「前田慶次郎」は義を重んじた生粋の傾奇者だった!
- 2021/11/18
前田慶次郎(まえだ けいじろう)と言えば、マンガや小説の中では2m近い身長で豪快な傾奇者というイメージが定着しているように思う。ところが、これらは一次史料ではない『武辺咄聞書』や『常山紀談』などに収められた逸話がベースになっており、史実とはだいぶかけ離れているという。それでは信頼の置ける史料にはどのような姿が記されているのであろうか。
前田家の養子に
前田慶次郎こと前田利益は、実は前田一族ではない。その実父に関しては、滝川一益の一族であるというところまではわかっているが、それ以上のことは未だ判明していないという。生年も諸説あり定まっていず、かなりメジャーな人物の割には謎だらけの人物である。足跡が比較的はっきりし始めるのは前田利家の兄である利久の養子になってからのことであろう。当時、前田家の家督は利久が継いでいたから、そのままいけば慶次郎が家督を継ぐ可能性もあったわけだ。
ところが永禄10(1567)年、状況は一変する。
『村井重頼覚書』によれば、この年信長は利久を『武者道御無沙汰』であるとして隠居させられてしまう。要は利久が病弱で実子もなく、大した働きもできそうにないと信長は判断したというわけだ。
ただ、これはあくまで表向きだという説もある。実のところは小姓上がりで赤母衣衆(あかほろしゅう)に抜擢されていた利家に家督を継がせることで、前田家の統制をやり易くする狙いがあったというのだ。
この一件の後、慶次郎は荒子城を出て、荒子城下に屋敷を構えていたらしい。 『乙酉集録』に収められている「尾州荒子御屋敷構之図」によれば、荒子城南東に「慶次郎屋敷」が記されているのがわかる。
5千石拝領
荒子城を出てからの慶次郎の行状については1次史料にほとんど記載がなくよくわからない。利久と共に放浪生活を送り、京で暮らしていたという説もあるが、信憑性の程は不明である。その名が再び史料に登場するのは天正9(1581)年のことであった。利家が能登一国を拝領し、その配下に付いた慶次郎が5000石を拝領したのである。
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本能寺の変
天正10(1582)年6月2日未明、本能寺の変により信長は斃れる。このとき、慶次郎は滝川隊の先手となったという記述が、真田家の史料『加沢記』に見える。しかし利家の配下にいたはずの慶次郎が、どういう成り行きで滝川一益の軍にいたのだろうか。
その答えもまた『加沢記』にあった。
本能寺の変の少し前に甲州征伐が完了するが、滝川一益はその後は上野に戻った。その軍の中に慶次郎がいたと同書には記されている。つまり、甲州征伐の時点で慶次郎は滝川軍として参戦していたということになる。この記述からも慶次郎がそもそもは、滝川一族であるということがうかがえるのではないだろうか。
話を元に戻そう。本能寺の変後、尋常でない速さで中国地方から畿内に帰還した羽柴秀吉は、山崎の合戦で明智光秀を下す。これを機に、天下は秀吉中心に回り始めたと言ってよい。盟友である利家が、秀吉に引き立てられていく中で、慶次郎も秀吉方として行動するのは当然の流れであったろう。
天正12(1584)年の小牧・長久手の戦いでは本戦には参加していないが、北陸の末森城の戦いで佐々成政に攻撃を受けた前田方の救援に向かっている。この際、慶次郎は巧みな采配で佐々勢の背後に回り込んだという。これを合図に末森城から軍勢が出撃し、佐々勢は挟み撃ちとなった。結果、佐々勢は約750名もの戦死者を出し、敗走する。
翌天正13(1585)年に、慶次郎は佐々方から寝返った菊池武勝の阿尾城に入り、これを奪還しようと目論む神保氏張の軍と交戦。このときも、慶次郎の采配は冴えていたといい、劣勢を見事跳ね返して神保勢を撃退している。
