【群馬県】館林城の歴史 徳川四天王・榊原康政ゆかりの城
- 2023/10/11
東武伊勢崎線・館林駅の東側には城沼(じょうぬま)という沼が広がっています。かつては沼へ突き出るように館林城(たてばやしじょう)が存在し、戦国時代には関東における争乱の舞台となりました。また徳川四天王のひとり榊原康政や、のちに5代将軍・徳川綱吉が入封した城として知られています。
現在は遺構のほとんどが失われて市役所や公園となっていますが、石垣や土塁の一部が現存しており、在りし日の面影を今に伝えています。そんな館林城の歴史をご紹介していきましょう。
現在は遺構のほとんどが失われて市役所や公園となっていますが、石垣や土塁の一部が現存しており、在りし日の面影を今に伝えています。そんな館林城の歴史をご紹介していきましょう。
【目次】
赤井氏によって築かれた戦国城郭・館林城
館林城の築城時期については諸説ありますが、15世紀中頃に赤井氏によって築かれたと推測されています。赤井氏は、古河公方の三大将と謳われた舞木氏に仕えたとされ、館林・邑楽地域を代表する有力武士でした。連歌師・宗祇が記した「老葉」をひも解くと、赤井氏はその出自に関して、平安六歌仙の一人である文屋康秀の子孫だと称していたようです。
赤井一族は系統ごとに「三郎」や「六郎」と名乗っており、史料上では「赤井文三」、「赤井文六」と記されています。これは「赤井文屋三郎」を意味し、彼らが文屋氏の子孫であることを示すものでした。また律令官職の有職故実に通じるなど、極めて文化的な雰囲気を持った氏族だったことがうかがえるのです。
さて赤井氏が館林城を築いた理由ですが、それは古河公方・足利成氏と上杉関東管領家の争いとなった享徳の乱にあります。館林地域では長禄3年(1459)に羽継原の戦いが起こっており、地域防衛の必要に迫られたことで館林築城に至ったのでしょう。
ちなみに『足利成氏書状』や『上杉顕定感状』によれば、「立林」もしくは「立林要害」と記されており、現在確認できる最も古い記録とされています。
当時の城の様子について明確な史料はありませんが、絵図が残る館林城の立地とほぼ一致すると考えられています。ちょうど城沼へ突き出た棒状の地形に築かれ、三方を水が囲うような要害だったようです。
長さ800メートル、幅200メートルほどの城域には、東から八幡曲輪・南曲輪・本丸・二の丸・三の丸が並び、ちょうど形が動物の尻尾のようだったことから、尾曳城とも呼ばれています。また古い伝承によれば、恩を受けた狐が尻尾で縄張りを引いたことから名付けられたとも。
さて、室町幕府に支援された上杉方ですが、文明3年(1471)になると、成氏方に対して攻勢を仕掛けてきました。そして利根川を越えると東へ進撃して館林城を囲みます。いっぽう城を守るのは赤井綱秀・赤井高秀の両名でした。
長尾景信・景春、太田道灌らに率いられた6千余騎の軍勢が城を取り巻くものの、攻め口は一つしかないため攻撃は難航を極めたようです。また成氏方の軍勢が城へ武器を運び入れたことから、それを抑えようと上杉方が寝ずの番をしたことが記録に残っています。
対峙すること80日、ついに赤井綱秀が降参を申し入れたことで戦いは落着しました。
上杉氏次いで北条氏の支配下となる
その後、赤井氏は古河公方の権威を背景に、舞木氏に代わって上野国佐貫荘一帯を領しました。また大永4年(1524)には古河公方重臣で、関宿城主・梁田氏と婚姻によって結びついています。その後も古河公方に従って威勢を保った赤井氏ですが、天文15年(1546)の河越城の戦いで、足利晴氏が大敗を喫すると潮目が変わりました。まもなく北条氏の勢力が上野へ及んでくると、他の諸氏とともに従ったといいます。
ところが永禄3年(1560)、上杉謙信が関東へ出陣して争乱が本格化すると、館林城は真っ先に攻撃の矢面に立たされました。北条氏に味方した赤井氏は抵抗の構えを見せるものの、わずか一週間ほどで降参。忍城へ落ち延びたまま、復帰することなく滅亡を遂げています。
