【岩手県】九戸城の歴史 反乱の舞台となった難攻不落の要害
- 2024/07/19
天正18年(1590)、豊臣秀吉による小田原攻めにより北条氏が屈服。さらに関東・奥州の諸大名が、服従あるいは改易となったことで、東日本は豊臣政権の支配下に組み入れられました。
しかし、豊臣政権の強引な仕置に反発する一揆が奥州各地で蜂起し、さらに陸奥7郡を領する南部氏に、庶流の九戸政実が反乱を引き起こします。その舞台となったのが、現在の岩手県二戸市に残る九戸城でした。
圧倒的な奥州仕置軍を相手に戦った九戸城は、いったいどんな城だったのか?その歴史とともにご紹介したいと思います。
しかし、豊臣政権の強引な仕置に反発する一揆が奥州各地で蜂起し、さらに陸奥7郡を領する南部氏に、庶流の九戸政実が反乱を引き起こします。その舞台となったのが、現在の岩手県二戸市に残る九戸城でした。
圧倒的な奥州仕置軍を相手に戦った九戸城は、いったいどんな城だったのか?その歴史とともにご紹介したいと思います。
2つの説がある九戸城の築城時期
九戸城跡は、岩手県最北の二戸市福岡地区にあり、東西約800メートル、南北約500メートルの規模に及びます。西側を馬淵川、北側を白鳥川、そして東側を猫渕川に囲まれており、河岸段丘を利用するなど、自然地形を生かした要害でした。九戸城の築城時期については明確ではなく、おおむね2つの説があるようです。
まず一つに、『参考諸家系図』によれば、“光政、修理、此時九戸より封を二戸の荘に移して白鳥城に居る…”とあり、九戸光政の代にあたる明応年間(1492~1501)に築かれたという説です。そしてもう一つは九戸政実が築いたという説で、『南部根元記』『奥南旧指録』等によると、永禄11年(1568)に鹿角郡奪還で軍功を挙げた政実が、二戸郡九戸を宛がわれて九戸城を築いたとされます。
ちなみに過去の発掘調査では、城跡から15世紀後半の陶器類が出土していることから、九戸光政が築城したという説が有力かも知れません。あるいは最初に光政が白鳥城を築き、のちに政実が改修したという説もあるようです。
さて、九戸氏の出自ですが、南部氏始祖である南部光行の六男・行連の末裔とされています。また九戸を領する結城親朝の配下にあった小笠原氏の末裔という説もあり、どちらが正しいのか定かではありません。
九戸氏がいつから九戸を支配していたかは不明ですが、結城親朝が北朝に帰順したのが興国4年(1343)のこと。その時点で九戸を放棄した可能性が高いため、九戸氏が領主になったのは、それ以降のことでしょう。
南部氏の後継者をめぐる争い
天正15年(1587)、関白・豊臣秀吉は「関東・奥惣無事令」を発し、領主間の争いはすべて私戦とみなして討伐の対象にすることを、関東・奥州の諸大名へ伝達しました。また、豊臣政権は、各地へ使者を発して同令の遵守を呼びかけるとともに、諸大名の上洛を求めています。そんな中、南部氏26代当主・南部信直も上洛命令を受けるのですが、実は大きな問題を抱えていました。それは庶流にあたる九戸政実との確執です。
九戸光政
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(数代略)
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信尹 信仲
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康実 実親 政実
政実は天文5年(1536)頃の生まれで、永禄11年(1568)に安東氏との戦いで鹿角郡を奪い返し、さらに元亀2年(1571)には斯波氏を破って勢力を拡大。弟の康実を名門斯波氏の娘婿として送り込んでいます。
また、もう一人の弟である実親を、南部氏当主・南部晴政の娘婿にしたことで、政実は南部宗家に対抗しうる勢力を手にしました。
当時の室町幕府も、九戸氏は南部氏と肩を並べる存在と認めていたらしく、永禄6年(1563)の「諸役人付」によれば、南部大膳亮とともに九戸五郎の名が見られます。
さて、天正10年(1582)に晴政が死去したあと、家督を継いだ南部晴継までが急死。しかも晴継に男子がいなかったことで後継者問題が勃発し、跡目をめぐる合議は紛糾しました。候補者となったのは、晴政の長女の婿である南部信直と、同じく次女の婿となった九戸実親です。
結局、宿老・北信愛が強引に信直を後継者にしたことから、南部氏と九戸氏の関係はますます険悪になったといいます。
南部政康
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秀範 信房 長義 高信 安信
