お江戸の法廷・お白州 ルーツは平安貴族の寝殿造りだった?

 「おうおう、この背中に咲いた桜吹雪がてめぇらの悪事をちゃーんとお見通しなんでぇっ!」片肌脱いでずいっと膝を進めるお奉行様。「へへー」とお白州に頭をこすり付ける悪党ども。

 ところでお白州(おしらす)って何でしょう?

お白州にもしっかりあった身分による席順

 お白州と聞いて私たちが思い浮かべるのは、時代劇で捕まった悪党どもが膝を屈し、かしこまっている真っ白な砂砂利が敷き詰められた地面です。広義には奉行の座る畳敷きや周囲を囲む板壁なども含む裁きの場、現代でいえば法廷そのものでしょうか。

 だいたいはその通りですが、本来は敷き詰められた砂利そのものや敷き詰めた場所を「白洲」と呼び、敬意を表して「御白洲」と呼びました。

 時代劇などではお白州は露天のように描かれますが、実際には必ず屋根で覆われています。そして奉行の座る座敷と白洲の間は二段の縁側で仕切られていました。上段の縁側を「上縁」といい、薄縁畳が敷いてあり、下段を「下縁」といってこちらは板敷きのままです。

 座敷と白洲の間には、上り下りに使う踏み石もなく、金さんが片足をバンッと踏み出す階段もありません。座敷と白洲ははっきり区切られており、行き来をする場所では無かったのです。

 座敷は奉行など裁く側の席ですが、上縁以下は黒白をつけてもらいに来た人々が着座し、席・座席・白洲座席と呼ばれます。座席にも身分によって差が付けられ、百姓・町人など庶民は砂利に、武士・僧侶・神職などは二段の縁側のいずれかに座ります。そのため、訴えた町人が砂利の上で畏まり、訴えられた武士が縁側に座るのも普通の光景でした。あくまで身分による分け方ですが、これが重要でかなり厳密に分けられます。

そもそもお白州はどこにあった

 お江戸には寺社奉行・町奉行・勘定奉行の三奉行所が置かれました。江戸の三奉行は幕府の中枢を担う重職で、それぞれの役所にお白州が設けられ、それぞれの管轄する範囲の裁判を行います。

 今回例に挙げる町奉行所のお白州は、町奉行所の敷地内にあります。町奉行所とは奉行職に就任した旗本が入居する館で、表部分が役所として使われる「役宅」です。表門を入って正面が役所で、正面玄関右手に同心番所・与力番所など役所の受付機能がまとめてあります。これら番所の前面には廻り縁と庇がめぐらされており、庶民はこの庇の下から縁側の役人に訴状などを差し出します。玄関の左手にあるのがお白州と座敷です。

 広敷玄関より奥が夫人など奉行の家族や使用人が暮らす居住空間で、奉行職を拝命した旗本は一家を引き連れて引っ越しました。同心番所や与力番所の奥に内玄関があり、そこからが奉行が執務する場所です。用人や町奉行配下の内与力たちの長屋も屋敷内にあり、奉行所はかなり広いものでした。

 天保13年(1842)の南町奉行所の図面が残っていますが、敷地面積は2603坪建坪は1307坪もあります。表門の外側には出廷者の待合所である「公事人腰掛(くじにんこしかけ)」が設けられており、ここの敷地が78坪建坪は75坪です。北町奉行所もほぼ同様の建物です。

東京・有楽町駅前広場にあり、名奉行「大岡忠相」が手腕をふるった南町奉行所跡
東京・有楽町駅前広場にあり、名奉行「大岡忠相」が手腕をふるった南町奉行所跡

お白州の始まりは

 武士は縁側に着座し、庶民は砂利の上で畏まる。このようなお白洲の光景はいつごろ始まったのでしょうか?

 元をたどれば奈良平安時代の貴族の館に行きつきます。当時の寝殿造りの邸宅は中央座敷の南側に広い庭を設け、これを「南庭」「大庭」「広庭」と称しました。ここで臣下が貴人に礼拝し、公の儀式や行事つまり公事も行なわれ、囚人を連行して糺問する場所にも使われるようになります。

 この庭は公事を行う場所として清浄を保つためもあり、白い砂が敷かれていました。この砂を「砂子」「白砂」と表記し、はくさ・しろすな・しらすなどと呼び、「しらすの庭」と呼ばれました。

 お白洲のような場所での裁判は、中世の鎌倉で確認されます。

 宝治元年(1247)の記録に「訴訟人座席事(そしょうにんざせきのこと)」として、侍は“客人座(まろうどのざ)”、郎党は“広庇”、群郷沙汰人(ぐんごうさたにん/村の有力者)は“小縁”、雑人(一般人)は“大庭”と、社会的地位に応じて4種類の座席が用意されます。

 “客人座”は母屋の中にあったようで、“広庇”は母屋の外板張りの広縁、“小縁”は広庇の外側にある幅の狭い簀子縁 、“大庭”は野外の庭です。母屋・広庇・簀子縁・大庭と順番に低くなっており、ここでも被告・原告の区別ではなく、身分の差で席が決まります。

 この時に使われた場所は武家の屋敷内で、貴族の時代と同じように通常、客人を迎える座敷でした。15世紀半ばから16世紀にかけてこのような公事を行う庭を「白洲」と呼ぶようになり、さらに敬意を込めて「御白洲」の言葉も出来ます。

 この「通常は客人を迎える座敷」の形を奉行所の独立した裁きの場としたのが江戸時代のお白洲です。

おわりに

 16世紀後半の狂言に『右近左近(おこさこ)』と言う演目があります。隣家と揉め事を起こした百姓右近が地頭に訴え出る物語ですが、そのなかで右近のせりふに「ちと公事がござって御白洲へ通りまする」とあります。

 同時代の狂言に『昆布柿』があり、こちらは年貢上納のため荘園領主の屋敷にやって来た百姓に取次役の家臣が、「汝らお白洲へ出て直々に申し上げい」と言い渡します。このころにはお白洲は裁きの場と認識されていたようです。


【主な参考文献】
  • 笹間良彦『図説 江戸町奉行所事典』(柏書房/1991年)
  • 南和男『江戸の町奉行』(吉川弘文館/2005年)
  • 尾脇秀和『お白洲から見る江戸時代』(NHK出版/2022年)

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  この記事を書いた人
ichicokyt さん
Webライターの端っこに連なる者です。最初に興味を持ったのは書く事で、その対象が歴史でした。自然現象や動植物にも心惹かれますが、何と言っても人間の営みが一番興味深く思われます。

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