【神奈川県】小田原城の歴史 謙信・信玄・秀吉の前に立ちはだかった巨大城郭
- 2023/09/29
現在は復興天守をはじめ、3つの城門が再建され、人気が高い歴史スポットとして親しまれていますが、それは江戸時代の姿を復刻したに過ぎません。関東の覇者として北条氏が君臨した時代、小田原城は日本一の巨大城郭として、上杉謙信・武田信玄、そして天下人・豊臣秀吉の前に立ちはだかりました。
今回は小田原城の歴史について、400年の歴史をひも解いてみたいと思います。
伊勢宗瑞による小田原城奪取
築城したのは誰?その時期は?
小田原城がいつ頃築かれたのか?不明な点は多いのですが、室町時代前期の歴史を記した『鎌倉大草紙』によれば、康正2年(1456)の記事にこのような一文が並んでいます。「大森安楽斎(頼春)父子は竹の下より起て、小田原の城をとり立、近郷を押領す」
とありますから、それが正しければ大森頼春が築城したことになるでしょうか。
ただし頼春は応永23年(1416)の時点で小田原の地を与えられていますから、それより以前に城が存在していても不思議ではありません。かつて北条時行を討伐するべく、鎌倉へ向かった足利尊氏も小田原の山で宿営した記録があるため、古くから小田原は要害として知られていたのでしょう。
大森氏時代の小田原城ですが、これまでは西側の八幡山丘陵上にあった「八幡山古郭」に位置したと考えられてきました。しかし発掘調査の結果、八幡山古廓から検出された遺構や遺物は、戦国時代末期のものと比定されています。
いっぽう、大森氏・伊勢宗瑞の時代まで遡る15世紀の遺構・遺物は、現在の本丸・二の丸一帯でしか検出されていないことから、初期の小田原城は領内の管理がしやすい高台~平地にあったものと考えられるのです。
戦国初期には伊勢宗瑞の手に渡る
さて、小田原城が歴史の表舞台に登場するのは、戦国武将のパイオニアとして知られる伊勢宗瑞(北条早雲)の時代からです。伊豆を領した宗瑞が大森氏と親しくなって油断させ、一気に城を奪ったエピソードが有名ですが、それは軍記物の虚構に過ぎません。当初、扇谷上杉氏に従っていた伊勢氏と大森氏ですが、敵対する山内上杉氏の攻勢をまともに受けていました。明応5年(1497)、宗瑞の弟・弥次郎や大森式部少輔らは合戦で敗れ、小田原城を捨てて逃げ去ったといいます。のちに小田原城へ復帰した式部少輔は、扇谷を裏切って山内へ鞍替えしたことで、伊勢宗瑞とは敵同士となりました。
しかし宗瑞が小田原城を奪った時期は確定しておらず、文亀元年(1501)に小田原の領有を示す文書が存在しているため、明応5年(1497)~明応9年(1500)頃だと推察されています。また相模地震の混乱に乗じて小田原城を奪取したという説もありますが、史料的根拠に乏しいことから今後の研究が待たれるところです。
氏綱の時代、小田原城が本拠となる
小田原城を手に入れた後も、宗瑞は伊豆の韮山城に本拠を置いたままでしたが、弟の弥次郎や嫡男・氏綱を小田原城代とした上で相模進出の拠点とします。そして永正15年(1518)、宗瑞の死によって家督を相続した氏綱が、小田原城を本拠地として位置付けました。ここから城と城下町の整備に力を注いだといいます。
大永3年(1523)、”北条”へ改姓した氏綱は、宗教勢力の庇護者として箱根権現や鶴岡八幡宮などを積極的に造営。また京都や奈良などから、多くの職能技術者を小田原へ招き入れて新しい技術や文化を導入していきます。
また小田原城を堅固に造り替える一方で、氏綱の目指した城下町は京都を模倣するものでした。町割は正方位に区画されており、『為和記』によれば家臣たちの屋敷が整然と並んでいたといいます。
近年の発掘調査では、小田原城の縄張りでは想定できない位置で大規模な堀が発見され、それが居館や住宅の跡だったことを示しているのです。
