「藤原道長」摂関家の絶頂期築いた”御堂関白” 栄華を極めたその生涯

『紫式部日記絵巻』にみえる藤原道長(出典:wikipedia)
『紫式部日記絵巻』にみえる藤原道長(出典:wikipedia)
 藤原道長(ふじわらのみちなが、966~1027年)は摂関政治の全盛期を築きました。「御堂関白」と呼ばれますが、関白には就いていません。ただ、関白に近い権限で権力を掌握し、天皇の正室・中宮に押し込んだ娘の家庭教師役に紫式部を起用して、王朝文化の隆盛を後押しします。

 人心掌握術にたけ、強運と人脈に恵まれ、時には天皇と対立する難局も乗り越えてきました。波乱に満ちた道長の生涯をみていきます。

道長の家族関係 父も兄もスゴ腕関白

 道長の父・兼家、兄・道隆はともに摂政、関白として権勢を誇り、時に強引な手法もみせた剛腕政治家です。

 兼家は58歳で摂政に就き、政界の頂点に立ったのは晩年の5年ほど。次兄・兼通との不和で遠回りしましたが、花山天皇を退位に追い込み、三女・詮子(あきこ)の産んだ一条天皇を即位させました。兼家死後は長男・道隆が関白として権力を握り、長女・定子を一条天皇の中宮にしています。

※参考:藤原兼家・道隆・道長らの略系図
※参考:藤原兼家・道隆・道長らの略系図

道長は五男坊だが、実は兄6人?

 康保3年(966)、道長が誕生した時、父・兼家は38歳で、まだ公卿ではなく、母・時姫は30歳前後と想像できます。同母兄は兼家長男・道隆14歳、三男・道兼6歳、同母姉は長女・超子(とおこ)が13歳くらいで、三女・詮子5歳。異母兄は次男・道綱12歳、四男・道義1~6歳がいました。ほかに異母姉、異母妹がいます。

 道長は兼家五男とされますが、実は異母兄に僧・兼俊と、『蜻蛉日記』に登場する兼家の愛人・町の小路の女が産み、夭逝した男児もいて、それも含めると、道長の兄は6人、姉妹4人です。

妻は2人とも源氏、子は計13人?

 道長の子は13人くらいのようです。

 正室・源倫子(みちこ)の子は2男4女の6人。長男・頼通、五男・教通はともに関白。長女・彰子は一条天皇中宮で後一条、後朱雀天皇の生母、次女・妍子(きよこ)は三条天皇の中宮、四女・威子(たけこ)は後一条天皇の中宮、六女・嬉子は後朱雀天皇の皇太子時代の妃で、後冷泉天皇の生母です。

 側室・源明子の子は4男2女の6人。次男・頼宗は右大臣、三男・顕信は若くして出家、四男・能信と六男・長家は権大納言。三女・寛子、五女・尊子がいます。

 ほかに道長の側室はいますが、『大鏡』で道長の妻と扱われる明子は側室の中で別格。それでも、正室・倫子とは子の昇進、嫁ぎ先で明確に差をつけられています。

負けん気は強かった 若い頃からの胆力

 藤原道長は、若い頃から負けじ魂が強く、兄や他家の貴公子に対するライバル心も隠しません。『大鏡』にそれを示す逸話が並びます。

公任の影は踏まず 父の嘆きを一蹴

 道長と同い年の再従兄弟(またいとこ)に漢詩、和歌、管絃の才能に優れた藤原公任(きんとう)がいます。関白・藤原頼忠の長男で将来を嘱望されていました。

 父・兼家は公任の才能に自分の子らが及ばないことを嘆くと、兄の道隆、道兼はひと言も発せず、しゅんとします。しかし、道長は違います。

兼家:「公任はいろいろな芸道にずば抜けていてうらやましい。わが子はあの男の影法師すら踏めそうもない」

道長:「お言葉通り、あの男の影法師は踏みませんが、あの面を踏まないでおくものですか」

 出世競争は道長の宣言通りです。

五月雨の夜の肝試し 大極殿の柱を削る

 5月下旬の雨の降る夜、花山天皇は内裏の清涼殿で貴族たちと暇つぶしをしているうち話題は怪談話に移りました。

天皇:「今夜は特に気味の悪い晩だ。まして人気のない所はどんなに気味悪いだろう。そんな所に一人で行けるか」

道隆、道兼:「………」

道長:「どこへでも行って参ります」

 道隆、道兼、道長はそれぞれ行き先を指定され、午前2時に出発。月明りのない真っ暗な夜です。道隆、道兼は怖気づいてリタイアし、天皇は扇で手をたたいて大笑い。一方、道長は大極殿との間を往復。平然とした顔で戻り、天皇に借りた小刀を返します。何やら削りくずが添えられています。

