【岐阜県】松倉城の歴史 7mを超える石垣の遺構が残っている?飛騨国の難攻不落の城
- 2022/12/06
戦国時代に飛騨国を統一した三木自綱(姉小路頼綱)が居城として利用したいたのが、現在の岐阜県高山市標高856.7mという松倉山山頂に築かれた松倉城です。築城後わずか6年で落とされ、10年間という短い寿命で廃城となった松倉城。今回はそんな松倉城の歴史についてお伝えしていきます。
飛騨国統一のため、築城される
三木自綱が天正7年(1579)に松倉城を築いた頃、飛騨国で大きな勢力だったのは高原諏訪城を拠点としていた江馬氏でした。江馬氏は甲斐国の武田氏の援助を受けて国司の姉小路氏を滅ぼし、北飛騨を制圧します。松倉城は江馬氏に対抗し、飛騨国統一のために築城したのです。
松倉山は交通の要衝となる高山盆地にあり、四方の街道を一望できます。自綱は織田信長の勢力に接近し、親族関係を結び、拠点をこれまでの桜洞城から松倉城に移して飛騨国統一の機会をうかがいました。
松倉山山頂には本丸の他、その東側に二の丸、南側に三の丸、その真ん中に南中間櫓が建てられ、出丸は本丸の西側およそ1km先の山腹です。元禄検地水帳に町屋敷の記録があることから、本丸の北側には城下町があったと考えられます。自綱は冬の時期は桜洞城、夏の時期はこの松倉城を居城としたことから、桜洞城を冬城、松倉城を冬城と呼んでいました。
三木氏の飛騨国統一
天正10年(1582)に本能寺の変が起こると、この混乱を突いて江馬氏が侵攻してきました。当主の江馬輝盛は小島城を落とすことができず、自綱は自ら兵を率いて出撃し、輝盛を撃退。その勢いで江馬氏の領地をすべて制圧し、江馬氏を飛騨国から追放することに成功しました。さらに自綱は実弟の鍋山顕綱を謀反の罪で滅ぼし、天正11年(1583)には飛騨国を統一します。松倉城が建てられてわずか4年で自綱は本当に飛騨国制圧を成し遂げたのです。
飛騨国を統一した自綱はすぐに家督を二男の姉小路秀綱に譲り、秀綱は鍋山城から松倉城に入りました。自綱は松倉城の北方に位置する高堂城に移っています。ただし実権は自綱が握ったままで、三木氏は豊臣秀吉に敵対する越前国の柴田勝家や越中国の佐々成政と同盟を結びました。松倉城が激戦を経験することになるのは、この秀吉との戦いとなります。
松倉城の廃城
柴田勝家が賤ヶ岳の戦いの敗れて滅ぶと、三木氏は劣勢を強いられます。秀吉は天正13年(1585)、越前国大野城の金森長近に三木氏討伐を命じ、長近は息子の金森可重と南北に分かれて飛騨国へ侵攻しました。その先導役には、自綱に滅ぼされた江馬氏や鍋山氏が選ばれています。自綱は味方の成政からの援軍も期待できない状態でしたが、田中城で敵を迎え撃つべく籠城。その際に難攻不落の松倉城は家督を継いでいた秀綱が守りました。秀綱は敵方の降伏勧告にまったく耳を傾けず、徹底抗戦します。堅牢強固な松倉城の攻略に金森勢も手こずりましたが、調略が成功し、秀綱家臣の藤瀬進蔵が寝返り深夜の城内に放火。この混乱で秀綱は籠城を諦め、松倉城を捨てる決心をします。
すでに出丸も攻略され占拠されていましたが、秀綱は妻子を連れて城を落ち延びることに成功しています。こうして8月6日、松倉城は金森勢に落とされました。自綱は最後に高堂城に籠もって抵抗を続けましたが、最終的に降伏し、京に送られ、三木氏による飛騨国支配はわずか2年で終了となってしまうのです。
松倉城を落ち延びた秀綱はその道筋で落ち武者狩りに遭って討たれています。ただし、詳細な内容を記した史料が残されていませんので、落城の一部始終は後の世に書かれた軍記物『飛騨国治乱記』に記されたものです。調略自体が脚色された話だった可能性もあります。
三木氏を追い出した長近は統治後に松倉城の修復を行っており、現存する石垣はこの際に増築されたものではないかという説があります。こちらについての史料もないため、三木氏が築いたものか、金森氏が築いたものか論争が続いています。
しかし長近は、短期間で三木氏を撃退し飛騨国を制圧して松倉城の修復工事に着手したものの、松倉城を拠点にすることは考えず、当初は鍋山城を居城とし、さらに天神山の城跡に高山城を築くことを決めたため、天正16年(1588)に松倉城は廃城となりました。
江戸期においても松倉城跡は完全に放棄された状態で、廃城後長い年月が過ぎ、現存する遺構は、本丸内曲輪と西・南の外曲輪の石垣、二の丸の東・南の石垣、三の丸の西・南の石垣だけです。ただし7mを超え、石垣も残されており、その堅牢さを後世に伝えています。
昭和31年(1957)に岐阜県の重要文化財に指定されました。現在、本格的調査が行われており、市の関係者が国史跡の指定に向けて礎石や虎口の調査・推定に着手しています。また、本丸跡に向けた登山道が整備されており、山頂から北アルプスを一望できる絶景スポットです。
おわりに
金森父子に攻められた際に、調略が成功しなければ、そう易々と攻略されることはなかったでしょう。堅牢さはかなり高かったと予想されますので、味方の寝返りがなければ長い期間持ちこたえることができたのではないでしょうか。ただし、援軍が期待できないほど追い詰められていたため、秀吉の勢力によってどちらにせよ攻略されたのは間違いありません。三木氏の飛騨国統一に一役買った松倉城。その寿命はわずか10年と短いものでした。本丸などは再建されていませんが、登山道を登り、7mを超える石垣などを直接見て、堅牢な山城を体感してみるのもいいのではないでしょうか。
補足:飛騨松倉城の略年表
年 | 出来事 |
---|---|
天正7年 (1579) | 三木自綱が築城し、居城を桜洞城から移す |
天正10年 (1582) | 江馬氏を倒し、翌年までに飛騨国を統一する |
天正13年 (1585) | 金森長近が飛騨に攻め込み松倉城を落とし、三木氏を滅ぼす |
天正16年 (1588) | 長近が高山城を新たに築城することになり、松倉城は廃城 |
昭和31年 (1956) | 岐阜県の重要文化財に指定される |
【主な参考文献】
- 高山市HP
- 岐阜新聞Web「山城を攻めろ 松倉城 謎に満ちた戦国飛騨終焉の城」
- コトバンク
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