藤原道綱母「藤原寧子」 『蜻蛉日記』の作者で知られる藤原兼家の側室は幸せアピールが苦手?

 NHK大河ドラマ『光る君へ』に藤原兼家の側室、藤原寧子(ふじわらのやすこ、936~995年)が登場します。

 藤原道長の異母兄・道綱の母で、一般的には「藤原道綱母」という呼び方で知られ、女性による日記文学の先駆け『蜻蛉日記』を残した才女です。「百人一首」に作品が残る一流歌人でもあります。この女性の生涯、人物像を探っていきます。

兼家の第2婦人 本朝三美人の1人

 大河ドラマ『光る君へ』では「藤原寧子」となっていますが、これは作中だけの名。父・藤原倫寧(ともやす)からの連想でしょうか。実名だけでなく通称も不明で、「藤原道綱母」と呼ぶしかありません。

 『尊卑分脈』は「本朝第一美人の三人のうちの一人」としていますが、本人は『蜻蛉日記』冒頭、「容姿も人並みに優れているわけでもない」と謙遜しています。

 出生年は不明ですが、『蜻蛉日記』の厄年に関する記述から承平6年(936)生まれと推定されます。承平3年(933)生まれとする説もあります。

中級貴族から妻を迎えた兼家

 道綱母は藤原長良の子孫。藤原兼家らの九条流にも近い家系ですが、兼家正室・時姫の家と似たり寄ったりの中級貴族です。

 兼家は右大臣・藤原師輔の三男で、同母兄に伊尹、兼通がいました。当初、摂政関白に就くことは想定されず、上級貴族や皇族といった高貴な家柄から正室を迎えるわけでもなく、比較的自由な恋愛から結婚に至ったようです。

正室・時姫とは身分的に同程度

 道綱母は藤原兼家の側室ですが、その他大勢の側室、愛人とは違い、正室に次ぐ「第二妻」のポジションをキープします。子は道綱だけですが、兼家が長年通い、道綱の成長や出世に配慮していたこともうかがえます。

 道綱母と時姫は身分的に同程度。時姫が少し早く結婚し、長男をはじめ3男2女の子宝に恵まれたことで正室とされたのかもしれません。

※参考:藤原北家九条流の略系図
※参考:藤原北家九条流の略系図

「百人一首」浮気への怒りと兼家の余裕

 道綱母は天暦8年(954)、藤原兼家の妻となります。兼家は26歳。何度も手紙を送り、単刀直入に求婚。道綱母は初め、素っ気ない返事に終始しましたが、最終的には兼家の熱意に押し切られます。

 すると、感情的な立場は逆転。父・藤原倫寧が陸奥守に赴任して京を離れ、道綱母としては夫を頼るしかないのですが、兼家の女性関係は一筋縄ではいかないものでした。

浮気夫の訪問に門を開けず

 「百人一首」53番が「右大将道綱母」の歌です。

〈嘆きつつひとり寝る夜の明くる間は いかに久しきものとかは知る〉

(嘆きながら1人で寝る夜が明けるまでの時間はどんなに長いものか、あなたは知らないでしょうね)
「百人一首」53番より

 『蜻蛉日記』に詳しい経緯があります。

 天暦9年(955)8月に道綱が誕生しますが、9月頃、ほかの女性に宛てた兼家の手紙を発見。次第に兼家の訪問が途絶えがちになり、訪問しても「宮中にのっぴきならない用事がある」と言って外出します。これを怪しいと思った女の勘はさすが。人に尾行させたところ、兼家が新しい愛人「町の小路の女」のもとに通っていることが発覚します。

 そして11月のある日、兼家の訪問に門を開けず、追い返します。兼家は当然、町の小路の女のもとへ行ってしまったと思われます。その翌朝、色変わりした菊の花を添えて兼家に届けたのがこの和歌。色変わりした菊の花は男性の心変わりを象徴する小道具で、兼家の浮気を非難しているのです。

 兼家の返歌もあります。

〈げにやげに冬の夜ならぬ真木の戸も 遅くあくるはわびしかりける〉

(もっともです。冬の夜の長さだけでなく、真木の戸が開くのが遅いのもつらいものですね)

 道綱母の切実な思いに対し、兼家は浮気の言い訳もせず、まったく悪びれない余裕のある切り返し。道綱母はいよいよ腹を立てました。

時姫への対抗心と連帯

 道綱母は兼家の浮気には常に心を痛めていますが、自身も側室で、正室からみれば、目障りな存在です。道綱母は時姫に対抗心を示し、やや挑発的な和歌も送ります。そうした気分は仕えている者にも伝わるもので、従者同士がけんかすることもありました。

 一方で町の小路の女をめぐって同情する和歌をやり取りするなど奇妙な連帯もしています。

『蜻蛉日記』兼家との婚姻生活つづる

 『蜻蛉日記』には、夫を待つ側室のつらさを書きつづっていますが、それでも夫・藤原兼家は長期間、道綱母のもとを訪ねており、決して忘れられた存在ではありません。仲良いときもあれば、けんかもします。身分差は大きくても人並みの夫婦でした。

兼家邸を極秘訪問し見舞い

 厚保3年(966)3月、道綱母のもとを訪れていた藤原兼家が急病となります。急に苦しみ出し、人に抱えられながらようやく牛車に乗って帰宅。10日以上経って容態が少し改善すると、兼家の熱心な誘いによって道綱母は病床を見舞います。

