「花山天皇」女性スキャンダルの裏に権力闘争

 花山天皇(かざんてんのう、968~1008年)は即位2年後、突然、内裏を抜け出して出家し、世の人々を驚かせます。皇位を捨ててしまうわけですが、これは藤原道長の父・兼家が仕掛けた謀略でした。

 また、道長が権力基盤を固める段階で、ライバルである藤原伊周(これちか)、隆家兄弟失脚の契機となった事件にも関わっています。トラブルを起こし、巻き込まれ、奇行もあった花山天皇。その生涯や実像に迫ります。

紫式部の父を抜擢 家庭教師から秘書採用

 花山天皇は冷泉天皇の第1皇子。母は藤原伊尹(これただ/これまさ)の長女・懐子(ちかこ)ですが、8歳で死別しました。異母弟に三条天皇がいます。

 即位前は師貞親王。2歳で皇太子となり、15歳で元服。17歳で即位しますが、在位は2年弱。その後、法皇(出家した上皇)として22年間過ごしました。

2歳で皇太子 叔父・円融天皇の跡継ぎ

 安和元年(968)10月に生まれ、翌年8月、父・冷泉天皇の退位、その弟・円融天皇の即位に伴い、2歳で東宮(皇太子)となります。満年齢だと生後10カ月。皇太子といっても、円融天皇は叔父。その皇子ではなく、跡継ぎの地位としての皇太子です。

 貞元2年(977)、御読書始めの儀で副侍読を務めたのが紫式部の父・藤原為時。皇太子に学問を教える家庭教師役を担った為時は、花山天皇即位後、蔵人と式部丞に任官します。

 式部丞は文官の人事に関わる役所、式部省の3等官。蔵人は天皇の秘書。「六位蔵人」といわれ、位階は六位と低くても、上級貴族も一目置く出世コースです。また、紫式部の夫になる藤原宣孝もこのとき、六位蔵人。紫式部の父と夫は同僚だったのです。

花山天皇と、藤原九条流・小野宮流の略系図
花山天皇と、藤原九条流・小野宮流の略系図

17歳で即位 後見は伊尹五男

 永観2年(984)8月、円融天皇が退位し、花山天皇は17歳で即位します。

 外祖父・藤原伊尹は既になく、政権を主導するのは伊尹五男・藤原義懐(よしちか)や側近・藤原惟成(これしげ)といった中級貴族です。義懐は権中納言。惟成は蔵人、権左中弁と低い官位ながら「五位摂政」と呼ばれ、実務を掌握。秘書室長といえる蔵人頭は藤原実資でした。実資は実頼の孫で小野宮流。義懐は師輔の孫で九条流です。

 主要閣僚は、関白・太政大臣が藤原頼忠(小野宮流)、左大臣が源雅信(宇多源氏)、右大臣が藤原兼家(九条流)。

 東宮(皇太子)となったのは、叔父・円融天皇の皇子・懐仁親王(一条天皇)。右大臣・藤原兼家の外孫です。兼家は早くも皇太子の即位を見据え、関白・藤原頼忠は藤原惟成ら花山天皇側近との関係が良好でなく、即位当初から花山天皇は有力貴族の支持を得にくい状況でした。

即位式でとんでもない奇行

 花山天皇は奇行癖がありました。説話集『古事談』には、即位の日、高御座(御帳をめぐらした玉座)の御帳を上げ下げする係として、馬内侍という女官が参上しましたが、花山天皇はこの女官を高御座に引き入れて、たちまちに何事かの行為に及んだとあります。

 奔放すぎるというか何というか……。ただ、藤原実資の日記『小右記』には、即位の儀式で「冠が重い」と言って気分が悪くなったとありますが、『古事談』にあるような行動は書かれていません。

殿上人の冠を取るいたずらも

 また、貴族たちの冠を取るいたずらもしました。ある日、関白・藤原頼忠が参内すると、藤原惟成は無冠でした。

頼忠:「どうしたのだ」

惟成:「帝がお召しになりました」

 頼忠に忠告され、花山天皇は惟成の冠を取ることをやめました。しかし、ほかの人の冠は相変わらず取っています。かなり変な癖です。冠をかぶらず、髻(もとどり、頭頂部で束ねた髪)を見せることは重大なマナー違反でした。

内裏を抜け出し出家 最愛女御の死が原因?

