【兵庫県】竹田城の歴史 天空の城は鉄壁の山岳要塞だった!?
- 2022/12/14
兵庫県朝来市にある竹田城跡は近年「天空の城」として広く知られ、2014年度のピーク時には58万人もの観光客が訪れました。現在は訪城者数こそ落ち着いているものの、まるでマチュピチュのような素晴らしい遺構は貴重な歴史遺産だと言えるでしょう。
そんな竹田城の歴史をひも解きつつ、どんなところが凄い城だったのか?その秘密と謎に迫ってみたいと思います。
そんな竹田城の歴史をひも解きつつ、どんなところが凄い城だったのか?その秘密と謎に迫ってみたいと思います。
最初に築城したのは山名宗全ではなかった!?
山陰道と但馬街道の結節点に位置するのが竹田城です。また但馬・播磨・丹波の国境にあることから、古くから交通の要衝だったことがうかがえます。通説によれば嘉吉3年(1443)、山陰・山陽10ヶ国の守護となった山名宗全(持豊)によって築かれ、太田垣光景が初代城主に任じられたと長く信じられてきました。ところが「山名宗全築城説」も「太田垣光景城主説」も、北垣聡一郎氏(石川県金沢城調査研究所名誉所長)ら研究者によって否定されています。
ではいったい誰が最初に竹田城を築城したのでしょう?
初めて文献に太田垣氏が出てくるのは、延文3年(1358)における『祐徳寺文書』の記録ですが、太田垣光善という人物が田を寄進したと書かれています。そして光善の子・通泰が山名時煕のもとで明徳の乱を戦い、その戦功によって備後守護代に取り立てられました。
また、応永7年(1400)に時煕が創建した大明寺(朝来市生野)の禁令に通泰の名があることから、すでに朝来郡一円の領有権は太田垣氏にあったことがうかがえます。
太田垣氏はその後、通泰から通光・誠朝へと続いていきますが、やがて隣国・播磨において赤松満祐が反乱を起こしました。これが嘉吉元年(1441)に起こった「嘉吉の乱」です。
山名宗全は幕府から赤松追討の命を受け、但馬から播磨へ進軍。城山城を攻めて満祐を討伐しました。そして同年10月に播磨守護として入国し、太田垣誠朝を守護代に任じたのです。竹田城はこの時期に太田垣氏によって築城され、朝来郡一帯を治める誠朝が初代城主になったのでしょう。(諸説あり)
太田垣氏の全盛期と竹田城
さて、太田垣氏は竹田城を本拠に定め、たびたび赤松氏残党を討伐するべく出陣しています。つまり竹田城は但馬の国境を守り、播磨を平定するための出撃拠点としたわけです。こうして備前と播磨の守護代を兼ねた太田垣氏は山名の宿老として頭角を現し、応仁の乱でも多くの兵を率いて出陣しました。ところが竹田城が手薄になったことで丹波から細川軍の進攻を招きます。城を預かっていた太田垣新兵衛は少数ながら敵に奇襲を仕掛け、見事にこれを打ち破って細川軍を敗走させました。
その後も太田垣氏は「山名四天王」と呼ばれ、山名氏を支える立場にありましたが、下剋上の風潮は但馬にも浸透してきます。乱世にあって守護領国制が崩壊していく中、もちろん山名氏も例外ではありません。徐々に実力を失って没落していきました。但馬では太田垣氏が中心となって守護・山名致豊から離反し、代わって致豊の弟・誠豊を擁立。その実権を奪い取っています。
さて当時の竹田城がどのようなものだったのか?ほとんど詳しいことはわかっていません。しかし現在の竹田城から北東へ伸びる尾根に「観音寺山城」という砦があり、これが太田垣時代の遺構だとされています。
土を削って平らにした曲輪や切岸、あるいは堀切・竪堀など、中世山城の特徴がうかがえます。おそらく当時の竹田城も典型的な土造りの城だったのでしょう。
羽柴軍の進攻と竹田城の大改修
織田信長が上洛して畿内の実権を握ると、その影響は但馬に及んできます。時の当主・太田垣輝延は将軍・足利義昭の命で臣従するも、その後、義昭が追放されたことで大きな危機感を抱きました。そこで毛利氏と盟約を結んで対抗するものの、ついに羽柴軍による進攻を迎えてしまうのです。『信長公記』によると、天正5年(1577)11月、羽柴秀長を総大将とする大軍が但馬へ攻めてきました。
「直に但馬国へ相働き、先山口岩州の城を攻落し、此競に小田垣(太田垣輝延)盾籠る竹田へ取懸り、是又退散、則、普請申付け、木下小一郎(羽柴秀長)城代として入れ置かれ候」
輝延は城を落ち、すぐに改修された竹田城は秀長による但馬攻めの拠点となったのです。そして翌年5月までに但馬は平定され、秀長は有子山城主に、そして竹田城には桑山重晴が城主に任命されています。さらに天正13年(1583)、天下を手中にしつつあった羽柴秀吉は、赤松広秀に2万石を与えて竹田城主に任じました。
