朝鮮出兵、関ケ原、大坂の陣…有名な合戦に出陣した将兵の数は、どんな基準で決められたのか?
- 2023/05/17
戦争に将兵が動員された基準
戦争にどれくらいの数の将兵が動員されたのか、実数を知るのは非常に難しいことである。有名な合戦に出陣した将兵の数は、二次史料(軍記物語など)の記述に頼るしかない。しかし、二次史料にあらわれる将兵の数は正確とはいえず、誇張されたものもあるだろうから注意が必要である。同様に討ち取った敵の数についても、決して正しいとは言えないだろう。しかし、探る方法はないわけではない。天正10年(1582)6月、本能寺の変で織田信長が横死すると、豊臣秀吉が後継者となった。秀吉は天下を統一すべく、朝鮮出兵(文禄・慶長の役)も行ったので、諸大名は数多く戦争への出陣を余儀なくされた。軍勢を動員する際に根拠になったのは、御前帳という帳面である。
御前帳とは、郡ごとに石高を調査して国郡図(国絵図)を添え、国単位で掌握した国家的な土地台帳のことである。台帳の石高とは、秀吉が各大名に朱印状で付与した所領のことである。秀吉は叡覧(天皇に見せること)することを根拠として、各大名に御前帳の提出を強要したのである。
財政的な問題で規定の軍役を満たせなかった島津家
朝鮮出兵に際して、軍役は100石につき3~5人だった。この数字は各大名の石高と実際に出陣した人数を一次史料から算出したものなので、おおむね正しいといえる。数字に多少の幅があるのは、大名の実情に配慮したものだろう。仮に、50万石の大名のケースならば、1万5千~2万5千の軍勢を引き連れねばならなかった。しかし、必要な軍勢を揃えるのには財政的な問題などがあり、多くの困難が横たわった。文禄の役で、薩摩島津氏は朝鮮に出陣したときが良い例である。以下、「島津家文書」などで確認しよう。
島津氏の軍役の負担は、100石につき5人だった。島津氏の石高から計算すると、約1万人の軍勢を準備する必要があった。しかし、島津氏は財政的に厳しく、規定の軍役を負担することが非常に困難だった。
その後、島津氏は石田三成に懇願し、100石につき2.5人まで負担を減らしてもらい、5千人に半減した。しかし、朝鮮出兵はうまみのない戦争で、戦後の恩賞が十分に見通せなかったので、島津氏にとっては大変なことだった。結局、文禄3年春の時点で、島津氏は約3千8百の将兵を送り込んだが、同年11月には3千余人まで減少したのである。
家臣団統制の問題や、島津義久・義弘兄弟の関係も影響
そもそも朝鮮半島という不慣れな土地での戦争で、病気で帰国する将兵が少なくなかったことだけでなく、減った分の将兵の補充ができなかったのである。その理由は財政の問題だけでなく、島津氏の家臣団統制がうまくいっていなかったという理由もあった。それゆえ、島津氏は規定の軍役を果たさなければ、秀吉から処分を受けるのではないかという状況にまで陥っていたほどだ。慶長5年(1600)に関ヶ原合戦がはじまっても、西軍に味方した島津氏は規定の軍役を満たすことができなかった。
同年8月20日、島津義弘は本田正親に書状を送り、軍事動員の状況を詳しく伝えた(『旧記雑録後編』)。この書状によると、長宗我部盛親は本来の軍役が2千人だったが、秀頼への忠誠心を示すため5千の軍勢を準備していた。それは立花宗茂も同じで、1千3百でよいところを4千人もの軍勢を引き連れた。しかし、島津氏は1千余の軍勢にすぎず、のちに援軍が遣わされたものの、わずか3百弱しかいなかった。
理由は家臣団統制の問題もあったが、義弘は兄の義久との関係が悪かった。したがって、義弘は義久に援軍の派遣を要請したものの、それはまったく無視されて、十分な援軍は派遣されなかった。結局、島津氏は活躍することができず、逃げるかのように戦線を離脱したのである。
牢人を雇用せざるを得なかった豊臣方
関ヶ原合戦や大坂の陣は日本中の大名を動員した大戦争だったので、長期戦が予想された。そのため軍役の負担だけでなく、武器や兵糧米などの準備も非常に大変だった。各地の大名は、戦争の費用を準備するのに大変苦労した。特に大坂の陣では、すでに大戦争が終わった時代だったので、新たに将兵を雇用することができなかった。そのような事情もあり、牢人が雇用されたのである。『本光国師日記』などの史料によると、慶長19年(1614)10月以降、豊臣方は多数の牢人を雇った。豊臣方に馳せ参じる大名が皆無だったので、牢人を雇用するしかなかったのだ。豊臣家は財政が豊かだったこともあり、牢人にはその場で恩賞の前払いとして、金銀が支給された。
豊臣方の主力は木村重成ら譜代の家臣に加え、真田信繁、後藤又兵衛といった牢人たちだった。ところが、譜代の家臣団を統制するのも困難だったのに、牢人たちの統制はなおさら難しかった。豊臣方の牢人は徳川方に勝利して、恩賞を与えられることを願った。大坂冬の陣後、豊臣方は徳川方と和睦をしたが、その後の方針をめぐり、豊臣家中は和睦派と徹底抗戦派とで争った。結果、徹底抗戦派が主導権を握り、戦争は再開され、豊臣家は慶長20年(1615)5月に滅亡したのである。
牢人を雇用したのは、豊臣方だけではなかった。阿波の蜂須賀氏は、9千百余の将兵が大坂冬の陣に出陣したが(「大坂御陣有人帳」)、そのうち百6十人ほど牢人がいたので、不足した将兵を補充したと考えられる。牢人を雇った事例は、大坂の陣以前から確認することができる。
このように、戦争には莫大な経費を要したので、各大名家は頭を抱えざるを得なかった。戦争が行われるたびに、大名家の財政はひっ迫したのである。
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