道長:「手ぶらだと何の証拠もないと取られかねないので、柱の下を削ってきました」

 翌朝、蔵人が確認すると、削りくずと削り跡はぴたりと合致しました。

兄・道隆邸で弓争い、甥・伊周に完勝

 兄・道隆邸で大勢の客が弓の腕前を競っていたとき、招待客ではない道長が来訪し、道隆の嫡男・伊周(これちか)との勝負に挑みます。2本差で道長が勝ちますが、道隆は伊周に勝たせたいので延長戦を勧め、道長は不愉快ながらもこれに応じます。

道長:「将来、道長の家から天皇、皇后がお立ちになる運勢ならば、この矢よ、当たれ」

 道長の矢は的のど真ん中をぶち抜きます。伊周はすっかり気圧され、大外れ。続いて道長の2射目。

道長:「この私が摂政、関白に立つ運勢ならば、この矢よ、当たれ」

 的が割れるような勢いでど真ん中に。道隆はすっかり機嫌を損ね、伊周に2射目を棄権させ、場は完全に白けました。

 ライバルの邸宅に堂々と乗り込み、自家の繁栄を予告した道長の剛胆さが『大鏡』で賞賛されていますが、これらの逸話は創作とみていいかと思います。

脇役から一転…相次ぐ兄の死と姉の支援

 道長は本来、同母兄・道隆、道兼を補佐する脇役で終わっていたかもしれません。しかし、主役に躍り出るチャンスがめぐってきます。それは身内の相次ぐ不幸でした。

道隆に続き道兼も…姉・詮子の助け船

 道隆は長徳元年(995)4月10日、43歳で死去。大酒飲みで、死因は糖尿病とみられます。次は道兼。4月27日に関白に指名されましたが、5月8日、35歳で死去。流行の疫病に感染し、「七日関白」の異名が残りました。

 疫病の影響で残った高官は、30歳で権大納言の道長と、22歳で内大臣の伊周。一条天皇は中宮・定子の兄である伊周を関白にしたかったのですが、異論を挟んだのが一条天皇の母・詮子。道長の姉です。天皇の寝所に押しかけて道長登用を訴え、ついに道長は関白に近い権限のある内覧に就きます。権大納言から右大臣に昇進し、翌年には左大臣になります。

長徳の変 ライバル・伊周、隆家が失脚

 道隆は父・兼家と道長の間に権勢を誇ったことから「中関白」といわれ、道隆の正室の子で三男・伊周、四男・隆家を中心に中関白家は、道長の強力なライバルになるはずでした。中宮・定子の実家だからです。

 道長と伊周は長徳元年(995)7月24日、会議の場で激しく口論。3日後には道長と隆家の家来同士が乱闘騒ぎを起こし、8月2日には隆家の家来が道長の随身を殺害します。

 こうした緊迫関係の中、長徳2年(996)、伊周、隆家兄弟と花山法皇の家来同士が乱闘、死傷者が出る騒ぎとなり、伊周、隆家は左遷されます。長徳の変です。

 道長のライバルは失策で自滅。伊周、隆家は長徳3年(997)に大赦で許され、京に戻りますが、権力基盤を固めた道長に対抗できる力はありませんでした。

長女・彰子を中宮に そして紫式部登用

 道長は公卿筆頭の左大臣と実権のある内覧を兼ねて政治を主導しますが、33歳のとき、大病し、出家を願い出ます。一条天皇は再三慰留。もし、このとき出家し、政界を引退していたら、道長は1代限りの中継ぎ政権で終わっていたのです。

大病し弱気 出家、辞任の申し出

 道長は長徳4年(998)3月に3回、出家を申し出ます。その後も政務に当たっていますが、「本朝文粋」に道長の辞表が残されています。

道長:「私は声望浅く、才能もいい加減。母后(詮子)の兄弟であるので序列を超えて昇進してしまった。父祖の七光りで徳もないのに登用され……。2人の兄は地位の重さに早死にした」

 意外と弱気な道長。7月には病状が重くなり、側近・藤原行成の日記『権記』には、生命さえ危ぶまれたことが書かれています。しかし、9月下旬に政務復帰し、10月には遊覧に出かけるほど回復しました。

