【愛知県】三河 野田城の歴史 徳川・武田・今川の争奪戦となり、絶え間ない戦乱に晒された75年間とは

三河 野田城跡(愛知県新城市)
三河 野田城跡(愛知県新城市)
戦国時代の奥三河地方は戦略上の要地だったことから、長篠城や古宮城、足助城といった中世城郭が数多く点在しています。今回ご紹介する野田城もそんな城の一つですが、豊橋平野に比較的近い立地にあるがゆえに、幾度も戦乱に巻き込まれた歴史を持っていますね。

徳川・武田・今川の争奪戦となり、あの武田信玄最後の戦いの舞台となった野田城はどんな城だったのか?その歴史をひも解きつつご紹介したいと思います。

菅沼定則によって築城された野田城

戦国時代の奥三河では、山家三方衆と呼ばれる地元国衆が割拠していましたが、田峯菅沼氏の出身である菅沼定則が野田城を築いたとされています。

『菅沼家譜』や『野田伝記』によれば、もともと三河国設楽郡は、大伴家持の子孫を称する富永氏が治めていました。ところが嗣子が亡くなったことで、血縁のあった田峯菅沼氏へ後継ぎを迎えたいという提案をしたようです。そこで当主・菅沼定忠は、三男。定則に白羽の矢を立て、新たに野田の地へ移らせたといいます。

定則は当初、現在の野田城跡から1キロほど離れた野田館で暮らしていました。ところが豊川が頻繁にあふれたことで水害が重なり、防備も不十分だったことから城を移すことを決します。こうして永正5年(1508)に取り掛かったのが野田城の築城です。実際に完成したのは8年後ですから、かなりの土木量だったことがうかがえます。

三河 野田城の位置。他の城名は地図を拡大していくと表示されます。

さて、野田菅沼氏を興した定則ですが、奥三河の小領主が生きていくには、力のある戦国大名を頼らねばなりません。当初は今川氏親に属していたのですが、東三河から奥三河へ勢力を伸ばしてきたのが新進気鋭の松平清康でした。あの徳川家康の祖父にあたる人物です。

享禄2年(1529)に松平氏の傘下に入るものの、わずか6年後に清康が不慮の死を遂げてしまいました。松平氏が急速に衰退する中、定則も身の振り方を考える必要に迫られます。そこで今度は松平氏を見限って今川氏に帰属することを選びました。

しかし戦国乱世は何が起こるかわかりません。定則の孫・定盈の代になると、桶狭間の戦いで今川義元が敗死したことにより、三河で独立した徳川家康に臣従する道を選ぶのです。こうして見ると、戦国時代における弱小領主の悲哀が垣間見えてくるようですね。

その後、野田城は天正3年(1575)までの14年間、今川氏や武田氏から4度にわたる攻撃を受けますが、野田菅沼氏は最後まで帰属を変えることはありませんでした。

野田城はいったいどんな城だった?

現在は私有地に含まれていることで、一部のみ見学可能ですが、野田城の縄張りは非常に特徴的です。まるで串に刺した団子のように曲輪が並び、それぞれが土橋で繋がっています。

野田城絵図(出典:wikipedia)
野田城絵図(出典:wikipedia)

また、本宮山から派生する丘陵の先端に築かれており、東西を沼地に挟まれていることから、そこが要害の地であることがわかるでしょう。

それぞれの曲輪は土塁に囲まれ、南東の虎口(城の出入り口)には馬出状の広場が設けられていたようです。また主郭前方の曲輪を繋ぐ虎口の土塁は「かぎ状」になっていて、横矢掛けを意識した構造になっていました。

さらに最も北側にあたる三ノ丸には土塁と溝状の窪みが見られ、近世の絵図から推測すると、これが「丸馬出」だということが確認できます。これらは先進的な築城技術と呼べるもので、菅沼定則が築いた当時の防御構造ではありません。天正3年(1575)に菅沼定盈が野田城を取り戻したあと、大きな改修を受けた時のものでしょう。

定盈がなぜ大規模な改修を施したのか?おそらく徳川氏による奥三河地域の支配強化のため、そして武田氏の再攻に備えた防備強化といった理由が考えられます。

今川氏と武田氏から狙われる野田城

今川氏を見限った菅沼定盈が徳川氏に鞍替えした直後、激怒した今川氏真は軍勢を差し向けて野田城を陥落させました。定盈は追放されるものの、程なくして今川氏の勢力が三河から後退していくと、定盈は再び城を取り戻しています。

ところが今川氏が滅んで脅威が去ったあと、いよいよ武田氏が徳川領へ勢力を伸ばしてきました。元亀2年(1571)の早春、武田信玄は大規模な遠江・三河侵攻作戦を開始。遠江の要衝・高天神城を攻撃してきます。しかし堅城だったことから攻略を断念し、さらに三河へ進んでいきました。

まもなく武田の別動隊が足助城を陥落させたことで、山家三方衆が武田氏に帰属することとなり、奥三河のほとんどは信玄の手中に収まります。ただ野田城にいた菅沼定盈は離反することなく、武田軍に抵抗を続けたようです。

ちなみに武田勝頼が下条信氏に宛てた「四月晦日書状」の中で、「三河野田城を落とし、吉田城へ迫ったのは誠に目出度い」と労をねぎらっていることから、この時に野田城が陥落したものと思われます。これが2度目の落城でした。

しかし徳川方もさるもの。武田軍の侵攻作戦が終わるとさっそく領土回復に乗り出し、この時に野田城も奪回したようです。

信玄最後の戦いとなった野田城攻防戦

元亀3年(1572)、西上作戦を開始した武田信玄は、三方ヶ原で徳川軍を破ると三河へ侵入し、翌年正月に再び野田城を囲みました。同じ頃に足利義昭の側近・上野秀政へ宛てた書状の中で「現世安眠の政」「天下静謐」と述べているあたり、おそらく上洛への意志は固かったと考えられます。