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政信 信直 晴政
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利直 晴継
さらに政実を激怒させる出来事が起こりました。天正18年(1590)7月、信直は小田原にいた秀吉の元へ参陣し、「南部内7郡」を安堵する朱印状を拝領したというのです。
ここに南部氏は領内の仕置権を認められ、豊臣政権傘下の大名として認められました。つまり信直は、政実を遥かに凌駕する地位を得たのです。
九戸政実の乱が勃発
小田原攻めが終わると、秀吉はさっそく奥州の仕置に取り掛かりました。臣従した諸大名の存続を認めるいっぽうで、参陣しなかった者を次々に取り潰していきます。また検地や城割り(城を取り壊すこと)、刀狩りなどが徹底された結果、急速に豊臣政権の支配体制へ組み込まれていきました。
しかし強引な方針は国衆たちの反発を買うことになり、大規模な一揆が各地で勃発します。陸奥では和賀・稗貫、出羽では仙北・由利・庄内藤島の一揆が蜂起したことで、豊臣仕置軍は鎮圧に追われました。
さしあたって出羽の一揆は終息するものの、南部領となった和賀・稗貫の一揆をなかなか壊滅させることができません。豊臣政権に対する反乱は、南部領一円に広がりを見せていきました。そして天正19年(1591)初頭、北奥羽最大の一揆である「九戸政実の乱」が勃発するのです。
その年の正月、三戸城における年賀挨拶に政実は出席せず、ここに南部宗家との対立は決定的となりました。さらに九戸氏とともに、櫛引・七戸・久慈・大里といった諸氏が軍事蜂起し、そこへ和賀・稗貫の牢人たちも加わります。
記録によれば「郡中諸侍其外下々迄京儀をきらい」とあり、京儀とはつまり上方を指す言葉ですから、豊臣政権の統一事業に対して、明確に異を唱えたのでしょう。政実の場合、信直に対する怨恨が根底にあるため、一揆がきっかけとなって不満が爆発したのかも知れません。
3月には本格的な戦闘状態に入り、政実は苫米地城・伝法寺城・一戸城といった南部方の支城を、次々に攻略していきました。
いっぽう劣勢に立たされた信直は、ここで豊臣政権に救援を要請します。事の重大さを認めた秀吉は、6月になると豊臣秀次を総大将に指名し、東日本の大名を動員して奥州仕置軍を編成しました。
九戸城の陥落
やがて九戸の盆地へ参集した仕置軍ですが、あまりの大軍のため、身動きが取れないほどだったとか。南部氏・伊達氏・津軽氏はもとより、出羽の大名・小名衆をはじめ、遠く蝦夷から蠣崎氏がアイヌ民族まで引き連れてきたそうです。そして6万の大軍に膨れ上がった仕置軍は、いよいよ九戸城の攻略に取り掛かります。まず9月1日、支城の姉帯城・根反城が激しい攻撃を受けて陥落。翌日になると九戸城は完全に包囲されました。ただし九戸城は要害を誇る難攻不落の城郭です。険阻な山城ではありませんが、深い堀と聳え立つ切岸によって守られ、敵を一切寄せ付けません。
その強力な防御を可能にしたのが土の性質です。九戸一帯の土壌は、十和田火山から噴出した「十和田降下火山灰」によって覆われ、非常に粘着質で削りやすいことが特徴となります。
ただし勾配を付けて掘削すると雨水で浸食されるため、切断面を垂直にすることで安定させていました。結果的に攻撃側が登れない崖となり、優れた防御力を発揮できたのです。
九戸城と似たような土壌は鹿児島県で多く見られ、シラス土壌を活用した知覧城・志布志城などが知られています。
さて、この九戸城の戦いに関する一次史料は、浅野長政が9月14日に発した書状しかありません。そのくだりを引用してみましょう。
「去る一日、根反・姉帯の城をただちに攻め掛けて陥落させた。2日から九戸の城を攻囲し、塀際まで攻め寄せたところ、九戸が髪を剃って降参してきたので、妻子ともども秀次公の陣所へ送り届けた。その他の悪徒人共はすべて首を刎ね、首級150余りを持たせて秀次公に進上した」
いっぽう後世に書かれた軍記物によれば、激しい抵抗を見せた九戸勢が、大軍を相手に奮闘した様子が描かれています。それによると、なかなか落ちない九戸城に業を煮やした仕置軍は、長興寺の薩天和尚を仲介にして偽りの和議を申し入れました。
城を出た政実を捕らえると、寄せ手が一斉に雪崩れ込んで二の丸へ城兵を押し込め、女子供かまわず撫で斬りにしたといいます。
浅野長政が述べた通り、あっさり降伏したのか?それとも激しい抵抗の末に、和議を受け入れたのか?真実のほどは不明ですが、近年の発掘調査では以下のことがわかっています。