 そして、8月には行成に辞表を奏上させる裏で秘事を相談しています。その中身は不明ですが、長女・彰子の入内の件とみて間違いないでしょう。

「一帝二后」長女・彰子を中宮に

 長保元年(999)、彰子が一条天皇に入内。一方、同時期に中宮・定子は敦康親王を出産します。

 彰子に皇子を産ませ、皇太子の祖父となるのが道長の狙いですが、彰子はまだ12歳。一条天皇の定子への愛情は深く、兄・伊周左遷のとき、定子は出家しましたが、それでも宮中に呼び戻したほどです。敦康親王が皇太子となれば、道長と伊周の立場も逆転しかねません。

 道長は長保2年(1000)2月、前例のない「一帝二后」で彰子を中宮に立てます。中宮だった定子は皇后としました。皇后と中宮はまったく同じ意味。本来、ただ一人の天皇の正室です。しかし、道長の兄・道隆が定子を中宮にする際、皇后と中宮を呼び分けた前例があります。また、定子は出家したので、天皇の正室としての神事ができないという事情がありました。

 なお、定子は同年12月、崩御。「一帝二后」は1年足らずで解消されます。

彰子のサロン充実、そして皇子出産

 寛弘2年(1005)頃、彰子の女房として紫式部を登用します。彰子のサロンが充実し、『源氏物語』の最新作を読める〝先行配信〟効果か、成長した彰子と一条天皇との関係は良好となります。彰子は寛弘5年(1008)9月、敦成親王(のちの後一条天皇)を出産。おしっこを引っ掛けられて大喜びしたほど道長が待ち望んだ外孫の誕生です。

敦成親王の誕生50日を祝う儀式の場面(『紫式部日記絵巻断簡』より。出典:Colbase)
敦成親王の誕生50日を祝う儀式の場面(『紫式部日記絵巻断簡』より。出典:Colbase)

 続いて、寛弘6年(1009)、彰子は敦良親王(後朱雀天皇)を出産。次の皇太子をめぐっては、定子の産んだ敦康親王を望む一条天皇と、彰子の産んだ敦成親王を立てたい道長の思惑が交錯。道長は一条天皇退位を画策します。

次女立后も…三条天皇との確執経て摂政に

 寛弘8年(1011)6月、一条天皇は退位し、直後に崩御。32歳の若さでした。跡を継いだ三条天皇は36歳。花山天皇の異母弟で、母は兼家長女・超子です。道長は関白就任要請を固辞する一方、敦成親王を皇太子とし、じっくりと次を見据えます。

再び「一帝二后」? 天皇が提案

 長和元年(1012)2月、道長の次女・妍子が三条天皇の中宮になります。道長の娘2人目の中宮です。三条天皇は、妍子が皇子を産めば、道長の後見が期待できると、皇位継承を計算したのかもしれません。

 一方で三条天皇は3月、即位前から寵愛していた媙子(すけこ)を皇后に立てると提案。6人の子を産んでいますが、17年前に死んだ大納言の娘で、身分的に皇后には無理があるうえ、天皇からの「一帝二后」の提案は貴族たちの常識を逸脱したものでした。

したたかに立后儀式を妨害

 4月27日、媙子の立后の儀式の同日、道長は、妍子が東三条第から内裏に移る行事をかち合わせます。立后儀式に出席した公卿は藤原実資ら4人だけ。道長の饗宴が始まっていた東三条第に実資の使者が行き、儀式に出席するよう伝えても、道長派の公卿は使者を嘲笑し、石を投げる者までいました。

 道長と三条天皇の関係は決定的に悪化します。

眼病を理由に三条天皇に退位迫る

 長和3年(1014)、三条天皇は目や耳の不調など体調面に異変が出始めます。道長の日記『御堂関白記』はこの年の記録がありません。意図的な破却の可能性もあります。藤原実資の日記『小右記』によると、3月25日に道長は天皇に退位を迫っており、関係悪化は抜き差しならない状態だったようです。

 長和4年(1015)に入ると、こうした動きは顕著になり、長和5年(1016)1月、三条天皇は退位。孫の後一条天皇即位に伴い、道長はついに摂政に就きました。

「この世をば」自画自賛の裏で身体の衰え

 寛仁2年(1018)、後一条天皇が元服し、道長の三女・威子が入内。10月16日、中宮に立てます。長女・彰子、次女・妍子に続く娘3人目の中宮、「一家三后」です。立后の儀式後、道長の邸宅・土御門第で本宮の儀の穏座(おんのざ)、いわゆる2次会の宴席がありました。この席で道長は、自身の栄華を象徴する和歌を詠みます。