これらの功により慶次郎の武勇は広く知られるようになったようだ。
天正18(1590)年、秀吉の小田原征伐が始まった。利家は北陸方面軍を任されると、慶次郎もこれに従い従軍している。この途中に上杉勢と共に関東に入り、松井田城や八王子城等を攻略したという。
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前田家出奔
前田家の一員として、着々と実績を積み重ねているかのように見えた慶次郎であったが、突如として前田家を出奔する。出奔した時期は諸説あるが、どうやら1590年以降のことであるらしい。出奔の理由については、利家との不仲説、養父利久の死により前田家にとどまる理由が無くなったなど諸説あるが、はっきりしていない。ただ、出奔に随行した野崎知通は、利家の嫡男・利長と不仲であったと述べているから、そのことで利家と揉めた可能性はあるだろう。
私が注目したのは出奔の際に、慶次郎の妻と嫡男の正虎が随行しなかったことである。妻(正虎の母)は利家の実兄・安勝の娘であるから、正虎はれっきとした前田一族である。つまり、家族の中で慶次郎だけ前田の血が入っていないのだ。
養父の利久が死去してからは特に、前田を名乗りながら前田の血が入っていないことに対する違和感が強くなったのではないか。その違和感は、おそらく前田家に養子として入ってからずっと心の奥底にあったように思う。
養父の利久には恩義があったし、利家は若い時分に慶次郎同様傾奇者だったという経歴があったから、親近感を覚えていた可能性はあるだろう。意外にこのことが、慶次郎の心のよりどころになっていたのかもしれない。
ところが、養父利久が死去し、豊臣政権が天下統一を完成させていく過程で、前田家が100万石に迫る太守となっていくにつれ、政治的な仕事が多くなっていったに違いない。おそらく、慶次郎は謀略渦巻く政治の世界とそりが合わなかったのではないか。そう考えると、出奔後にひとまず京に向かったというのも、何となく頷けるのである。
そもそも、慶次郎は連歌、茶の湯、そして源氏物語などの古典に通じた教養人であった。1582年頃には既に、「似生」(じせい)という雅号で京の連歌会に参加したという記録が『連歌総目録』に残されている。
これを踏まえると1567年に荒子城を出てからの慶次郎は、やはり京に向かったのではないだろうかと思いたくなる。ちなみに、天正16(1588)年にも上杉家家臣の木戸元斎宅で開かれた連歌会に出席していることが確認でき、上杉家との縁がこのころからあったのかもしれないと思うと、非常に興味深い。
無苦庵
京での自由気ままな生活は、慶長3(1598)年頃に突如終わりを告げる。この頃から慶次郎は会津の上杉景勝に仕えるようになったという。上杉家には、浪人たちを集めた「組外衆(くみそとしゅう)」という組織があり、慶次郎はそのトップとして1000石の禄をもらうことになったようである。
上杉に仕えた1つの理由として、景勝の「義」を重んじる姿勢や人格を高く評価していたのはもちろんだろうが、重臣の直江兼続と親交があったことも大きかったであろう。
兼続は慶次郎同様文化人としての評価も高く、特に漢詩に関しては江戸中期の儒学者新井白石をして「詩の才能があるのは疑いない」とまで言わしめた程であった。兼続は連歌も得意であったので、連歌会を通じて知己を得た可能性は高い。
そして、もう1つの理由は、1598年という時期にあるのではないだろうかと私は睨んでいる。この年は太閤秀吉が死去するという時代の大転換点であった。
秀吉亡き後、家康が台頭することは明らかであり、それを警戒した慶次郎は五大老の1人である上杉景勝、そして直江兼続と共に戦うことを決意したのではないか。
慶長5(1600)年2月、景勝は神指城の築城を開始している。実は、景勝の動向は近隣の最上義光らによって家康に報告されていて、築城を始めとする一連の行動が軍事力増強と見なされてしまう。