まず平成7年(1995)の二の丸における発掘では、直径2メートルの穴から男女の人骨が10~16体ほど発見されました。頭部はすべて失われており、刀傷や狙撃の痕跡もあって、激しい戦闘があったことをうかがわせます。
また平成22年(2010)の調査では、井戸跡・空堀から人骨が出土しており、幼児・老人を含む男女のものと考えられているそうです。また頭部のみが離れた位置に出土したことから、落城の際の被害者と推定されています。
こうした状況を見ると、やはり九戸城で何らかの惨劇があったことは確かなのかも知れません。ただし出土した人骨が少なすぎるため、実際に撫で斬りがあったかどうかは謎が残ります。
南部氏の新たな居城となる
戦いが終わったのは9月4日のことですが、むろん九戸政実は斬首され、その一族も壊滅しています。その後、荒廃した九戸城は蒲生氏郷の手によって改修され、本丸と二の丸部分に手が加えられました。さらに南部信直は、九戸城を居城にするべく改修を施し、二の丸の南側に松の丸・在府小路を、本丸西側には三の丸を増築しています。
つまり九戸氏時代の城は、本丸・二の丸・若狭館・石沢館のみに限られ、その後、南部氏によって城が拡張されたということでしょう。
実際に改修を受けた本丸・二の丸や、南部氏が造成した曲輪は、直線構造や折れが多いものの、若狭館・石沢館などの古い曲輪は、中世城館に見られる曲線的な形状をしています。
「天正十九年九月十三日付 浅野幸長宛書状」によれば、「南部方居城」という記載があり、九戸城が陥落した直後から、南部氏の居城として普請されたのでしょう。
やがて信直が城主となった九戸城は、「福岡城」と名を変え、南部氏の本拠として機能しました。
のちに信直の子・南部利直は、福岡城が北に寄り過ぎていたことから、新しい本拠として盛岡城を築き、庶長子・家直が福岡城代となりました。
家直が16歳にして急逝すると城代が置かれますが、寛永13年(1636)に廃城となっています。
解体後の廃材は盛岡城へ運ばれ、新丸御殿の用材となったことから、現在の九戸城跡には一切の建築物は残っていません。
おわりに
凄惨な落城の舞台となった九戸城ですが、蒲生氏郷や南部信直によって改修を受けた割には、戦国乱世の面影を色濃く残しています。二の丸には土居晩翠の「荒城の月」の歌碑が佇み、荒涼とした雰囲気と相まって、九戸城がたどった悲しい歴史を感じることができるでしょう。
また九戸城は史跡としてよく整備され、歴史ファンが思わず唸るほどの遺構が目白押しです。とりわけ二の丸と松の丸・在府小路を隔てる深田堀は圧巻で、その壮大さに目を奪われること間違いなしでしょう。
補足:九戸城の略年表
年 | 出来事 |
---|---|
明応2年 (1492)頃 | 九戸光政によって築城される。(実相寺由緒書) |
天正10年 (1582) | 南部晴政・晴継の死去後に、南部信直が宗家の家督を継ぐ。 |
天正15年 (1587) | 豊臣秀吉、関東・奥州の諸大名へ「惣無事令」を伝達。 |
天正18年 (1590) | 南部信直、「南部内7郡」安堵の朱印状を受ける。 |
天正19年 (1591) | 九戸政実の乱が勃発。九戸城が落城する。 |
同年 | 蒲生氏郷が改修し、福岡城と名を改める。その後、南部氏による拡張が始まる。 |
慶長4年 (1599) | 盛岡城の築城によって、信直が本拠を移す。 |
慶長5年 (1600) | 信直の庶長子・家直が福岡城代となる。 |
慶長18年 (1613) | 家直の死去に伴い、新たに城代が置かれる。 |
寛永13年 (1636) | 廃城となる。 |
昭和10年 (1935) | 国の史跡に指定される。 |
平成元年 (1989) | 史蹟環境整備事業に伴い、発掘調査が始まる。 |
平成7年 (1995) | 二の丸大手門近くで、首のない人骨が発見される。 |
平成11年 (1999) | 二の丸跡から竪穴遺構が検出され、武具工房があったと断定される。 |
平成29年 (2017) | 日本続100名城に選定される。 |
【主な参考文献】
- 飯村均・室野秀文『東北の名城を歩く 北東北編』(吉川弘文館 2017年)
- 長谷川成一・村越潔ほか『青森県の歴史』(山川出版社 2000年)
- 熊谷隆次・滝尻侑貴ほか『戦国の北奥羽南部氏』(デーリー東北新聞社 2021年)
- 森嘉兵衛『南部信直 戦国の北奥州を制した計略家』(戎光祥出版 2016年)
- 二戸市埋蔵文化センター『平成22年度九戸城環境整備事業発掘調査略報』(2013年)
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