「小田原征伐(1590年)」天下統一への総仕上げ!難攻不落の小田原城、大攻囲戦の顛末

小田原征伐、小田原攻めのイメージイラスト
小田原征伐、小田原攻めのイメージイラスト
 戦国の世でのさまざまな出来事はやがて伝説となり、現代のわたしたちにもよく知られる故事として伝わっているものが数多くあります。なかには慣用句やことわざのように使われる言葉もありますが、現代社会のビジネスシーンでも「小田原評定(おだわらひょうじょう)」というものをよく耳にしないでしょうか。これは会議が長引くばかりでまったく結論が出ないことを表すものですが、その語源は神奈川県の「小田原」にあります。

 小田原はいわずとしれた「後北条氏(小田原北条氏)」の本拠地であり、下剋上によって戦国に覇を唱えた「北条早雲」以来、五代にわたって勢力を誇ってきた関東の一大武門そのものを示す地名でもあります。

 そんな後北条氏は、秀吉の天下統一事業の最終段階に立ちふさがった勢力でした。この小田原攻略をもって天下統一の成立と解釈することも多く、戦国時代の大きな画期のひとつとして認識されています。

 「小田原評定」とはまさしく、そんな秀吉による「小田原征伐(おだわらせいばつ)」によって生まれた言葉です。今回は有名な慣用句の元となった、天正18年(1590)の小田原征伐の流れを概観してみましょう!

※本コラムでは小田原の北条氏を便宜上「後北条氏」と呼称し、人物名には「北条」を使用しています。


合戦の背景

秀吉に臣従しなかった後北条氏

 秀吉は天正13年(1585)の関白任官、翌年の「豊臣」賜姓に太政大臣就任、そして天正15年(1587)の九州平定と目まぐるしく権益を掌中におさめてきました。すでに関東以西全域を事実上の統治下に置き、残るは小田原の後北条氏を中心とする関東・東北の勢力のみとなりました。

 関白としての秀吉は名目上、朝廷権威を背景とした号令権限を有したとされ、天正14年(1586)に聚楽第への後陽成天皇行幸を実現させた際には諸国大名に列席命令を発布しています。小田原の北条氏政・氏直親子にもこの命令が通達されましたが、この時には上洛命令に従いませんでした。

 のちに後北条氏と姻戚関係にあった徳川家康の仲介により、氏直の叔父「北条氏規」が上洛して領地紛争の調停と引き換えに氏政か氏直が改めて上洛するという約束を取り付けます。しかしこの領地紛争の裁定をめぐる動きが火種となり、大規模な小田原侵攻を招く結果となったのです。

開戦の口実となった事件

 後北条氏がこの時に対峙していたのは、上州(現在の群馬県あたり)の「真田昌幸」でした。豊臣氏に臣従していた昌幸は沼田城(現在の群馬県沼田市)を拠点としており、上州領有を企図していた後北条氏と紛争状態にありました。

 天正17年(1589)、秀吉はこの問題の裁定に立ち、真田昌幸には真田伝来の地である名胡桃城(現在の群馬県利根郡)と沼田領の3分の1を、後北条氏には沼田城およびその領の3分の2を割くことを定めました。


 しかし同年10月下旬、北条氏直配下の軍が秀吉の裁定を覆す形で名胡桃城へと侵攻したという報を受け、いわゆる「惣無事令」違反として11月24日付で氏直討伐の朱印状を発布するに至りました。

 この事件に対し、後北条氏は弁明したものの従順な態度はとらず、秀吉としても武力侵攻の機会と捉えた節が指摘されています。

 秀吉は同朱印状において翌春の出陣を各国諸大名に命じ、また北条氏直も後北条領内の諸勢力に翌年1月15日の小田原参陣を呼びかけました。後北条氏と姻戚関係にあった徳川氏の動向も注目されましたが、家康は秀吉の傘下として参戦する道を選びました。


合戦の経過・結果

後北条氏の籠城戦と豊臣軍の東進

 豊臣勢からの侵攻に対し、後北条氏がとった基本的な戦術は籠城戦でした。小田原城は天下の堅城として知られ、歴史的に上杉謙信・武田信玄の攻城でも落ちることはありませんでした。このような実績から、後北条氏は小田原城の防御能力に絶対的な自信を持っていたといえるかもしれません。

 対して秀吉は、大軍を動員しての完全包囲を企図しました。小田原城は海にも面しているため、水軍戦力も投入しての大規模作戦でした。天正18年(1590)2月初めより豊臣方の諸将が続々と陣を発し、集結した水軍戦力の船舶数は1000を超えていました。