さらに氏綱は小田原用水を敷設し、町割に沿って水路をめぐらせました。これは日本初の上水道とされるもので、天文14年(1545)に小田原を訪れた連歌師・宗牧などは「水上は箱根の水海よりなどきき侍りて、驚ばかりなり」と驚きの声を上げています。それもそのはず、居館の池の水は箱根の芦ノ湖から引かれているというのですから。
そして3代目・北条氏康の時代、小田原はさらに発展を遂げました。天文20年(1551)年に小田原を訪ねた南禅寺の僧・東嶺智旺は、『明叔禄』の中でこう記しています。
「海水小田原の麓をめぐるなり。太守の塁、喬木森々、高館居麗、三方に大池あり。池水湛々、浅深量るべからざるなり」
小田原の城下町は海に面し、太守(氏康)の館は三方向を大池で囲まれていると表現しています。堅固な城と整然とした城下町を想像できますが、さらに東嶺智旺は「小路数万間、地一塵無し」と述べています。
つまり道のどこを歩いていても、塵一つ落ちていないほど清潔だと感嘆しているのです。戦国乱世といわれる世情にあって、小田原はまさしく日本一の文化都市だったのでしょう。
謙信・信玄の侵攻を受ける小田原城
氏康の頃、小田原城はさらに拡張を重ねて改修され、戦国大名の本拠に相応しい城となっています。また北条氏は敵対勢力を圧倒して武蔵から北関東へ支配圏を広げ、まさしく関東の雄として君臨しました。ところが氏康にとって最大のライバルが現れます。それが越後の長尾景虎(上杉謙信)です。
山内上杉憲政の懇願を受けた景虎は、永禄3年(1560)のうちに上州のほとんどを制圧。さらに武蔵の河越城まで進出します。いったん厩橋城で越年すると、ここから南下を開始しました。目指すは北条氏の本拠・小田原城です。関東各地の国衆はこぞって景虎のもとへ馳せ参じ、その兵力は10万余に及んだといいます。
明らかに劣勢となった氏康は小田原城での籠城戦に臨みました。北条氏に従ったのは上田・赤井・那須・千葉・臼井といった勢力ですが、必ずしも忠誠心が高かったわけではありません。日和見の態度に接した者も多かったようです。
氏康には生涯最大の危機が迫っていましたが、彼にとって頼みの綱は甲相駿三国同盟(= 武田・北条・今川の三者による同盟)しかありません。そこで甲斐の武田信玄に牽制を依頼するとともに、今川氏真にも援軍を要請して景虎の猛攻を凌ごうとしました。
氏康が繰りだした必死の作戦が功を奏したのか、武田・今川の出兵を知った景虎は、10日ほど小田原城を包囲しただけで撤退。その帰途に鶴岡八幡宮へ立ち寄り、そこで上杉氏の名跡と関東管領を継承したのです。
そして永禄11年(1568)のこと、ついに北条と武田の関係が破綻しました。なぜなら武田信玄が今川氏の駿河を攻めたことで、三国同盟が消滅したからです。
翌年、信濃の佐久から上州を経由した武田軍は、そこから進撃ルート上にある鉢形城や滝山城を攻撃。さらに南下して小田原城をうかがいました。
信玄はこの時の状況を、遠山直廉へ宛てた書状の中でこう述べています。
「今度関東へ出張、経数か所之敵城而、向于小田原及行、為始氏政館悉放火」
武田軍は二の丸蓮池門から本丸まで迫り、氏康の嫡男・氏政の館に放火したものと考えられます。城下の多くの地点で16世紀半ばの焼土層が見つかっていることから、おそらく景虎もしくは信玄が侵攻した際に、焼き討ちを受けたものでしょう。
ただし小田原城は当時から天下一の堅城として知られており、景虎にしても信玄にしても、本気で落とすつもりがなかったと指摘されています。つまり単なる示威行動に過ぎず、実力を見せつけるだけで十分だったのでしょう。
天下人・豊臣秀吉の前に立ちはだかった小田原城
時は流れて20年後、またしても小田原城は危機に見舞われました。天下人・豊臣秀吉との関係が徐々に悪化し、軍事衝突の可能性が出てきたからです。そこで北条氏政・氏直父子は小田原城の防御力を高めるべく、総構の構築に乗り出しました。これが天正15年(1587)の文書に見える「相府大普請」という大規模な普請で、周囲およそ9キロにわたって壮大な堀と土塁がめぐらされたといいます。
