「小早川秀秋」関ヶ原最大のキーマン? 勝敗を決定づけた背信の将
- 2023/09/14
小早川秀秋(こばやかわ ひであき)といえば、やはり関ケ原における「裏切り」のイメージが強い人物でしょう。彼の裏切りによってたちまち敵軍は大混乱に陥ったため、東軍戦勝に至った最大の要因として語られることも多いです。
しかし、その強烈なインパクトとは裏腹に、関ケ原前後の秀秋についてはあまり語られることがありません。そのため、この記事では彼がどのように関ケ原を迎え、そして戦後どのような人生を送ったのか。この部分を重点的に解説していきます。
しかし、その強烈なインパクトとは裏腹に、関ケ原前後の秀秋についてはあまり語られることがありません。そのため、この記事では彼がどのように関ケ原を迎え、そして戦後どのような人生を送ったのか。この部分を重点的に解説していきます。
幼少のころは秀吉の養子だったが、小早川家へ送られる
天正10年(1582)、秀秋は豊臣秀吉の正室であるねね(北政所)の兄である木下家定という人物の息子として生まれました。母は同じくねねの伯父である杉原家次の娘で、出自を整理するとねねとの縁が非常に深いことがわかるでしょう。そのため、幼少期にはねねによって養育されていたという記録が残されています。
また、ねねとの縁の深さは、必然的に彼女の夫である秀吉との縁が深いことも意味していました。実際、秀秋が家定の第5子であったこと、秀吉に実子が生まれていなかったことなどが関係して、彼は秀吉の養子になっています。
秀吉も彼のことを可愛がっていたようで、「金吾(秀秋のこと)」という文字は書状にたびたび登場しています。この溺愛は秀吉本人の後継者選びにも影響を与え、他にも豊臣秀次ら数多く存在した秀吉の養子たちを差し置いて後継者候補筆頭と考えられていたようです。
小早川の人物というイメージが強いため意外かもしれませんが、この事実は秀秋が天下人になっていたかもしれないという可能性を示唆するもの。しかし、我々もよく知っているように、秀秋が秀吉の後継者となることはありませんでした。
これはなぜかというと、文禄2年(1593)に秀吉は待望の実子である「鶴松」を手に入れたためです。秀吉は鶴松を跡継ぎにしようと考えていた節があり、実際に鶴松誕生の直後には丹波国亀山(現在の三重県亀山市付近)に大名として封じられています。
これは秀秋の後継者路線が潰えたことを意味していますが、同時にこの時点では鶴松を補佐する豊臣一門の大名と考えられていたはずです。
では、なぜ小早川家へと養子に出されることになったのか。ここには2つの要因が考えられます。
まず一つは、後継者として期待されていた鶴松の早逝と、ふたたび誕生した後継者候補である豊臣秀頼の存在が挙げられます。秀吉は鶴松の際と同様に秀頼の後継者路線を確立したいと考えており、そのために争いの火種となりそうな他の養子たちをどう処遇するか頭を悩ませていました。
もう一つは、養子に出された小早川家側の都合を原因として指摘できます。小早川隆景は膨張しつつある自身の領地に頭を悩ませており、特に九州の地に獲得した領土についてはその存在をそれほど重視していませんでした。
以上、二つの要因が重なった結果、隆景は秀秋の扱いに苦慮している秀吉に「恩を売る」形で養子案をもちかけ、彼に九州を任せることで自身は毛利氏本来の領国へと舞い戻ろうとしたのではないか、と言われています。
小早川を継いでからは統治に苦戦
文禄3年(1594)に養子となった秀秋は、小早川家から華々しく迎えられることになりました。彼は婿入りと同時に毛利輝元の養女と結婚しており、これは豊臣に近しい秀秋の妻に毛利の女性をあてがうことによって政権内での地位を盤石にするための政略結婚でした。
しかし、まだ小早川家入り直後は隆景の跡を継ぐまでには至っておらず、あくまで次期後継者という立場に甘んじていたようです。
さらに、秀吉は秀頼への権力継承を安定的なものにしようとした結果、秀次を処刑した秀次事件を起こします。秀秋も後継者候補の一角をなしていたために連座して亀山領を失ったと考えられていますが、これはあくまで隆景の領土を引き継ぐための処置で、秀次事件の影響ではないという見方も。
いずれにしても隆景から筑前一国・肥前の一部を与えられた秀秋は、筑前の名島城を拠点に定めました。ただし、この時も直接的に領土の統治を行っていたわけではなく、現地の重臣らに統治を任せて自身は上方に居住していたと考えられています。
ところが、慶長2年(1597)に隆景が急死したことによって、彼をめぐる環境は大きく動き始めます。
隆景がまだ現役で様々な活動を行っていた矢先の逝去であり、毛利本家や吉川家も大きなショックを受けるとともに、形式上隠居の状態にありながら隆景が所有していた10万石程度の領地や家臣らの処遇問題が持ち上がります。
毛利輝元は領地・家臣ともに毛利家への服属を願い出ましたが、秀吉は秀秋と小早川家の重臣らとの関係性が悪化していることに配慮し、家臣は小早川家へ服属させることを決定。しかし、家臣らは毛利領内に権益を有していたことから毛利氏への従属を希望しており、問題は後々までこじれていくことになります。