上杉家臣・須田栄定はこの時の様子を、「なかなか哀れなる様躰」と表現するほど惨めなものだったようです。
永禄6年(1563)、謙信は新たな館林城主として長尾景長を任命。景長・顕長の二代にわたって長尾氏が支配する時代が続きました。
やがて謙信の死後、後継者争いとなった御館の乱を経て、上杉氏の勢力は関東から後退していきます。また武田氏の滅亡によって関東の情勢は北条氏が俄然有利となり、天正13年(1585)になると、館林城は北条軍の大攻勢に晒されました。
抗しきれなくなった長尾顕長は降参して足利へ退去し、館林城には城代として北条氏規が任命されています。ただし城へ入ることはなかったようで、北条家臣が在番として常駐したようです。
天正18年(1590)年、豊臣秀吉の小田原攻めによって、関東の諸城とともに館林城も落城しました。赤井氏で2度、長尾氏と北条氏で1度ずつ、計4回にわたる落城の歴史を刻んだのです。
榊原康政が10万石で入城。北関東の要衝となる
天正18年(1590)、徳川氏の関東移封に伴って館林城主となったのが、徳川四天王のひとり榊原康政でした。小田原攻めの戦功に加え、知行割りの総奉行を務めたことで、新たに10万石を与えられたといいます。康政はさっそく翌年から城の拡張工事に着手し、従来までの城下町を城の西へ移して整備。文禄年間には城と町を土塁と堀で囲む総構(そうがまえ)を構築しました。また領内の検地を実施するとともに、利根川・渡良瀬川の築堤工事に乗り出し、城下町へ大通り(日光脇往還)を通すなど、領国経営に努めています。
館林藩は康政・康勝・忠次と3代にわたって藩主が続きますが、寛永20年(1643)に榊原氏が陸奥白河へ転封し、一時的に天領となりました。やがて正保元年(1644)になると大給松平家が6万石で入封し、寛文元年(1661)には4代将軍・徳川家綱の弟である綱吉が25万石で移ってきます。
それにしても、なぜ館林に徳川一門や譜代大名が配されたのでしょう?その理由は明白です。日光脇往還は江戸と日光を結ぶ街道で、とりわけ鴻巣~館林~佐野のルートは、館林道と呼ばれるほど交通の要衝として知られていました。
また館林は、利根川と渡良瀬川の水運を抑えるには絶好の位置にあることから、江戸を守る北辺の要地として重要視されたのです。三方を沼に囲まれ、総構で堅固に守られた館林城は、その役目を果たすのにうってつけの城だったのでしょう。
延宝8年(1680)、綱吉が家綱の後継者になるべく江戸城へ去ると、嫡男の徳松が家督を継ぎました。ところが幼くして徳松が亡くなったことで館林藩は廃藩となり、城の大部分は破却されてしまいました。館林は再び天領となったのです。
ちなみに榊原氏時代における館林城の様子は明らかではありませんが、幕府が提出を命じた『正保城絵図』や、その他の絵図によって、当時の様子をうかがい知ることができます。
とりわけ綱吉の時代、本丸には三層天守と二重櫓が建てられ、城沼に面した部分には護岸のためか、石垣が築かれました。また本丸や二の丸の対岸にあたる外郭部は分割され、外郭多分割型の特徴をよく示しています。
松平清武によって館林城が再建される
宝永4年(1707年)に館林へ入封したのが、6代将軍・徳川家宣の同母弟にあたる松平清武でした。幕府に築城計画書を提出して許可を得ると、さっそく館林城の再建に取り掛かったといいます。計画書によれば廃城以前の状態に復する方針であり、わざわざ大給松平氏から館林城の絵図を借用するほどだったとか。ただし利便性を考慮したことから、外郭部に関しては埋め立てによる一体化を図っています。
ちなみに破却前を近世前期館林城と呼び、再建後を近世後期館林城と呼称して区分を明らかにしていますが、再建にあたっては大きな苦難が伴ったようです。
当初は幕府から築城費の援助が見込まれたものの、その額は思ったより少なく、さらに館林藩の財政悪化によって計画は大きく変更を余儀なくされました。その後も普請や作事はいっこうに進まず、100年にわたって再建工事が続けられたそうです。