さて天正17年(1589)に名胡桃事件が起こると、さっそく秀吉は北条氏討伐の布告状を発し、翌年3月には20万以上の大軍が関東を目指しました。
いっぽう北条氏は総構を中心に守りを固めたと考えられます。総構をめぐる巨大な堀は、関東ローム層を60°の勾配で掘削したもので、その深さはゆうに10メートルを超えるものでした。また堀底は障子状に区画され、敵の横移動を不能とする構造(下の図参照)になっています。
ちなみに豊臣方が布陣する様子を描いた「小田原陣仕寄陣取図」を見てみると、城の中心部に2つの要害らしきものが描かれています。そこには「本城氏直」「本城氏政」とあり、位置を確認してみると氏直は本丸、そして氏政は八幡山古廓に所在していたことがわかるでしょう。
八幡山は「古い廓」と名が付くものの、実は氏政が豊臣軍来攻に備えて整備したもう一つの居城だったのです。つまりこの時期の小田原城には2つの本丸が存在したわけですね。
総構だけでなく、新たに要害を築くなど鉄壁の防御を固めた北条氏ですが、豊臣軍の陣容はかつての長尾・武田の比ではありません。氏直は実力の差を見せつけられて膝を屈し、ついに単独で開城に踏み切りました。
父・氏政も自らの死と引き換えに降伏することを承諾し、ここに100年に及んだ北条氏の支配は終わりを告げたのです。
近世城郭として生まれ変わった小田原城
小田原の役の直後、関東へ移った徳川家康は、家臣の大久保忠世を小田原4万石へ封じました。嫡男・忠隣の代でさらに加増を受けたものの、慶長19年(1614)になると改易処分となっています。ただし大久保氏が城主だった24年間で、小田原城は近世城郭へと変貌を遂げるのです。まず三の丸が整備されて一部が石積みとなり、そのほか縄張の広い範囲で改変や改修を受けています。また北条氏政が改修した八幡山は「御留山」として立ち入りが禁じられたそうです。さらに城下町も中世の様相を残しつつ改変が加えられ、武家町と町人地の棲み分けがなされるなど、近世的な都市整備が進められました。
大久保氏の改易以降は阿部正次が城主を務めたり、城代が置かれた小田原城ですが、寛永9年(1632)に入封したのが稲葉正勝です。3代将軍・徳川家光の側近だった人物で、春日局の子としても知られていますね。
しかし小田原城へ入った翌年、大地震によって城が大破し、程なくして正勝も急死してしまいます。跡を継いだ正則は小田原城の復旧に努めるのですが、ここで幕府から多額の援助金が拠出されました。工事費用には幕府公金4万5千両が割り当てられ、いっぽう稲葉氏が捻出した費用は1万7千両に過ぎません。
実は幕府にはそうせざるを得ない事情がありました。実は翌年に家光の上洛を控えており、将軍の宿泊施設とするべき小田原城の復旧が何より重要だったからです。また城の見た目もかなり重要でした。復旧・改修とはいえ、工事内容を見ると新設そのものです。まず天守や御殿・多聞櫓などが造営され、さらに本丸・二の丸・大手門には石垣が多用されて面目を一新させています。
それ以降も改修が加えられ、寛永20年(1643)には馬屋曲輪の二重櫓が新設され、8年後には藩主居館が改築。加えて米蔵が立て替えられるなど工事が続きました。そして寛文12年(1672)、稲葉正則は改修工事の総仕上げとして、小田原城の総石垣化を計画します。幕府の認可を得るとさっそく工事を進めていき、延宝3年(1675)には完成に至りました。
こうして近世城郭として生まれ変わった小田原城ですが、いっぽうで八幡山古廓・小峯曲輪・総構などの古い部分は事実上放棄しています。城はミニマムな規模となって現在の姿に近くなり、城下町は中世の風情を残しつつ発展を遂げていきました。
しかし江戸時代後期は小田原城にとって受難の時代でした。元禄12年(1703)に元禄地震が勃発。甚大な死傷者を出すとともに、天守・本丸御殿・二の丸御殿が相次いで焼失しています。また石垣や土塁も崩壊して壊滅的な被害を受けました。