 夜半、兼家の差し向けた牛車で寝殿から離れた渡殿の部屋へ行き、真っ暗で入り口も分からずにいると、「どうしたの、こっちだよ」と、兼家に手を取られて案内されました。「人に見られぬ間に」と夜明けには帰ろうとしますが、兼家に引きとめられ昼近くまで滞在します。

 正室も住む、いわば敵陣。側室が夫の邸宅を訪問するのは当時としては異常な行動です。

 また、このころ、節会(せちえ)の見物席を賭けて兼家と双六を打つなど結婚から10年以上経っても仲睦まじい場面もあります。そうかと思えば、些細なことで言い合いとなり、兼家が「もう来ないつもりだ」と言い、幼い道綱を泣かせてしまうこともありました。

新たなライバル・近江

 天禄元年(970)、道綱母が35歳の頃、藤原兼家に新しい側室「近江」が登場します。

 兼家の訪問が減り、いぶかしく思っている道綱母に事情通の侍女が吹き込みます。

侍女:「(兼家は)亡くなった小野宮の大臣(藤原実頼)の召人(めしうど)にご執心のようで、近江という女との関係はかなり怪しいようです。色っぽい女のようですから」

 藤原実頼は兼家の伯父。召人とは、身の回りの世話をする仕事をしながら主人と男女関係にある侍女です。

 道綱母は相当不愉快だったようで、兼家の態度をたびたび批判。しかも近江の家はご近所でした。そして、近江の家は2度ほど火災に遭いますが、話を聞くたびに「あの憎い人の家か」という程度で、まったく同情しません。

容姿の衰えを自覚

 天禄3年(972)、藤原兼家の兄で摂政・太政大臣の伊尹(師輔長男)が死去。もう一人の兄・兼通(師輔次男)が関白になり、兼家は不遇の時代を迎えますが、それまでに地位も上がっていたのでそれなりに忙しく、貫禄もついています。それに対して道綱母は自身の容姿の衰えを感じ、「老け込んでしまった」と思い込みます。

 天延元年(973)、道綱母は父・藤原倫寧の計らいで転居。京極川沿いの少し不便な土地ですが、倫寧の別宅があったようです。これまで生活していた邸宅は人手不足で手入れも行き届かず、荒れるに任せていました。このとき道綱母は38歳。転居後は兼家が訪問することはなく、手紙と愛息・道綱を介しての関係だけになります。

源高明妻との交流 「蜻蛉日記」後の生涯

 前後しますが、安和2年(969)、安和の変が起きます。失脚した源高明に対して道綱母は大いに同情し、世間が大騒ぎしたことも書き留めています。

 源高明は夫・藤原兼家ら藤原氏の政敵でしたが、道綱母は特に兼家ら一族の肩を持つことなく、この政変に対する世間の受け止め方をストレートに書き残します。また、源高明の後妻・愛宮の出家に同情し、長歌を贈るなど交流しました。

兼家異母弟が養女に求婚

 道綱母は藤原兼家が別の側室に産ませた子を養女としました。

 天延2年(974)、その養女に兼家の異母弟・藤原遠度(とおのり)が求婚。間に入った道綱が苦労します。道綱は右馬助になったばかりで、遠度は上司の右馬頭。養女は15歳で、遠度の年齢は不明ですが、『蜻蛉日記』だと若々しく見た目も良かったようです。何度も道綱母を訪問する遠度の姿をのぞき見しようと侍女たちは大騒ぎし、道綱母は「あの子はまだ人見知りする年頃です」とはぐらかしながら話は進みますが、結局、破談します。

 遠度の不倫が発覚。他人の妻に手を出していました。あっという間に悪評が広がり、遠度は弁明と求婚辞退の手紙を道綱母に送ります。一夫多妻の時代ですが、それなりのルールを守らない者に対して世間の目は厳しく、スキャンダルへのバッシングも現代とあまり変わりません。

兼家の絶頂期を見届ける

 『蜻蛉日記』は天延2年(974)の大みそかで終わっていますが、道綱母はその後20年ほど生き続けます。歌人として才能を発揮し、寛和2年(986)には内裏歌合に道綱が母の作品を出し、正暦4年(993)の東宮帯刀陣歌合にも作品を出しています。

 藤原兼家は寛和2年(986)、摂政となり、ついに政権を握りますが、正暦元年(990)7月に死去。道綱母も長徳元年(995)5月2日、60歳で死去しました。

おわりに

 藤原道綱母の『蜻蛉日記』は結婚直前の19歳から39歳の20年間をつづっています。側室ゆえの不安や兼家の浮気に対する非難、恨みが強調されていますが、実際には長期間、妻として愛され、決して不幸な結婚生活ではありませんでした。その間、夫・兼家はわがままな貴公子から政権中枢で活躍する一流政治家に成長していきます。ただ、和歌や文学の主題としては悲恋が似合い、道綱母も幸せアピールは苦手だったようです。


【主な参考文献】
  • 菊地靖彦、木村正中、伊牟田経久校注・訳『土佐日記 蜻蛉日記』(小学館、1995年)
  • 保坂弘司『大鏡 全現代語訳』(講談社、1981年)講談社学術文庫
  • 有吉保訳注『百人一首』(講談社、1983年)講談社学術文庫

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  この記事を書いた人
水野 拓昌 さん
1965年生まれ。新聞社勤務を経て、ライターとして活動。「藤原秀郷 小説・平将門を討った最初の武士」(小学館スクウェア)、「小山殿の三兄弟 源平合戦、鎌倉政争を生き抜いた坂東武士」(ブイツーソリューション)などを出版。「栃木の武将『藤原秀郷』をヒーローにする会」のサイト「坂東武士図鑑」でコラムを連載 ...

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