享保13年(1728)に松平武元が陸奥棚倉へ移封したのち、館林藩は太田氏・松平氏・井上氏・秋元氏と藩主が続いて幕末を迎えました。
やがて明治維新を迎えると、廃藩置県に伴って館林藩は館林県となり、程なくして栃木県(のちに群馬県)の管轄となっています。しかし明治7年(1874)、城下の武家屋敷から出火した火災によって城内の主な建物は失われてしまい、名実ともに館林城はその歴史に幕を下ろしました。
焼け残った建物も部材などが払い下げられ、学校などの建設に再利用されたといいます。敷地の一部は秋元氏や旧藩士らによって買い戻されましたが、城の大部分は近代化の中で、工場用地や学校用地として利用されたそうです。また土塁や堀なども宅地造成や道路整備などで失われ、現在では遺構のほんの一部を残すのみとなっています。
おわりに
関東に散在する多くの城がそうだったように、館林城もまた戦国乱世から幕末まで存在し続けました。しかし他の城と違う点は、残念ながら遺構の多くが失われてしまったことでしょう。かつては城沼に浮かぶ城として知られていましたが、今や埋め立てによって痕跡を見つけることすら難しくなっています。しかし昭和58年(1983)に土橋門が復元され、わずかに残された石垣や土塁に、城の面影を感じることができるでしょう。さらに城下町には歴史的な景観が数多く残され、かつての繁栄ぶりをうかがい知ることができます。
また周辺には「守りの沼」として知られる城沼や、榊原康政の墓がある善導寺、つつじの名勝地・躑躅ケ岡など、見るべきスポットもたくさんあり、館林の歴史を学ぶにはぴったりではないでしょうか。
補足:館林城の略年表
年 | 出来事 |
---|---|
15世紀半ば | 赤井氏によって館林城が築かれる。 |
文明3年 (1471) | 関東管領上杉氏に属する長尾景信らが館林城を攻める。赤井綱秀らが降伏。 |
永禄5年 (1562) | 上杉謙信によって落城。赤井氏は武蔵へ逃亡し、長尾景長が城主となる。 |
天正13年 (1585) | 北条氏の攻撃によって落城。伊豆韮山城主・北条氏規の管理下に入る。 |
天正18年 (1590) | 豊臣秀吉の小田原攻めによって落城。徳川氏の関東移封に伴い、榊原康政が城主となる。 |
元和3年 (1617) | 徳川家康の遺骨が日光山改葬のため、館林を通過。榊原忠次が先導する。 |
正保元年 (1644) | 榊原氏が陸奥棚倉へ移封となり、代わって大給松平乗寿が館林藩主となる。 |
寛文元年 (1661) | 大給松平氏が下総佐倉へ移り、徳川綱吉が館林藩主となる。 |
天和3年 (1683) | 徳川徳松の夭折に伴って廃藩。城が破却されて天領となる。 |
宝永4年 (1707) | 松平清武が藩主となり、館林城の再建が始まる。以後、藩主が太田・松平・井上・秋元と入れ替わる。 |
明治2年 (1869) | 版籍奉還によって秋元礼朝が藩知事となる。 |
明治7年 (1874) | 火災によって城内の主要な建物が焼失。 |
明治18年 (1885) | 初代群馬県令・楫取素彦の指示で城跡が復興され、つつじが岡公園として開園する。 |
昭和58年 (1983) | 三の丸にあった土橋門が復元される。 |
【主な参考文献】
- 峰岸純夫・齋藤慎一『関東の名城を歩く 北関東編』(吉川弘文館 2011年)
- 青木裕美・秋山正典ほか『戦国史 -上州の150年戦争-』(上毛新聞事業局出版部 2012年)
- 木村礎・藤野保ほか『藩史大辞典 第2巻 関東編』(雄山閣 2015年)
- 館林市教育委員会文化振興課『近世の館林城と大名』(2013年)
- 館林市「日本遺産」推進協議会 「館林の里沼(SATO-NUMA)」
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