 花山天皇は寛和2年(986)6月22日深夜、内裏を抜け出して東山の元慶寺(花山寺)に行き、出家します。

 『栄花物語』では、寵愛していた女御・忯子(よしこ)の死を深く嘆き、出家を決意したことになっています。しかし、『大鏡』では原因は同じでも、雰囲気がまるで違います。

道兼に伴われて宮中脱出

 花山天皇は藤原兼家の三男・道兼に伴われ、密かに内裏を脱出。しかし、躊躇する気分がありありです。道兼は一緒に出家し、仏弟子として仕えると約束しています。

花山:「月が明るいなあ。あまりに露わで具合が悪い。どうしたものか」

道兼:「だからと言って、今さら中止なさる理由もありません。神璽(しんじ)も宝剣も既に皇太子の方へお渡りになった以上は」

 神璽は八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)。宝剣は天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)=草薙剣(くさなぎのつるぎ)。とともに三種の神器であり、歴代天皇が受け継いできたものです。この後、花山天皇が忯子の手紙を取りに戻ると、道兼は噓泣きまでして先を急がせます。

 ここで『大鏡』には意外な人物が登場。66歳の安倍晴明です。内裏を抜け出て、東に向かう花山天皇と道兼が晴明の邸宅前を通った時、晴明の声が聞こえてきます。

晴明:「天皇がご退位になるという占いが出たが、既に退位してしまったとみえるぞ。急ぎ参内しよう。牛車の支度をせよ」

謀略知り慟哭 19歳で退位

 花山天皇は花山寺に入り、剃髪。一緒に出家すると約束し、付いてきた藤原道兼が帰宅してしまいます。花山天皇はここで事情を察し、涙に暮れました。

道兼:「父に出家前の姿をもう一度見せ、天皇のご出家にお供する事情を説明してから戻ってまいります」

花山:「さては、私はだまされたのか」

 藤原兼家は、道兼が本当に剃髪してしまわないように源氏の武士に周辺を警戒させていました。花山天皇の出家は兼家、道兼父子の陰謀。外孫・一条天皇の即位を早めるための計略だったのです。

腹心・義懐と惟成も出家

 『古事談』にこの続きがあります。

 花山天皇出家の翌朝、花山寺に藤原義懐、藤原惟成が来て、天皇の後を追って出家します。

花山:「宿願を果たしたのだ。まったく世間の批評を気にしていない」

義懐:「ご在位の間、この上ないご恩を賜った。お仕えしてきた心を変えるつもりはない。それに、いつまでも世事にあくせくするのも意味がない」

 惟成も同じことを言いました。

 義懐と惟成の忠誠心が強調されています。花山天皇の数少ない味方だった2人は天皇の権威なくして自分たちが政権内で力を発揮できるとは思えず、政争から距離を置いたようです。

 巻き添えを食ったのは紫式部の父・藤原為時。

 為時と義懐は互いの妻がいとこ同士という関係があり、花山天皇は皇太子の時期に家庭教師を務めた関係があります。しかし、その花山天皇も義懐も出家し、為時は政権中枢とのコネを失います。以後10年近く無職が続き、出世コースから遠く外れていきます。

「長徳の変」愛人めぐり伊周兄弟の誤爆受ける

 退位後の花山法皇は花山院に住みます。ここは出家した花山寺とは別。

 『大鏡』は奇行に走る姿や熱心に仏道の修行に励む姿など、さまざまな角度から花山法皇のキャラクターを浮き彫りにしています。絵もうまく、工芸、造園、建築の意匠、設計も優れていました。多趣味な風流人でもあったのです。