さらに追い打ちを掛けたのが、宝永4年(1707)に起こった富士山の噴火です。降り積もる降灰で耕作不能地は広がり、領内は荒廃して庶民は塗炭の苦しみを味わいました。また藩財政に致命的なダメージを与えたことで、城の復旧もままならなくなります。そのため明治維新を迎えた時、廃城令を待たずして真っ先に政府へ廃城届を出したそうです。
おわりに
小田原城といえば現在の復興天守が知られていますが、本来の姿は決して小さいものではありません。それこそ城下町をそっくり取り込んだ総構の城でした。現在でも小峯御鐘台大堀切や、稲荷森などで壮大な堀の跡を見学することができます。いっぽう城下町へ目を移せば、相次ぐ天災や戦災で風景は一変しているものの、京を模した正方位に走る道路が数多く残されていますね。また氏綱・氏康がめぐらせた小田原用水もしっかり現存しています。今も河川や暗渠水路として利用されており、往時に想いを馳せることができるのです。
よく見れば、そこかしこに北条氏時代の面影が見られるのではないでしょうか。
補足:小田原城の略年表
年 | 出来事 |
---|---|
康正2年 (1456) | 大森頼春によって小田原城が築城される。 |
明応年間 (1497~1500) | 伊勢宗瑞が小田原城を奪取する。 |
永正15年 (1518) | 伊勢氏綱が家督を継承。本拠を小田原城へ移す。 |
大永3年 (1523) | 氏綱が「北条」へ改姓。 |
天文14年 (1545) | 連歌師・宗牧が小田原を訪れる。 |
天文20年 (1551) | 南禅寺の僧・東嶺智旺が小田原を訪れる。 |
永禄4年 (1561) | 長尾景虎(上杉謙信)が小田原へ侵攻。10万余で城を囲む。 |
永禄12年 (1569) | 武田信玄が小田原へ侵攻。城下が焼き討ちされる。 |
天正15年 (1587) | 相府大普請が始まり、総構が構築される。 |
天正18年 (1590) | 小田原の役によって北条氏が実質的に滅亡。同年、徳川家臣・大久保忠世が入封。 |
慶長19年 (1614) | 大久保忠隣が改易となる。 |
寛永9年 (1632) | 稲葉正勝が下野真岡から小田原へ移る。 |
寛永10年 (1633) | 駿豆相地震によって小田原城が大きな被害を受ける。翌年より復旧工事に着手。 |
延宝3年 (1675) | 小田原城近世化工事が完了。 |
元禄12年 (1703) | 元禄地震が勃発。天守・本丸御殿・二の丸御殿が焼失。 |
宝永3年 (1706) | 小田原城の修復が完成する。 |
宝永4年 (1707) | 富士山が噴火。降灰によって藩内に甚大な被害。 |
天明2年 (1782) | 武相大地震が起こり、天守が傾いて石垣が崩れる。 |
嘉永6年 (1853) | 嘉永地震が起こり、城の各所に被害を被る。 |
明治3年 (1870) | 小田原城が廃城となる。天守が払い下げられて解体される。 |
昭和34年 (1959) | 本丸・二の丸・蓮上院土塁が国の史跡に指定される。 |
昭和35年 (1960) | 復興天守が完成。 |
平成18年 (2006) | 日本100名城に選出される。 |
平成21年 (2009) | 馬出門が復元される。 |
【主な参考文献】
- 峰岸純夫ほか「関東の名城を歩く 南関東編」(吉川弘文館 2011年)
- 伊東潤「実録 戦国北条記」(エイチアンドアイ 2014年)
- 下山治久「戦国大名北条氏 合戦・外交・領国支配の実像」(有隣堂 2014年)
- 小田原城総合管理事務所「戦国大名北条氏の歴史 小田原開府五百年のあゆみ」(吉川弘文館 2019年)
- 中田正光「最後の戦国合戦 小田原の陣」(洋泉社 2016年)
- 下重清「シリーズ藩物語 小田原藩」(現代書館 2018年)
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