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大河ドラマ「天地人」に登場しなかった前田慶次郎。原作が描く人物像に迫る

戦国時代の上杉景勝と直江兼続の主従を描いた大河ドラマ「天地人」(2009年放送)は、新潟県出身の作家・火坂雅志さんの同名著書が原作です。そのなかに、「北の関ケ原」と言われた最上氏との戦いで、兼続が老武将から叱咤され、自刃を思いとどまるという名場面が描かれました。

その武将の名は前田慶次郎。ドラマではキャスティングされなかった慶次郎が、火坂さんの原作ではどのように描かれていたのかを見ていきましょう。

直江兼続を主人公にした「天地人」

火坂雅志さん(1956~2015年)は、時代小説の作家として、とくに戦国時代の武将などを題材とした多くの著書を残しました。「天地人」は代表作の一つで、上杉家の名参謀と言われた直江兼続の生涯をドキュメンタリータッチで描いています。

兼続は、樋口与六と呼ばれていた若き日、上杉景勝に小姓として仕え、名将の上杉謙信から直々の薫陶を受けて成長します。謙信の急死後に起きた家督相続争いでは、景勝を支えて激烈な戦いに勝ち、家老の直江家の婿養子となって直江兼続と名乗るようになったのです。

時代は下り、豊臣秀吉の死去後に天下の実権を握った徳川家康が、謀反の疑いがあるとして上杉討伐軍(当時の上杉家は会津の領主)を進軍させます。兼続は、大軍勢を迎え撃つ準備を整えますが、石田三成らの挙兵で家康が引き返したため、対決には至りませんでした。

庄内地方をめぐって敵対関係にあった最上義光が、家康方についたこともあり、上杉軍は兼続を総大将として最上領の山形へと進軍を始めます。この時、従軍していた武将の一人が、前田慶次郎だったのです。

「天地人」に見る慶次郎と兼続との出会い

前田慶次郎は、漫画「花の慶次」の主役として人気キャラクターとなり、戦国武将のなかでも指折りの有名人となりました。ただ、史実としての慶次郎は、生没年月日や本名すら正確には伝わっておらず、前田利家の兄・利久の後妻の子だったようです。

「天地人」に慶次郎が最初に登場するのは、天正18(1590)年の秀吉による小田原征伐の時でした。秀吉方の連合軍として上杉、前田の両家が合流し、北関東の北条方を攻撃。猛攻に耐えられずに降伏した敵将に対し、兼続は礼を持って接したのです。

兼続の振る舞いを「士道」と知った慶次郎は、彼のような人物を重用している上杉家に親しみを持つようになります。一方で、前田家の主だったおじの利家とは折り合いが悪かったらしく、間もなく前田家を出奔(しゅっぽん)してしまうのです。

時はちょうど、秀吉が天下統一を果たし、国内に争いがなくなったかにみえた頃。慶次郎は、京都で貴人や文人と交流したり、諸大名の邸宅に遊びに出かけたりするなど、悠々自適の暮らしをしていたと伝わっています。

上杉家に仕官する慶次郎

慶長3(1598)年、上杉家は越後から会津へと加増移封の命を秀吉から受けます。父祖の地である越後を離れるのは断腸の思いだったでしょうが、徳川家康や東北の諸大名たちの監視役として、秀吉が最も信頼できる景勝を抜擢したのでした。

「天地人」では、景勝の会津移封に合わせて、新たに召し抱えた者のなかに前田慶次郎が名を連ねています。米沢城主となった兼続の与力として、1千石の組外扶持方(くみほかふちかた)という、組織には入らない自由な身分での採用となったそうです。この時、慶次郎は60歳前後の年齢だったといい、上杉景勝に謁見した際には、土の付いた大根3本を盆の上に乗せて差し出し、「この大根のように見てくれは悪いですが、噛めば噛むほど味が出ます」と言上したそうです。

秀吉の死により、天下は風雲急を告げます。臣従を強いられてきた徳川家康が、天下取りに向けて動き始めました。上杉家も、天下を二分する争いの渦に巻き込まれてしまい、やがて宿敵である最上家との戦い「北の関ケ原」が勃発するのです。

自決覚悟の兼続に「生きよ」と叱咤

兼続を総大将とした上杉軍に慶次郎も従軍します。「天地人」では、従軍した者たちの名前を列記したあと、「目を引いたのは前田慶次郎」だとして、慶次郎のいでたちを細かく解説しています。まさに「かぶき者」にふさわしい派手さだったようです。

長谷堂城をめぐる攻防では、最上攻略の拠点にするか、領国を守り切るかという両軍の激しい戦いが繰り広げられていました。その最中、兼続の元に「関ケ原で家康が大勝利をおさめた」との知らせが届きます。上杉軍は窮地に追い込まれてしまうのです。

兼続は全軍に即時撤退を命じ、自らがしんがりを務めます。徳川方勝利により、上杉家への苛烈な戦後処理は避けられません。こうなったのは自分のせいだと兼続は思い、撤退戦の中で自刃することを密かに決意するのです。そこに慶次郎が現れました。死をもって責任を取ると主張する兼続に、慶次郎は殴りつけ、こう告げたのです。

「おまえがここで死んだところで犬死でしかない。これから上杉家は大変なことになる。もしも責任を感じるのなら、おまえの力で上杉を支えろ。醜い姿をさらしてでも支えろ。生きて責任を果たせ」
※火坂雅志「天地人」下巻

兼続に代わって、しんがりの役目を買って出た慶次郎は、朱塗りの槍をたずさえた4人の武将とともに、追撃してくる敵に前に立ちはだかります。彼らの奮闘もあって、兼続をはじめとする上杉軍は見事に撤退を完了させたのでした。

おわりに

徳川家康は、上杉家への処分として会津120万石から米沢30万石に減封しました。上杉家を去っていく者も少なくなかったなかで、慶次郎は禄高が大幅に減ったのにもかかわらず、「仕えるのは上杉家以外にない」として米沢の地にとどまったのです。

火坂雅志さんの「天地人」で、前田慶次郎は、上杉家を「義に厚い家中」だと評価する人物として、その熱い生きざまとともに描かれました。慶次郎が余生を過ごした地は「無苦庵(むくあん)」と名付けられ、今も地域の方々が大切に守り続けています。

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  この記事を書いた人
マイケルオズ さん
フリーランスでライターをやっています。歴女ではなく、レキダン(歴男)オヤジです! 戦国と幕末・維新が好きですが、古代、源平、南北朝、江戸、近代と、どの時代でも興味津々。 愛好者目線で、時には大胆な思い入れも交えながら、歴史コラムを書いていきたいと思います。

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