家康は同年4月に問罪使を景勝の元に送り、上洛の上弁明するよう求めた。一方の景勝は兼続の書状を家康に送りつけた。これが、いわゆる「直江状」である。
直江状については、その真贋を巡って多くの説が存在するが、この書状によって家康が会津征伐を決意したということは事実のようであるから、少なくとも徳川方はこの書状を征伐の口実にしたいと考えていたことはわかる。
7月19日、徳川秀忠を総大将とする征伐軍が会津に向けて進軍を開始する。その数日後、石田三成の挙兵を知った家康は会津征伐を中止し、西へ軍を反転させた。
9月15日、関ヶ原の戦いの本戦が開始される。同じ頃、上杉軍は西軍として最上軍と交戦中であった。慶次郎も上杉方としてこの戦に参加していたが、長谷堂城包囲戦の最中の9月29日に関ケ原にて西軍大敗の報が兼続にもたらされる。
この報に衝撃を受けた兼続は、自害しようとしたという。これを諫め、撤退を決意させたのが慶次郎であったとも言われている。
撤退戦において、慶次郎は殿(しんがり)を務め長槍を手に獅子奮迅の活躍をする。兼続は鉄砲隊を指揮しながら最上軍の攻撃をしのぎきり、無事居城である米沢城に帰還したのだ。
ちなみに敵将の最上義光は、この撤退戦を「上方にて敗軍の由告げ来りけれども、直江少しも臆せず・・・(中略)・・・誠に景虎武勇の強き事にて、残りたりと、斜ならず感じ給う」などと高く評価している。
家康もこの撤退戦を絶賛し、後世まで語り草になったというから大したものだ。
関ケ原の戦い後、慶次郎は上杉家重臣・本庄繁長(ほんじょうしげなが)と共に京へ向かっている。この上洛は家康との講和を交渉するためであった。
上杉家は取り潰しは免れたものの、会津120万石から米沢30万石と大幅に減封される結果となる。当然のことながら、家臣達の中には上杉家を去る者が続出したという。その中にあって慶次郎は「私の主君は景勝様ただ1人」とし忠義を貫き続けた。
米沢移封となってからの慶次郎の足跡には2つの説がある。
1つは前田家の記録によるもので、それには再び浪人となった慶次郎は会津にとどまり、その地で生涯を終えたことになっている。もう1つは上杉家の記録で、それによると慶次郎は景勝に付き従って米沢へ移り住み、堂森地区の無苦庵で余生を過ごしたという。
上杉家の記録のほうが信憑性があるのではないかというのが私の見立てである。それは、慶次郎が無苦庵での生活を綴った『無苦庵記』が残されているからである。
最晩年については、米沢で死去したという説や米沢で痞(つかえ)という病を発症し保養のため大和国に移り住み、その地で没したという説もあり、判明していない。ただ、後者の説は慶次郎に随行した野崎知通の遺書に書かれているものであるから、信じる価値はあるかも知れない。
生年も没年もはっきりしていないため、享年は不明である。
あとがき
信長や利家にしても若い頃は傾奇者として知られていたが、長ずるにしたがってその奇行は鳴りを潜めていった。ところが慶次郎の傾奇ぶりは晩年になっても収まらなかった。先の野崎知通の遺書には大和国に移り住んだ後も度々京に上り「犯惑」に及んだとの記述がある。彼の目には江戸の世になり、お行儀は良いがつまらない人間が増えてきたように移り、そのことに異を唱えたかったのではないか。慶次郎は天下一真面目な傾奇者だったと私は思い始めている。
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【主な参考文献】
- 歴史街道編集部『前田慶次郎 (「歴史街道」セレクト)』PHP研究所 2009年
- 池田公一『戦国の「いたずら者」前田慶次郎』宮帯出版社 2009年
- 今福匡『前田慶次― 武家文人の謎と生涯―』新紀元社 2005年
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