広秀は17年にわたって城主を務めますが、竹田城は文禄元年(1592)~慶長5年(1600)にかけて大改修されています。縄張は総石垣造りとされ、10メートルを超える高石垣が威容を誇りました。さらに広大な枡形や横矢、平面防御だけでなく高低差を生かした立面防御を駆使するなど、当時としては最新の防御技術が詰め込まれていたようです。まさに鉄壁の山岳要塞が姿を現したわけですね。
また特筆すべきは、竹田城から出土する瓦が、姫路城三の丸から発掘された瓦と同じだということ。つまり竹田城の普請・作事は、姫路城主の支援によって行われた可能性が高いのです。赤松広秀は2万石の小大名に過ぎませんから、どう逆立ちしてもあれだけの山岳要塞を築くことはできません。姫路城主は秀吉~秀長~木下家定と変遷していますが、いずれにしても豊臣氏のバックアップがあったことは疑いないでしょう。
秀吉がなぜ竹田城の改修を支援しなければならなかったのか?その答えは南へ20キロに位置する生野銀山の存在にあります。この銀山は豊臣氏の貴重な収入源ですから、何としても防衛する必要があったのでしょう。
赤松広秀の死と竹田城の終焉
慶長5年(1600)、西軍に属した広秀は、細川幽斎が守る丹後田辺城の攻略に加わりました。ところが関ヶ原の戦いで東軍が勝利したことから進退窮まり、鹿野城主・亀井茲矩の勧めもあって東軍へ寝返ります。そして鳥取城攻めに加勢したまでは良かったのですが、城下を焼き討ちにしたことから徳川家康の不興を買ってしまうのです。すべての責任を押し付けられたという説もありますが、ついに広秀は切腹を言い渡されました。広秀の死とともに竹田城も廃城となり、朝来郡一帯は幕府直轄領(天領)となります。また、元和元年(1615)には生野代官所が設置され、長く生野奉行の支配下に置かれました。
それから長い時を経て、昭和14年(1939)に古城山は竹田町役場の所有となり、4年後には国史跡に指定。さらに平成21年(2009)に改めて国史跡の追加指定を受けています。また平成28年(2016)に保存・修復作業が完了したことに伴い、本丸・天守台を含む全面公開が再開されました。
おわりに
昭和50年頃までは竹田城に立派な石垣があることから、山名宗全が築いた城だと考えられてきました。しかし詳細な調査や発掘が進むにつれ、曲輪や石垣などが豊臣期の改修によるものと判明しています。通説とは新しい歴史研究によって覆されるもの。それが歴史の面白い部分なのかも知れません。竹田城跡に佇めば、眼下には風情ある町並みが広がっています。そんな絶景を眺めながら、遠い戦国時代に想いを馳せてみたいですよね。
補足:竹田城の略年表
年 | 出来事 |
---|---|
嘉吉3年 (1443)頃 | 太田垣氏が播磨守護代となり、竹田城を築城。太田垣誠朝が初代城主となる。(諸説あり) |
応仁2年 (1468) | 細川軍が朝来郡へ進攻。太田垣新兵衛がこれを夜久野にて迎え撃つ。 |
天文11年 (1542) | 生野にて銀の採鉱が本格化。山名祐豊が生野銀山を支配する。 |
弘治2年 (1556) | 太田垣氏が山名祐豊から銀山の領有権を奪い取る。 |
天正3年 (1575) | 丹波黒井城主・赤井直正、竹田・有子山の両城を急襲し、これを奪取する。 |
天正5年 (1577) | 羽柴秀長による但馬を攻めがはじまる。竹田城が陥落。 |
天正6年 (1578) | 羽柴秀長が竹田城の城代となる。 |
天正8年 (1580) | 羽柴秀長が有子山城主として転出。代わって桑山重晴が竹田城主となる。 |
文禄元年 (1592) | 竹田城の大改修がはじまる。 |
慶長5年 (1605) | 赤松広秀が責を負って切腹。竹田城も廃城となる。 |
元和元年 (1615) | 生野代官所設置。朝来郡は生野奉行の支配下に置かれる。 |
昭和14年 (1939) | 竹田城跡を含む古城山一帯が竹田町役場の所有となる。 |
昭和18年 (1943) | 国史跡に指定される。 |
平成18年 (2006) | 日本100名城に選出される。 |
平成21年 (2009) | 国史跡の範囲が拡大され、追加指定を受ける。 |
平成27年 (2015) | 「竹田城跡保存活用計画」が策定される。翌年に保存・修復作業が完了。 |
【主な参考文献】
- 橋川真一ほか「新版ひょうごの城」(神戸新聞総合出版センター 2011年)
- 小和田哲男「隠れた名城 日本の山城を歩く」(山川出版社 2020年)
- 風来堂「攻防から読み解く『土』と『石垣』の城郭」(実業之日本社 2019年)
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