 3月1日、秀吉は後陽成天皇から節刀を賜り、聚楽第を発して東征の途につきました。この「節刀を賜る」というのは、朝廷に敵対する勢力を討伐するために派遣する将軍に対し、その証として天皇が刀を授けることを意味しています。

 この時には後北条氏討伐の詔勅が出たわけではなく、多分にパフォーマンス的な部分も否めませんが、正式な朝廷権威を全国に知らしめる機会を秀吉は逃さなかったといえるでしょう。

 以下、豊臣・後北条両軍の主要な将と兵力の概要を列記します。

豊臣方

  • 主力部隊……豊臣氏・徳川氏・織田氏・蒲生氏・黒田氏・宇喜多氏・細川氏・小早川氏・吉川氏・宮部氏・堀氏・池田氏・立花氏・浅野氏・石田氏・長束氏・大谷氏・石川氏・増田氏・高山氏・筒井氏・蜂須賀氏・大友氏・加藤(清正)氏・福島氏・長谷川氏・滝川氏・丹羽氏・金森氏・京極氏(総勢約17万)
  • 関東勢力……佐竹氏・宇都宮氏・結城氏・多賀谷氏・里見氏(総勢約1万8千)
  • 北方部隊……前田氏・上杉氏・真田氏・小笠原氏・依田(松平)氏・毛利氏・佐野氏(総勢約3万5千)
  • 水軍戦力……毛利水軍・長宗我部氏・加藤(嘉明)氏・九鬼氏・脇坂氏・菅氏(総勢約1万)

計……約23万3千

後北条方

  • 小田原城守備隊……後北条氏・太田氏・千葉氏・佐野氏・伊勢氏・成田氏・松田氏・笠原氏・大道寺氏・上田氏・南條氏・山角氏・鈴木氏・伊東氏・梶原氏・由良氏・長尾氏・清水氏・壬生氏・吉良氏・酒井氏・内藤氏・和田氏・小幡氏・三浦氏・潮田氏・富岡氏・高城氏・相馬氏・高井氏・小笠原氏・佐久間氏・大胡氏・井田氏・白倉氏
  • 周辺諸城守備隊……後北条氏・松田氏・成田氏・江川氏・大道寺氏・垪和氏・清水氏

計……約5万

豊臣軍による防衛線突破と、小田原城攻囲作戦

 後北条方はその主力のほとんどを本城である小田原城に結集し、精鋭兵力を割いたのは重要な数か所の支城防衛線のみでした。小田原城の周囲にはおびただしい支城群がありましたが、主力を引き抜いて小田原城の防備に配したため、支城の守備兵たちには戦闘員とすら呼べないような人員が多くあてられたといいます。

 事実上の捨て城として扱われたともいえますが、家中の一部からは積極的に打って出て、ゲリラ戦で豊臣方の侵攻を食い止めるべきという主張もありました。しかし、彼我の戦力差を考えると後北条方にとっては兵力を分散させるのは得策ではないという判断が働いたものでしょう。

 次に豊臣方の主力部隊の動きもみていきます。

 豊臣方は春頃には現在の静岡県を流れる黄瀬川周辺に各部隊が集結、秀吉自身は3月27日に三枚橋城(現在の静岡県沼津市)に着陣しました。29日に小田原城に向けて進撃を開始、後北条方の精鋭が守備する防衛線である山中城・韮山城・下田城などの攻略に乗り出します。

 これら支城への攻城戦の戦闘詳報は割愛しますが、以下三か所の攻城についてその概要のみを記しましょう。

3月29日:山中城(現在の静岡県三島市)

  • 豊臣方……主将:豊臣秀次、兵力:約6万8千
  • 後北条方…主将:松田康長、兵力:約4千

3月29~6月24日:韮山城(現在の静岡県伊豆の国市)


  • 豊臣方……主将:織田信雄、兵力:約4万4千
  • 後北条方…主将:北条氏規、兵力:約4千4百

4月1~23日:下田城(現在の静岡県下田市)

  • 豊臣方……主将:豊臣秀長、兵力(水軍):約2万、軍船1000艘
  • 後北条方…主将:清水康秀、兵力:約600

 これらはいずれも小田原城へと至る重要な防御線を形成し、その立地特性から豊臣方も甚大な被害をこうむりながら全力での攻略を企図したことがうかがえます。

 特に下田城は海からの上陸を阻むための防衛ラインであり、後北条水軍の生命線でもありました。上記の城を含む後北条方の諸城を攻略していった豊臣方は、ついに小田原城へと殺到したのです。