望月の歌 自身の日記には残さず

 道長は『御堂関白記』に「和歌を詠んだ。人々はこの和歌を詠唱した」としか書いていませんが、藤原実資が珍しく宴席に参列し、『小右記』にしっかり記録しています。

道長:「歌を詠もうと思う。必ず返歌を詠むように」

実資:「そうしましょう」

道長:「自画自賛の歌である。ただし、準備していたものではない」

この世をば我が世とぞ思ふ望月の 欠けたる事も無しと思へば
(この世をわが世と思う。満月が欠けることもないと思うので)


実資:「お歌は優美で、返歌することもできません。満座の者でこのお歌を繰り返してはいかがでしょうか」

 道長のうぬぼれに実資があきれたとか、歌の下手さに返歌する気になれなかったと解釈されています。しかし、実資は道長の政治姿勢を『小右記』の中で批判することはあっても、現実的に敵対することはなく、道長が政界の第一人者であることは率直に認めています。この時も道長の繁栄を祝ったと解釈する見解もあります。

 なお、道長自身が和歌を日記に残していないのは、あくまで即興、下手な歌だったと自覚していたのかもしれません。

糖尿病に苦しむ 視力減退、口の渇き

 この和歌を詠んだ翌日、実は視力の減退を明かしています。

道長:「近くも見えない。そなたの顔もよく見えない」

実資:「晩と昼では違いますか」

道長:「黄昏時、白昼に限らず、ただ見えないのだ」

 既に道長自身、身体の衰えをひしひしと感じていたのです。2年前の長和5年(1016)5月にも実資にこう訴えています。

道長:「3月からしきりに水を飲む。特に最近は昼夜、多く飲む。口が渇いて力がない」

 飲水病といわれた糖尿病の症状です。

摂政は1年余で退任 62歳で死去

 寛仁元年(1017)3月、道長は前年1月に就いたばかりの摂政を辞任。長男・頼通が摂政に就きます。道長が摂政だったのは1年余で、名誉職・太政大臣は寛仁元年12月~翌年2月の短期間でした。

 寛仁3年(1019)3月に出家。54歳でのセミリタイアです。出家後も任官を望む人が訪ねてくるので、道長は無量寿院の門前に「呼んでいない者は来るべからず」と札を立てています。

 晩年はかなり苦しい闘病生活を送り、時折、「道長死去」の誤報も流れました。『小右記』には、物の怪にとりつかれて大声で泣きわめいたとか、死の間際までの道長の動向が記されています。

 万寿4年(1027)12月4日死去。62歳でした。

おわりに

 道長は晩年、自邸・土御門殿の隣にお堂を建て、無量寿院とし、さらに金堂などを増やし、法成寺を創建。ここから「御堂関白」と呼ばれます。しかし、道長は関白に就いたことはなく、摂政も晩年の1年余。権力者・道長の地位は約20年、左大臣兼内覧でした。

 そして、権力の源泉は中宮となった娘たちです。一条、三条、後一条の3代にわたり、中宮の父として天皇をコントロールし、時に対立もしながら国政を動かし続けたのです。


【主な参考文献】
  • 倉本一宏『藤原道長の権力と欲望』(文藝春秋、2013年)文春新書
  • 山中裕『藤原道長』(吉川弘文館、2008年)
  • 倉本一宏『藤原道長「御堂関白記」』(講談社、2009年)講談社学術文庫
  • 倉本一宏編『現代語訳小右記』(吉川弘文館、2015~2023年)
  • 保坂弘司『大鏡 全現代語訳』(講談社、1981年)講談社学術文庫

※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。

  この記事を書いた人
水野 拓昌 さん
1965年生まれ。新聞社勤務を経て、ライターとして活動。「藤原秀郷 小説・平将門を討った最初の武士」(小学館スクウェア)、「小山殿の三兄弟 源平合戦、鎌倉政争を生き抜いた坂東武士」(ブイツーソリューション)などを出版。「栃木の武将『藤原秀郷』をヒーローにする会」のサイト「坂東武士図鑑」でコラムを連載 ...

コメント欄

  • この記事に関するご感想、ご意見、ウンチク等をお寄せください。