さらに、朝鮮の地で華々しく初陣を経験した秀秋でしたが、かねてから不仲が噂されていた重臣の山口玄蕃頭との対立が表面化。秀吉や毛利氏が仲介役を果たさなければならないほどの問題になっており、秀吉は対立の原因を「秀秋の心得や行いが悪い」と語るなど、彼の評価が揺らぎ始めていました。
結果、「領主としての資質」を疑問視されたのか、秀秋は慶長3年(1598)に突如、越前・加賀国への転封を告げられます。しかし、その翌年にはふたたび秀秋が旧領に復帰していることから、一連の領地替えについてはその真相がハッキリと分かっていません。
軍記物などでは「朝鮮の地で秀吉の命に背いた罰として減封されたが、秀吉の遺言や家康の尽力によって旧領回復を果たした」と言われますが、一方で「朝鮮の地で命に背いた」「減封だった」「秀吉の遺言や家康の尽力」という部分については有力な史料がありません。
実際のところは朝鮮出兵の「対策」によって筑前が豊臣領になり、その終息後は直接支配の必要がなくなったために秀秋のもとへ帰ってきたとも考えられています。
こうして無事旧領への復帰を果たした秀秋でしたが、先で見てきた家臣らとの対立はまとまらず、秀秋・毛利に加えて石田三成に引き取られる者も出てくるなど、家臣団が3分裂した状態になってしまいました。
運命の関ケ原では西軍を裏切り、家康の勝利に貢献
秀吉の死後、家康と三成の対立は表面化していき、しだいに天下分け目の大戦勃発は避けがたい情勢になっていきました。秀秋が戦前にどのような行動をしていたかは定かでなく、三成襲撃事件などに際してもその名前は確認できません。一方で慶長5年(1600)には家康と親交をもっていた様子が確認できるものの、彼の会津征伐には同行せず、三成の挙兵後には西軍の一員として関ケ原の地へ赴きました。もっとも、縁の深い毛利家が西軍の総大将格に位置づけられており、また豊臣家の出身でもあることから、西軍に加担したこと自体については不思議でもありません。
また、関ケ原本戦前の小競り合いではあくまで西軍の一員として行動しており、この時点ですでに西軍裏切りの意思を固めたまま西軍の一員として活動していたか、それとも判断に迷った状態でひとまず西軍に味方していたかは分かりません。
しかし、関ケ原開戦前の時点で東軍方の浅野幸長や黒田長政らによって秀秋に対する調略が進められていた形跡が確認でき、家臣らの説得も相まって遅くとも関ケ原当日までには裏切りを決断していたと考えられています。
つまり、関ケ原の戦いにおいて秀秋は冒頭で示したような「戦闘中の裏切り」を行ったわけではなく、開戦時には東軍所属の意思を明確にしていたと思われます。ところが、一説では秀秋が東軍に属したことを目に見える形で示す前に戦闘に突入してしまい、西軍からしてみれば「秀秋が突然裏切ったように見えた」ために裏切り者となってしまった可能性が指摘されているのです。
もっとも、実態はともかく「裏切り者」の出現によって西軍が大混乱に陥ったのは事実であり、戦後になって家康は「戦勝の要因」として秀秋の行動を高く評価しました。その結果、秀秋は毛利家の没落を尻目に備前・美作40万石を獲得し、岡山城主として新たな一歩を踏み出します。
不可解な晩年と早逝
こうして大大名になった秀秋ですが、わずか2年足らずの岡山統治についてはその多くが謎に包まれています。まず、軍記物などによって伝えられているところによれば、秀秋の残虐な振る舞いや飲酒癖に愛想をつかした重臣たちが家を出奔し、家中の混乱と政治の乱れを招いたと考えられます。
確かに秀秋には過剰な鷹狩や飲酒癖があったのも事実ですが、一方で「家臣らを追放した」という点は彼が小早川重臣らから権力を取り返すための政治的運動の結果ともいえ、これは秀秋の凡庸さを示すものではないでしょう。
実際、中央集権的な体制を築くために重臣らを処断・追放するという例は珍しいものではなく、江戸幕府黎明期に若年で藩主になった人物たちにしばしば見られる傾向でした。
では、なぜこうした悪評ばかりが後世に残ってしまったのか。その理由は単純で、慶長7年(1602)に秀秋が21歳の若さで突然死してしまったからです。
この死に関しても不審な点が多いものの、先に見た飲酒癖によってアルコール依存症になっていた可能性が指摘されており、現代では肝硬変が死因であると言われています。
いずれにしても突然亡くなってしまった秀秋は、その若さのためか後継ぎを残すことができませんでした。そのため、小早川家は後継ぎ不在を理由に改易処分となり、同時に一族としての小早川家も断絶を余儀なくされたのです。
【参考文献】
- 『国史大辞典』
- 歴史群像編集部『戦国時代人物事典』、学研パブリッシング、2009年。
- 光成準治『小早川隆景・秀秋』ミネルヴァ書房、2019年。
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