天下泰平の世において、「武芸十八般」とは一体何だったのか?
- 2023/10/04
「拙者は武芸十八般に通じ、特に剣術と槍術は免許皆伝の腕前なれば・・・」
喰い詰め者の浪人が何とか仕官の口にありつきたい時に吐きそうなセリフですが、そもそも”武芸十八般(ぶげいじゅうはっぱん)” とは何だったのでしょうか。
喰い詰め者の浪人が何とか仕官の口にありつきたい時に吐きそうなセリフですが、そもそも”武芸十八般(ぶげいじゅうはっぱん)” とは何だったのでしょうか。
左文右武を求められた江戸時代の武士
江戸時代の武士は“左文右武(さぶんうぶ)”を求められ、幼いころから厳しい家庭教育を施されました。”左文右武”とは今で言うなら文武両道ですね。戦国の余韻が残る三代将軍・徳川家光のころまでは”武”の方に重きが置かれていましたが、泰平の世が続くにつれ、次第に”武”はないがしろにされ始めます。これではいかんと言うのでしょうか、武を奨励した八代将軍吉宗の頃に、“武芸十八般”として18種類の武術が数え挙げられました。
武士が身に付けておくべき武術の事で、以下18種類の武術を”武芸十八般”と言います。
- 弓術
- 馬術
- 槍術
- 剣術
- 水練(遊術とも言う)
- 抜刀術(居合)
- 短刀術
- 十手術
- 銑鋧術(せんけん/手裏剣とも)
- 含針術(含み針)
- 薙刀術
- 砲術
- 捕手術
- 柔術
- 棒術
- 鎖鎌術
- 綟術(もじり/そでがらみ)
- 隠形術(忍術)
これらの武芸は挙げる人により、時代によっても移動がありますが、中でも特に必須とされたのが “弓馬槍剣(きゅうばそうけん)” で、最初に数えられる4種の武術です。しかし徐々に、弓と槍は泰平の世には無用と考えられ、剣術こそが侍が納めるべき必須の“表芸”と見做されました。
意外な事に馬術は何時の世でもその稽古は欠くべからざるものとされ、「士分以上の身なれば、幕府の直参諸藩の臣下いずれも馬術の嗜みを肝要とす」と言われます。このころになっても「いざ鎌倉」の精神は生きていたようで、何かの折に江戸城へ馳せ参じるための手段としての馬術は武士の必修でした。侍の子は幼いころから木馬に乗せられ馬術の稽古をしたとか。
実は武芸十八般には元ネタがあった
ところで十八般に挙げられた武術ですが、無理矢理感がありませんか? 剣や槍・馬術・水練はともかく、銑鋧術や含針術・綟術と来ては数合わせに引っ張って来てどうにかして18種類揃えたように思えます。実は18と言う数字には元ネタがあるのです。ご多聞に洩れず中国から伝わったもので、中国では十八般兵器とか十八般武芸と呼ばれています。刀・槍・弓などが挙げられますが、中国らしく矛や戟・斧・鞭などの名前も見えます。
『水滸伝』の巻九に列挙されている「矛鎚弓弩銃・・・」が始まりとも言いますし、数を揃えて数え上げるのが好きな中国の事ですから、こちらもどれだけ現実味のあるものかはわかりませんが。
勝海舟の父で御家人の勝小吉が自伝の『夢酔独言』で、自分も10歳の頃から武芸の稽古を始めたと述べています。馬術は一般的には幕府が管理している馬場で稽古するのが普通でしたが、小吉は馬術の師匠で上級旗本だった者の屋敷内の馬場で稽古させてもらったそうです。
武芸にも流行り廃りがあった
武士の表芸とされた剣術ですが、稽古スタイルは時代とともに変わります。尚武の気風が残っていた家光の頃までは、木刀や袋竹刀(ふくろしない)と言って1本の竹に切り込みを入れて何本かに割り、革袋をかぶせてしっかり縫い合わせたものを使いました。木刀を使った稽古では打ち込みはすべて寸止め・仮当てでしたが、手元が狂えば相手は大怪我を負います。袋竹刀だと力が分散されるのでそれほどの大事にはなりません。
このようにこの時代までは実戦に近い稽古が行われていました。しかし時代が下がり、五代将軍綱吉の頃元禄年間になると、流儀の基本の刀法、すなわち型を習得するのみで、実戦形式の打ち合いからは離れて行きます。
侍は習得した武芸が直接仕事に結びつく番方(武官)の職に就くのを“御番入(おばんいり)”と言って、誇りにしていました。それが江戸中期になると役方(文官)を望む侍が増え、事務職として召し出される“御役入(おやくいり)”が喜ばれるようになります。
次第に剣術の稽古は疎まれるようになり、幕臣の間でも“連(れん)”と言って俳諧などの文芸サークルが流行ります。“粋な江戸男” を目指す八丁堀同心は、小唄や三味線など音曲の手習いにせっせと通いました。
幕末、世間がキナ臭くなり息を吹き返した武芸十八般
泰平の世にのんびり暮らしていた侍たちの尻に火を付けたのが、浦和沖に姿を現したペリー提督率いる黒船です。幕府も慌てて幕臣の武芸奨励に乗り出し、官立の武道学校「講武所」を立ち上げます。安政2年(1855)、築地の堀田備中守の屋敷地を買い上げ、翌安政3年(1856)4月25日には畳にして1169畳と言う広さで開校します。
ここでは剣術・槍術・砲術・水練の稽古が、それぞれの教授陣を迎えて行われました。校長相当を“総裁”、教頭相当を“頭取”と呼びました。後に軍艦操練場が置かれて手狭になったために小川町に移転します。
講武所設立の目的は、弛んだ幕臣を鍛えなおすためと共に、人材の育成と登用にありました。旗本・御家人ばかりではなく、その子弟や部屋住みの者まで志のある者には門戸を広く開きます。厳しい入門審査や面倒な手続きも無く、入門して稽古に励み武芸の技量が優秀と認められれば、下級の旗本や御家人にも幕府の武官である番方に登用される道が開かれました。
世間がキナ臭くなり、昔のまっとうな仕官の道が戻って来たようですね。
おわりに
幕府直轄の武芸所が講武所なら、直轄の学問所は弘文館でした。こちらは泥縄の講武所とは違い、寛永年間には設立されています。【主な参考文献】
- 安藤優一郎/監修『歴史群像シリーズ 図説「侍」入門』(学研パブリッシング、2011年)
- 加来耕三/編『日本武術・武道大事典』(勉誠出版、2015年)
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