小田原征伐の主な城。赤マーカーは北条方、青は秀吉方。拡大すると城名が表示されます。

※参考:北条方の主な城の戦闘開始と開城時期(エリア別)
北条方の城開城時期攻城者備考
【伊豆】山中城3/29主力部隊(豊臣秀次) 
【伊豆】韮山城3/29~6/24主力部隊(織田信雄)開城
【伊豆】下田城4/1~末頃水軍戦力開城
【相模】足柄城4/1頃 不戦開城
【相模】小田原城4/2~7/5 開城
【相模】玉縄城4/21主力部隊(徳川)不戦開城
【相模】津久井城6/24以前主力部隊(徳川) 
【上野】松井田城3/28~4/20北方部隊(前田、上杉、真田ら)開城
【上野】国峰城4/17攻城者は北方部隊(上杉) 
【上野】厩橋城4/19北方部隊(前田)開城
【上野】箕輪城4/24北方部隊(前田、真田) 
【上野】館林城6/初旬主力部隊(石田、真田)不戦開城
【下野】壬生城4/23関東勢力(佐竹) 
【下野】鹿沼城4/23関東勢力(佐竹) 
【武蔵】松山城5/初旬北方部隊(前田、上杉)不戦開城
【武蔵】河越城5/初旬北方部隊(前田、上杉)不戦開城
【武蔵】鉢形城5/14~6/14北方部隊(前田、上杉、真田ら)開城
【武蔵】岩槻城5/19~22主力部隊(浅野)開城
【武蔵】忍城6/5~7/17主力部隊(石田)開城
【武蔵】八王子城6/23北方部隊(前田、上杉) 
【武蔵】江戸城4/27主力部隊(徳川)不戦開城
【下総】臼井城5/18頃主力部隊(徳川) 
【下総】佐倉城5/18頃主力部隊(徳川) 

 なお、上記一覧にあるように豊臣軍の北方部隊や関東勢力も攻城に動いていますが、詳細は割愛します。

小田原城攻囲

 4月1日、箱根山に本陣を置いた秀吉本隊は、次いで6日には湯本早雲寺に陣を移転。さらに石垣山(現在の神奈川県小田原市)へと進出し、ここに大本営を構築しました。

 この石垣山城は80日あまりもの日数をかけて築城されたものですが、工事は秘密裏に行い、完成と同時に周囲の木を伐採してその姿を現したため、あたかも一夜にしてできたかのような驚きとプレッシャーを北条方に与えたといいます。

石垣山城からの景色(小田原城)
石垣山城からみた小田原城

 その間にも豊臣方各方面隊はそれぞれの地域で戦闘を継続しており、成田氏の忍城(おしじょう:現在の埼玉県行田市)などは最後まで陥落しなかったことで知られています。

 小田原本城での戦闘は小規模なものが数度あったのみとされ、6月22日の井伊直政隊による篠曲輪占拠や蓑曲輪への夜襲、25日夜半の捨曲輪攻防戦、7月2日の蒲生氏郷と広沢重信の一騎打ちなどが伝わっています。

 豊臣方が殲滅戦を行わなかったことからもわかるように、秀吉の攻略方針はあくまで持久戦でした。補給線を遮断され孤立した小田原城に継戦能力がないことを読み切っていた秀吉は、構築した石垣山城に側室の淀殿を呼び寄せ、傘下の大名たちにも家族を戦陣に招くことを許しました。

 また、茶会を開くなど余裕と風格をあえて見せつけるかのようなパフォーマンスも行い、王者としての君臨を印象付ける意図を感じさせます。

 自軍の兵糧などの補給事情は潤沢であり、これは小早川隆景による意見具申を採用してのことともされています。この時の小田原城内では、決戦派と和睦派が意見を対立させて一向に方針が定まりませんでした。

 冒頭の「小田原評定」はこの状況から生まれた故事・慣用句ですが、やがて城内は疲弊の度合いを色濃くしていき、5月下旬ころからはしきりに降伏勧告が展開されるようになりました。

伊達政宗の豊臣臣従と小田原開城

 小田原城防衛線のひとつであった韮山城は頑強に抵抗を続けていましたが、徳川家康は城将の北条氏規に降伏を勧める使者を送り、休戦した氏規が6月24日以降には自ら小田原城に入って和睦を説きました。各戦闘地域でも降伏を促す交渉が行われており、後北条から豊臣への内応や離反が続出します。

