「八州廻り」思ってたんと違う! 関東取締出役の実像とは

 時代劇や時代小説の主役を張る、江戸幕府の役職のひとつ「八州廻り(はっしゅうまわり)」。小説などでは人情の機微も知り、弱きを助け、強きを挫き、御政道を正す、と良い役回りですが、実像はどうだったのでしょうか?

関八州、無法者の逃げ込み先

 江戸時代、関八州と呼ばれたのは、上総・下総・安房・常陸・武蔵・上野・下野・相模の関東八ヶ国の事です。江戸を取り巻く地域であり、幕府はその取締りには特に力を入れましたがなかなかに厄介な土地でした。

 ここは大名領のほか、幕府の直轄地である天領・旗本領・寺社領がモザイク状に入り組んでおり、旗本領で罪を犯した者が寺社領に逃げ込んでしまえば追跡するのに煩雑な手続きが必要で、事実上逃げ得になっていました。いきおい江戸を追われた無宿人や罪人の逃げ込み先となり、治安は悪化して行きます。

 中でも穴になったのは天領(江戸幕府の直接の支配地)です。天領に置かれた代官所は、管轄地域の広さのわりに取り締まる役人は数人からせいぜい20人程度と少なく、目も行き届かず、博徒や無宿人が増えて行くのに対応できません。さらに代官の禄が少なく、取り締まりより年貢の取り立てのみに熱心になり、袖の下など誘惑にも弱かったのです。

貨幣経済が農村にもたらした変化

 18世紀以降、商品流通の発達により、貨幣経済が農村部にも浸透して行きます。この変化は在郷商人であり、土地持ちでもある豪農を誕生させますが、その対極にこの変化に乗り切れずに没落していく多くの貧農を生み出しました。相次ぐ飢饉が追い打ちをかけ、ついには農地を手放して流民化していく者たちが出て来ます。

 また、この地域は五街道など交通の要衝が多く、街道沿いの宿場では人や物が行き交い歓楽地となり、銭が落ちます。その辺りを名立たる博徒の親分が仕切り、清水次郎長が勢力を張った東海道は富士川船運と伊勢湾海運が、笹川繁蔵や飯岡助五郎の上総・下総方面は江戸へ醤油や干鰯(ほしか)を運ぶ利根川船便が通っています。日光街道には国定忠治、甲州街道には黒駒勝三と博徒の顔見世のような有様です。これらの一家は離農した無宿人を吸い寄せ、富農・豪農相手の賭場も盛んに開かれます。

八州廻りの誕生

 これは放って置けないと文化2年(1805)、幕府は関東八州の無宿・博徒・盗賊全てを捕縛できる権限を持った、勘定奉行直属の “関東取締出役(かんとうとりしまりでやく)” いわゆる「八州廻り」を作ります。

 最初に発案したのは老中牧野備前守忠精で、風俗取り締まりも行う八州廻りは代官配下の手付(てつけ)・手代の中で8人から12人を選び、2人一組になって八州内を回ります。

 手付は御家人から、手代は土地を良く知っている町人・百姓などから選び、さらにその下に手足となって働く足軽や雑役を従え、合計で20人から30人になりました。

 しかしこれだけの人数で広い関東全域をカバーするなど無理な話です。そこで見回り先の村で仕事を滞りなく進め、なおかつ村の自衛力も強化するため、寛政期から文化期にかけて、近隣の村々数十をまとめて横の連帯組織 “寄場組合村” を作ります。中心となる村を“寄場”とし、名主など土地の有力者を寄場役人とし、仮の牢屋と白洲つまり当時の裁判所を置きました。それまで捕縛した者は代官陣屋まで連れて行きましたが、それでは追い付かなくなったのです。

犯罪予防に重点を置く幕府

「絶えず村々を見廻り無宿その他悪党どもを見つけ次第御領私領寺社領とも踏み込み召し取り」

 これは八州廻りに対しての『御取締被仰渡書』に書かれている言葉です。これだけの権限を与えられて悪党の捕縛の使命を負っているのですが、実際の八州廻りの活動は華々しい捕り物と共に、村人の教化・警告も重要な任務でした。無宿人を泊めないこと・賭博の禁止などを村長に言い渡し、その後村人を集めて警告書へ指印を押させます。

 これで治安が良くなれば結構なのですが、文書や言葉だけではどうにもならず、文化文政期に入ると村の治安はさらに悪化して行きます。帯刀した浪人が村を襲い、それに対して幕府は文化9年(1812)、帯刀して村を歩き回った者は重罪及び死罪に処す強硬措置に出ます。また文政10年(1827)には新たに3人を取締出役を監督する代官を任命し、組織の強化を図ります。

道案内と言う、二足のわらじ

 八州廻りが回ってくる村では、その土地の “道案内” が取り調べに協力しますが、これがクセモノでした。

 “道案内” とは十手を預かる末端の警吏のことで、多くは前科持ちの博徒や無宿人です。お上は村役人から選ぶように言いますが、現場では彼らの力がモノを言うので結局土地で睨みを利かせる親分が選ばれます。

 “二足の草鞋”ってやつですね。土地の力関係や事情を知っており情報も入りやすく、八州廻りにとっても便利だったのです。平安時代にも警察機構である検非違使が、“放免(ほうめん)”と呼ばれた元犯罪者を手足に使っていましたが同じことですね。悪人で悪人を押さえつける方法です。

 “道案内” は御用を仰せつかっているとの権限を振りかざし、利権をむさぼります。口述調書である口書きを都合の良いように書き換え、揉め事には十手をちらつかせて割り込み礼金をせしめます。事件をでっち上げて恐喝したり、目障りな人間に罪を擦り付けたりで、当然領民からは毛嫌いされ、同業の博徒たちからも軽蔑されますが、彼らは金さえ懐に入れば良かったのです。

腐敗する八州廻り

 そして八州廻りにもこれら道案内と結託しての不正が横行します。お上の御用を言い立てて賄賂や女の接待を要求、村役人や宿場の顔役と結託して事件の揉み消し・罪人の見逃しなどが蔓延します。天保10年(1839)八州廻り13人と火付盗賊改の5人が摘発され、主犯の堀口泰助が遠島、他の者は追放刑に処せられます。

 彼らが腐敗したのは低い報酬と低い身分、その割に与えられた権限の大きさに起因します。八州廻りは二十俵二人扶持で、道案内に至っては村から年に2回米一升を貰えるだけでした。八州廻りは年の暮れに江戸に戻り、七草が過ぎると見回りに出かけ、1年のほとんどを旅に費やさねばなりません。その間に50日も経てば江戸へ戻り見廻りの経緯書を提出します。

 真面目にお役目に励んだ者が多数でしょうが、報酬と身分と権限のアンバランスはいくつもの弊害を生みました。

おわりに

 「泣く子も黙る」と恐れられた八州廻り。しかし実際は精細な調書を作るなど煩雑な事務作業もこなさねばならず、剣術に優れた者よりは事務のベテランが選ばれました。


【主な参考文献】
  • 藤田覚『幕藩制改革の展開』山川出版社/2001年
  • 伊藤春奈『幕末ハードボイルド』原書房/2016年

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  この記事を書いた人
ichicokyt さん
Webライターの端っこに連なる者です。最初に興味を持ったのは書く事で、その対象が歴史でした。自然現象や動植物にも心惹かれますが、何と言っても人間の営みが一番興味深く思われます。

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