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【やさしい歴史用語解説】「宿場町」
- 2023/02/17
江戸時代初期に交通インフラが整備され、「五街道」をはじめとする近世の街道が生まれました。「宿場町」は街道の要所を繋ぐ中継点として機能し、江戸時代を通じて栄えたといいます。
たとえば五街道のうち、東海道は五十三次、中山道は六十九次と呼ばれますが、「次ってどんな意味?」と素朴な疑問を持つ方も多いはずですね。実は「次」とは「継ぎ送り」を意味します。
そもそも宿場町にとって重要な役割とは、旅人を宿泊させることではありません。街道はあくまで幕府公用のものですから、公儀の荷物を次の宿場町まで送り届ける役割がありました。そこで各宿に人馬を常備するよう義務付けたのです。
さらに諸大名の参勤交代が常態化してくると、宿泊施設を整備・提供するだけでなく、大名行列の荷物を運搬する仕事も増えてきました。こうなると宿場に常備されている人馬だけでは足りません。このままでは交通の流れは目詰まりを起こしてしまうでしょう。
そこで新たに「助郷」という制度が生まれました。これは宿場の近隣にある村々に人手や馬を提供するよう義務付け、荷物を運ばせることで交通を円滑にする目的があったようです。
とはいえ近郷の村々が協力したところで賃金や報酬はわずかしかもらえず、ほとんどボランティアのように駆り出されたというのが実情でした。
特に日本橋から至近距離にあたる品川宿は活気があり、人馬の往来が激しい宿場として知られていましたが、周辺16ヶ村だけでは助郷の負担があまりに大きく、さらに38ヶ村が助郷に指定されています。
農繁期に人馬を提供することは耕作に支障をきたすことから、農民にとって大きな負担となっていたようです。もし人馬の提供が間に合わない場合、代わりに金銭を差し出すこともあったとか。
表向きは公用であるはずの宿場町ですが、もちろん一般の旅行者も利用していました。江戸時代も後半になると経済や文化が発達し、伊勢参りやこんぴら参り、あるいは湯治といった庶民の旅が盛んになります。宿場町もそんな需要に応えて、現在のように食事を提供する旅館が一般的となったようです。
また地方ならではの料理を出す宿もあったらしく、「桑名の焼き蛤」や「見附の蕎麦切り」といった名物が提供されました。
東海道のような長い街道ですと53もの宿場町が存在しましたが、宿場間の距離は一定ではありません。たとえば水口宿から石部宿のように21キロも距離が離れているケースもあれば、平塚宿と大磯宿のように極端に距離が短い区間もありました。
平塚からゆっくり歩いても大磯まで小一時間ほどで着いてしまいます。普通なら「もう平塚か。まだ陽が高いから大磯まで歩くか」と思うでしょう。ところが平塚の客引きはかなりの商売人らしく、「目の前にそびえる高麗山を登らないと、次の大磯へ行けないよ。日が暮れるから平塚で泊っていきな」なんて誘うわけです。
実際の東海道は高麗山の麓を通りますから、山へ登るのは真っ赤なウソでした。平塚と大磯それぞれの宿場町では、客引きで鎬を削っていたのです。
宿場町は「宿駅」とも呼ばれますが、交通・インフラと経済の交差点でもありました。まさしく現在の駅のような役割を果たしていたと言えるでしょう。
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