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【史跡散策】幸村の勇姿を求めて真田丸をいく・大阪三光神社と真田丸顕彰碑
- 2023/11/27
信濃国出身の戦国武将、真田幸村。本名は信繁(のぶしげ)で、昌幸(まさゆき)の次男。徳川家康を最後まで苦しめた英雄的な武将として語り継がれていることは今さらいうまでもない。
関ヶ原の戦いで家康軍に敗北し、昌幸と共に和歌山の九度山に幽閉された後も豊臣家との関係を深め、大坂冬の陣・夏の陣では豊臣軍の中心となって活躍した。大坂城の弱点である東南部に出丸の構築を発案、すなわち真田丸での戦いで豊臣方の軍師として徳川軍に大打撃を与えた。
大阪城の南、現在の大阪環状線・玉造駅からはおよそ200メートルあまり歩く。
境内が少し高くなったこの三光神社を含めて幸村の出城、真田丸があったのだろうか。だとするといちばん東の端にあたるかもしれない。
真田丸は、慶長19年(1614)の大坂冬の陣で真田幸村が徳川方を迎え撃つために築いたが、土塁や柵、堀で区画されたもので、出城ではなく曲輪(くるわ)と表現する文献もある。
本殿まではさらに高くなっている。神社下の道路をグランドラインとすると10メートル近く高低差がある。真田丸の名残りだろうか。この一帯から少し南へ行くと、真田山公園の方角へ向かって土地が下がり、道路にも勾配がついている。
上記は有名な真田の抜け穴。真田丸と大阪城を行き来できたという。信憑性はなんともいえないが、少なくともこのあたり一帯を真田幸村が駆けまわり、指揮を執っていたことは間違いない。
六文銭マークの鉄格子があり、抜け穴の中には入れないが、奥は見えないほどで、深さはありそうだ。
父の真田昌幸は大坂の陣を待たず、九度山で亡くなったため、真田幸村は個人としてはさほど実績のある武将として迎えられたわけではないが、打って出るという提案を大阪サイドが吞んでいれば、真田丸も必要なかったかもしれない。
結果的に夏の陣では南側へ打って出るしかなくなったが、死を覚悟した真田幸村の、家康ひとりをターゲットに討ち取ろうとした突撃は鬼気迫るものだっただろう。
放送中の大河ドラマ「どうする家康」はスローなストーリー展開で、あと10回あまりの放送回でまだ関ヶ原もはじまっていないが、さすがに大坂の陣を飛ばすことはないだろう。大阪冬の陣での真田丸の攻防戦も、夏の陣の野戦も、どのように描かれるかは楽しみのひとつだ。あるいは、逃げる徳川家康を追いかけ、駕籠に向かって長槍を投げる・・・などというシーンが見られるかもしれない。史実にとらわれない脚本家ならありえるかもと期待してしまう。
三光神社からすぐ西側にある高等学校のグラウンドサイドには、真田丸跡地として「真田丸顕彰碑」が作られている。
真田幸村の勇敢な活躍と華々しい最期は、のちの史料において「日本一の兵」(ひのもといちのつわもの)と評された。
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