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関ケ原の合戦で「西軍勝利」のキーマンになるなら誰だ?

 天下分け目の合戦とされる慶長5(1600)の関ケ原の合戦に、徳川家康が勝利したことは誰でもご存じでしょう。ただ、合戦前から家康が圧倒的に有利だったわけではありません。状況次第では石田三成方の西軍が勝っていた可能性もあったのです。仮定の歴史に踏み込み、西軍が勝利するなら誰がキーマンになるのかを探ってみます。

西軍の勝ちを断言したメッケル少佐の逸話

 関ケ原の合戦にまつわる有名な話として、明治時代に日本陸軍の人材育成に尽力したドイツ軍人のクレメンス・メッケル少佐が、関ケ原の布陣図を見て、即座に「西軍の勝ち」と断言したとの逸話があります。

 この話は創作だとされていますが、逸話ができた背景として「布陣だけを見れば、西軍が有利だった」という見方があったことが挙げられます。家康方の東軍をぐるりと取り囲むような三成方の布陣を見れば、メッケルでなくても「西軍勝利」を予想するでしょう。

 東西両軍のすべての兵が布陣通り戦っていたら、西軍有利に戦いが進んでいったわけです。しかし実際には、西軍のうち吉川広家や毛利秀元は戦いに加わらず、小早川秀秋らが寝返ったことで、東軍が西軍を撃破することになりました。

 家康は調略を駆使し、目に見えないところで「戦力的優位」の状況を作り出していたのです。西軍が勝つためには、調略を覆すようなインパクトがほしいところです。

豊臣秀頼が関ケ原に参陣した可能性は?

 徳川方は、家康の本隊を除けば、ほとんどが豊臣家の家臣たちでした。主力である福島正則、黒田長政、藤堂高虎、浅野幸長、細川忠興といった面々は、秀吉の子飼いの家臣だったり、豊臣家と結びつきが深い大名だったりしたのです。

 福島らがターゲットにしていたのは、あくまでも石田三成であり、家康に味方をしていたからといって、彼らには「豊臣家と戦っている」との意識は全くありません。そこで、「もしも豊臣秀頼が西軍に味方をしていたら」と仮定してみます。豊臣家の馬印が西軍に立てば、福島らの刃が鈍るかもしれませんが、逆に「三成たちから秀頼君を奪還しなければならない」と奮い立つことも考えられます。

 秀頼本人が参陣すれば、状況は大きく変わるかもしれませんが、当時6歳の秀頼が合戦の場に現れるというだけでなく、大坂城から外へ出ることすら難しかったでしょう。これらを考えると、秀頼が西軍勝利のキーマンとは言い切れないと思います。

毛利輝元が関ケ原に打って出たとしたら?

 西軍の事実上の指揮を取っていたのは石田三成ですが、総大将だったのは毛利輝元です。家康に対抗できる大名として三成が担ぎ上げ、大坂城で豊臣秀頼を守るという役割を担っていたのです。

 輝元は大坂城から打って出るという選択肢があったのにもかかわらず、結局関ケ原には姿を現しませんでした。もしも、輝元のなかに「豊臣家に代わって毛利家が天下を取る」という野望があったのなら、状況は変わっていたに違いありません。

 輝元が関ケ原に参陣し、三成に代わって全軍を指揮すれば、家康の調略は一気に崩れていたでしょう。小早川秀秋が裏切れるわけがありませんし、吉川広家や毛利秀元も日和見はできず、東軍に攻めかかっていたはずです。

 もともと東軍と西軍の戦力は拮抗していました。そこに布陣の優位さが加わるわけですから、関ケ原の合戦での西軍勝利の可能性も広がってきます。つまり、西軍勝利のキーマンは毛利輝元だったのです。

おわりに

 毛利輝元の参戦によって、家康は関ケ原の合戦で敗れたかもしれません。ただ、それが徳川家の滅亡につながるとは限りません。合戦には間に合いませんでしたが、徳川秀忠率いる徳川家臣団が温存されており、巻き返しが十分可能だったからです。

 関ケ原の合戦は、日本の歴史の転換点となる大きな節目となりました。今を生きる私たちは、戦いの勝敗やその後の歴史を知っているからこそ、戦国時代最大の戦いとなった関ケ原の合戦に歴史ロマンを感じ、「もしもの世界」を想像したくなるのですね。

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  この記事を書いた人
マイケルオズ さん
フリーランスでライターをやっています。歴女ではなく、レキダン(歴男)オヤジです! 戦国と幕末・維新が好きですが、古代、源平、南北朝、江戸、近代と、どの時代でも興味津々。 愛好者目線で、時には大胆な思い入れも交えながら、歴史コラムを書いていきたいと思います。

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