 この動きに先立って、後北条氏と同盟関係にあった奥州の「伊達政宗」が、5月9日に秀吉の参陣要請に応じて進発していました。特に関東以北の勢力にとって、秀吉の小田原参陣要請(命令)は一族の命運を決する試金石でもありました。

 後北条との同盟を破棄する形で豊臣についた政宗は、遅参を謝罪するため死装束で秀吉に謁見したという伝説は有名です。

 小田原城を四方から包囲した豊臣方の布陣は、以下の通りです。

  • 石垣山城(一夜城)本陣……豊臣秀吉
  • 西方(水之尾口・大窪口・早川口方面)……宇喜田秀家・織田信包・細川忠興・池田輝政・堀秀政・長谷川秀一・丹羽長重・木村重茲
  • 北方(荻窪口・久野口方面)……山内一豊・豊臣秀次・堀尾吉晴・一柳直盛・中村一氏・羽柴秀勝・蒲生氏郷・織田信雄
  • 東方(井細田口・渋取口・酒匂口方面)……酒井忠次・徳川家康・榊原康政・大久保忠世
  • 相模湾海上戦力(水軍)……羽柴・九鬼・長宗我部・毛利・宇喜多各船隊

小田原城包囲の図。(出所:小田原市HPより引用)
小田原城包囲の図。(出典:小田原市HPより)

 断続的に後北条勢への降伏勧告は繰り返されており、豊臣方は長期間の籠城で心身ともに疲弊していた小田原城内へさらなるプレッシャーをかけるため、夜間に威嚇射撃などを繰り返したともいわれています。

 同年7月5日、ついに北条氏直と太田氏房は豊臣方の黒田官兵衛と滝川雄利を通じて降伏を表明。氏直は自身の切腹と引き換えに、城兵らの助命を嘆願したと伝わっています。

戦後

 戦国の世のならいでは、敗北した城将をその責を負って切腹するのが常でしたが、秀吉は北条氏直を助命しました。

 四国攻めや九州攻めの折の長宗我部氏・島津氏に対する処遇もそうであったように、この頃の秀吉は敵の総大将の命を奪わず、自身の傘下に組み込むことを前提とした寛大な処置を行っているように見受けられます。ただし小田原攻めではその責として、北条氏政・北条氏照・松田憲秀・大道寺正繁の四名に切腹を命じています。

 助命された北条氏直は高野山への蟄居を命じられ、小田原の後北条氏は滅亡しますが、のちに河内に1万石を与えられることになります。秀吉は7月13日に小田原城に入城。同日に徳川家康の関東転封が発表され、後北条氏の旧領はほぼ徳川氏に引き継がれることとなりました。

 この後には東北諸勢力の領地再配分を決定する奥州仕置が実施されますが、小田原攻略をもって秀吉が天下統一を果たしたとされるのは冒頭で述べた通りです。

おわりに

 秀吉が小田原を攻めた際には、朝廷権威を背景にしたいわば「大義」を掲げていました。それゆえに、全国に発せられた参陣命令に従うか否かというのは、諸勢力にとって今後の命運を握る重大な選択だったことがうかがえます。

 事実、参陣に応じなかった勢力はその後討伐対象となっており、遅れてでも応召した者は豊臣傘下として命脈を保っています。戦乱の火種そのものはまだしばらく消えないものの、戦国の群雄割拠に一つの区切りをつけた大きな出来事だったといえるでしょう。



【主な参考文献】
  • 『日本歴史地名体系』(ジャパンナレッジ版) 平凡社
  • 『国史大辞典』(ジャパンナレッジ版) 吉川弘文館
  • 『ビジュアルワイド図解 日本の合戦』 2014 西東社
  • 小和田 哲男『戦争の日本史15 秀吉の天下統一戦争』 2006 吉川弘文館
  • 『【決定版】図説・戦国合戦集』 2001 学習研究社
  • 『歴史群像シリーズ 51 戦国合戦大全 下巻 天下一統と三英傑の偉業』 1997 学習研究社
  • 『歴史群像シリーズ 45 豊臣秀吉 天下平定への智と謀』1996 学習研究社

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  この記事を書いた人
帯刀コロク さん
古代史・戦国史・幕末史を得意とし、武道・武術の経験から刀剣解説や幕末の剣術についての考察記事を中心に執筆。 全国の史跡を訪ねることも多いため、歴史を題材にした旅行記事も書く。 「帯刀古禄」名義で歴史小説、「三條すずしろ」名義でWEB小説をそれぞれ執筆。 活動記録や記事を公開した「すずしろブログ」を ...

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