愛人宅前で脅しの矢を射かけられる

 長徳2年(996)1月16日夜半、花山法皇は故藤原為光の邸宅・一条殿からの帰路、藤原隆家主従に矢を射かけられます。袖を射抜かれ、ほうほうの体で帰宅しました。

 花山法皇は藤原為光の四女を愛人とし、同じ屋敷には為光の三女がいて、こちらは藤原伊周の愛人。伊周は法皇が自分の愛人に手を出していると誤解し、弟の隆家に相談。隆家は安請け合いしますが、その解決方法は法皇を射かけて脅すというとんでもないものでした。出家の身の法皇は被害を訴え出ないと計算していたのでしょうか。

 これが『栄花物語』による伊周、隆家兄弟の法皇襲撃事件ですが、実際はもっと血なまぐさい事件です。

 花山法皇と伊周、隆家兄弟の家来同士が乱闘。法皇の家来2人の首が取られ、その首が持ち去られます。殺人事件というより合戦です。

 伊周、隆家は藤原道隆(道長の兄)の子息で、道長の政治的ライバル。この花山法皇襲撃事件は一大スキャンダルになり、2人は左遷されます。これが「長徳の変」です。

邸宅前を素通りの道長一派に投石

 長徳3年(997)4月16日、藤原道長の側近、藤原公任、藤原斉信が道長邸を退出し、牛車で花山院前を通った時、花山法皇の家来が投石。翌日、賀茂祭の見物に来ていた道長は「花山院の者どもを逮捕するように」と指示を出しており、同じく賀茂祭見物に来ていた花山法皇は道長の発言を知り、早々に帰宅。18日、法皇は襲撃犯を検非違使(警察、裁判機関)に差し出しました。

 花山法皇の家来の投石は、貴人邸の門前は牛車や馬から降りて通る慣習を無視したことに対する報復。相手のマナー違反が発端とはいえ、度を超した暴力行為です。

残された皇女の残酷悲話

 花山法皇は寛弘5年(1008)2月、父・冷泉上皇に先立ち、41歳で崩御しました。

 花山法皇死後、残された皇女の一人に残酷な逸話があります。

 皇女は太皇太后となった藤原彰子(道長の長女)に仕えていましたが、万寿元年(1024)12月6日、路上で殺害され、放置された遺体が野犬に食べられてしまう痛ましい事件がありました。

 翌年3月17日、容疑者として隆範という僧が逮捕され、7月25日、藤原道雅の指示だったと白状します。道雅は花山法皇とは因縁の深い伊周の長男で、いろいろやらかしている不良貴族です。ところが、7月28日、強盗の首領が皇女殺害を自首。真相は不明ですが、この時代の闇を感じさせる事件です。

 彰子の女房には高い身分の女性が採用されていますが、後見を失ったとはいえ、皇女が女房勤めをしなければならず、また、雅な貴族文化が花を咲かせる平安京にも凄惨な事件は起きていたのです。

おわりに

 花山天皇は、出家時の宮中脱出劇のほか、さまざまな奇行と女性関係のトラブルが目立ち、直情型の人物だったようです。一方で芸術関係などに優れた才能があり、摂関政治と距離を置いて独自の政策を進めようとする意欲も示します。ただ、それを実現するにはあまりにも政治基盤が弱すぎました。

 奇行の一部は政治的敗者の立場が強調された誇張、創作と捉えることもできます。一定の才能や意欲がありながら、それが摂関家と対立してしまう状況は不運でした。


【主な参考文献】
  • 倉本一宏編『現代語訳 小右記』(吉川弘文館、2015~2023年)
  • 保坂弘司『大鏡 全現代語訳』(講談社、1981年)講談社学術文庫
  • 源顕兼編、伊東玉美校訂・訳『古事談』(筑摩書房、2021年)ちくま学芸文庫
  • 大津透、池田尚隆編『藤原道長事典』(思文閣出版、2017年)

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  この記事を書いた人
水野 拓昌 さん
1965年生まれ。新聞社勤務を経て、ライターとして活動。「藤原秀郷 小説・平将門を討った最初の武士」(小学館スクウェア)、「小山殿の三兄弟 源平合戦、鎌倉政争を生き抜いた坂東武士」(ブイツーソリューション)などを出版。「栃木の武将『藤原秀郷』をヒーローにする会」のサイト「坂東武士図鑑」でコラムを連載 ...

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