※ この記事はユーザー投稿です
【やさしい歴史用語解説】「摂家将軍と宮将軍」
- 2023/10/12
武士たちが作った政治機構である幕府には「征夷大将軍」という職は外せません。なぜなら将軍こそ幕府のトップでありシンボルでした。その存在なくして武家政権は語れないのです。
一般的な見方では「源氏でないと将軍になれない」とされていますが、実はそんなことはありません。坂上田村麻呂だって、南北朝時代を生きた護良親王にしても、ちゃんと征夷大将軍に任じられているのです。
ところで鎌倉時代初期に源氏将軍が絶えた時、将軍不在では幕府の存続は危ぶまれました。そこで摂家将軍や宮将軍たちが鎌倉へ迎えられるのです。
建保7年(1219)に3代将軍・源実朝が暗殺されると、その生母・北条政子は後鳥羽上皇の皇子を鎌倉に迎えて将軍とする計画を立てました。ところが後鳥羽上皇は政争相次ぐ幕府を見限って懇願を拒否し、やがて幕府の転覆を謀って承久の乱を起こしてしまうのです。
戦いに勝利したものの、やはり将軍が不在では幕府は成り立ちません。そこで天皇に次ぐ権力と格式を持つ摂関家に白羽の矢を立てました。尼将軍と呼ばれた政子が亡くなったのち、執権・北条泰時は藤原道家の三男・三寅を鎌倉へ迎えて元服させ、藤原頼経と名乗らせます。そして朝廷から宣下が下り、頼経は征夷大将軍となりました。
北条氏はじめ幕府にとって、武家でない以上、将軍はお飾り同然という認識があったようです。ところが頼経は成長するにつれて幕府の評定に口を挟み、京都に対しても大きな影響力を持つようになりました。また息子に将軍職を譲ったのちも反北条得宗家勢力と結び、その存在の大きさはもはや看過できないものとなっていったようです。
第4代執権・北条経時が亡くなると、まだ20歳だった北条時頼が執権となりました。これを好機に反北条得宗家勢力が動き出し、時頼排除を企てます。これを「宮騒動」と呼びますが、頼経は事件の黒幕として鎌倉を追放処分となり、のちに息子・頼嗣も将軍職を解任されて京都へ送還されました。
こうして摂家将軍は排除されたわけですが、やはり将軍が不在では都合が悪い。そこで時頼は京都の後嵯峨上皇に対し、皇子を将軍に迎えたいと要請しました。これを断れない上皇は宗尊親王を鎌倉に下向させ、ついに宮将軍が誕生するのです。
そののち宮将軍は4代続くのですが、いずれも実権は無きに等しくお飾り同然で、あくまで名目上の存在に過ぎません。最後の将軍となった守邦親王は鎌倉にいましたが、北条氏が滅亡していく中で将軍職を辞し、ひっそりと出家したそうです。
※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。
コメント欄