相の君。紫式部ととても仲の良い同僚です。

おわりに

 藤原道綱は正二位・大納言で生涯を終えました。政治的手腕才能に乏しく、いろいろな失態もありました。しかも、「1、2カ月貸してくれるだけでいい。1カ月したら辞任する」「(邪魔になるから?)政務は執らない」という言い草は、職責の重さを顧みず、完全に大臣の地位だけを欲していることを露呈しています。

 そのとき、道綱は自分の死期を知っていたのかもしれません。無学、無才の欠点を自覚したうえで、ただただ正直に、自分の生きた証しとして大臣の地位を求めていたとも思えます。


【主な参考文献】
  • 菊地靖彦、木村正中、伊牟田経久校注・訳『土佐日記 蜻蛉日記』(小学館、1995年)
  • 倉本一宏編『現代語訳 小右記』(吉川弘文館、2015~2023年)
  • 源顕兼編、伊東玉美校訂・訳『古事談』(筑摩書房、2021年)ちくま学芸文庫
  • 山中裕『藤原道長』(吉川弘文館、2008年)
  • 大津透、池田尚隆編『藤原道長事典』(思文閣出版、2017年)

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  この記事を書いた人
水野 拓昌 さん
1965年生まれ。新聞社勤務を経て、ライターとして活動。「藤原秀郷 小説・平将門を討った最初の武士」(小学館スクウェア)、「小山殿の三兄弟 源平合戦、鎌倉政争を生き抜いた坂東武士」(ブイツーソリューション)などを出版。「栃木の武将『藤原秀郷』をヒーローにする会」のサイト「坂東武士図鑑」でコラムを連載 ...

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