武田の大軍に包囲された野田城で、定盈は徳川からの援将・松平忠正とともに必死の防戦を繰り広げていました。しかし武田軍は甲州金山の鉱夫を投入して二ノ丸を掘り崩し、とうとう残るは本丸のみとなってしまいます。さらに本丸の真下まで掘られた結果、大事な井戸が枯れてしまいました。

いくら要害でも水がなければ意味はありません。たちまち城内は水不足に苦しみます。城兵の中には渇きに苦しむあまり、銭を入れた甕を吊り下ろし、武田の兵から水を買う者まで現れました。そして一ヶ月に及ぶ攻防ののち、ついに定盈は降伏・開城を申し出たのです。

ちなみに「柏崎物語」にはこんな話があります。野田城内に村松芳休という笛の名手がおり、夜になって芳休が笛を吹くと、敵味方問わず耳を澄まして聞き惚れていたそうです。

さて、明日はいよいよ開城という夜のこと、信玄はいつになく哀調を帯びた笛の音色に誘われ、城のそばまで近付きました。その時、城内にいた鳥居三左衛門という鉄砲の名手が狙撃し、弾丸は信玄の耳をかすめるも小さな傷を作ったそうです。しかし、この傷が元で信玄は病を発して亡くなってしまいました。鳥居もまた業病を患って悶死したとされています。

とはいえ、これはあくまで伝説に過ぎません。実際の信玄は城を包囲している時から体調を崩していたとも。

さて、囚われの身となった菅沼定盈と松平忠正ですが、のちに人質交換によって徳川方に引き渡されました。家康は定盈らの労をねぎらい、厚く遇したといいます。

一方、野田城を落とした武田軍ですが、信玄の症状が悪化したことから西上をあきらめ、甲府に引き上げることになりました。その途中、信玄は信州近場で亡くなり、53年の生涯を閉じたのです。

武田勝頼の侵攻。そして野田城が廃城となる

武田信玄の死をもって野田城の物語が終わったわけではありません。信玄を継いだ武田勝頼はなおも執拗に奥三河を狙い続けるのです。

野田城攻防戦のあと、定盈は程近い場所に大野田城という臨時の城を築いていました。なぜなら被害を受けた野田城は使い物にならず、この機会に改修するつもりだったからです。ところが修築半ばだった天正3年(1575)、いよいよ武田勝頼が攻撃を仕掛けてきました。

臨時の城では大軍を相手に籠城できないと考えた定盈は、大野田城に火を放って退却したといいます。やがて武田軍が長篠方面へ向かうと野田城へ取って返し、軍備を整えて織田・徳川軍へ参陣します。こうして長篠・設楽原の戦いで戦功を挙げた定盈は、ようやく武田氏に雪辱を果たしました。

天正18年(1590)、家康の関東移封によって定盈も上野国へ移ることになり、ここに野田城は廃城となりました。祖父・定則が築いて以来、75年の歴史にピリオドが打たれたのです。

おわりに

城の歴史としては比較的短い部類に入る野田城ですが、75年という月日はあまりに濃厚なものでした。幾度も落城しながら、そのたび取り返されたあたりに、この城の重要度が隠されているのでしょう。現在は鬱蒼とした森に囲まれた城跡ですが、はっきりと残る土塁や空堀に、往年の雰囲気を感じることができますね。

ちなみに野田城と長篠城は近い距離にあるため、ぜひ一緒に訪れることをおすすめします。当時の中世城郭がどのようなものだったのか?きっとよくわかるはずです。

補足:野田城の略年表

出来事
永正3年
(1506)
野田菅沼氏初代・菅沼定則が野田館へ移る。
永正5年
(1508)
菅沼定則が野田城を築城。その8年後に城が完成する。
享禄2年
(1529)
今川氏の支配から離れて松平清康に臣従。
天文4年
(1535)
「森山崩れ」によって清康が死去。菅沼貞則が今川氏に再び帰属。
永禄3年
(1560)
今川義元が敗死。今川氏を見限った菅沼定盈が徳川家康に臣従する。
永禄4年
(1561)
今川氏真による野田城攻め。定盈が追放される。(その後、城を回復)
元亀2年
(1571)
武田信玄による遠江・三河侵攻。野田城が落とされる。(その後、城を回復)
元亀4年
(1573)
武田信玄による野田城攻め。定盈は降伏する。同年、大野田城を築城。
天正3年
(1575)
武田勝頼の侵攻。大野田城が自落するも、定盈が長篠・設楽原の戦いで功を挙げる。同年、野田城の大改修が成る。
天正18年
(1590)
菅沼定盈の関東移封に伴って廃城となる。
昭和33年
(1958)
新城市指定史跡となる。


【主な参考文献】
  • 峰岸純夫ほか「戦国武将・合戦事典」(吉川弘文館 2005年)
  • 中井均ほか「東海の名城を歩く 愛知・三重編」(吉川弘文館 2020年)
  • 鈴木亨「日本の古城・名城100話」(立風書房 1987年)
  • 柴辻俊六「信玄の戦略 組織、合戦、領国経営」(中央公論新社 2006年)

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  この記事を書いた人
明石則実 さん
幼い頃からお城の絵ばかり描いていたという戦国好き・お城好きな歴史ライター。web記事の他にyoutube歴史動画のシナリオを書いたりなど、幅広く活動中。 愛犬と城郭や史跡を巡ったり、気の合う仲間たちとお城めぐりをしながら、「あーだこーだ」と議論することが好き。 座右の銘は「明日は明日の風が吹く」 ...

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